旅出
俺たちは、世界の不具合を治す旅に出た。
「どうやって世界中を回るの?」
「これに乗るのさ」
フェルが、指をくわえ口笛を吹く。その音が、大空へ響き渡っていく。次の瞬間、何かが迫ってくる音がした。
空気が、震えた。最初は、ただの風だと思った。
しかし、違った。もっと重く、もっと深い振動。
低く響く、羽ばたきの音。
俺は、反射的に空を見上げる。雲の向こうから、巨大な影が降りてくる。
影は、徐々に輪郭を持ち始めた。
金属のように鈍く光る翼。夜を溶かしたみたいな黒い体。長い首と、鋭い嘴。
それは、俺たちの目の前に降り立った。
地面が、わずかに沈む。
「生き物なのか?」
俺が呟くと、フェルは軽く笑った。
「まあ、そんなところ」
ティリルが、その首筋に手を添える。まるで、愛馬のように。
それは、小さく喉を鳴らした。
スイは何も言わず、背中に飛び乗る。
「早くしろ」
短く、それだけ。
スクレは、一瞬だけ俺を見てから、静かに乗った。
白い布が、風に揺れる。
フェルが、手を差し出す。
「大丈夫。落ちないから」
俺は、その手を取る。引き上げられ、背に跨る。
温かかった。かすかに、鼓動みたいな振動が伝わる。
ティリルも、軽やかに乗る。
「しっかり掴まってね」
翼が、大きく広がった。空気が裂け、地面が遠ざかる。
街が、みるみる小さくなっていく。
雲に突っ込んだ。
冷たい霧が、頬を叩く。
視界が、一瞬、真っ白になる。
その瞬間、世界が、切り替わった。
雲を抜けた先には、灰色の空があった。
湿った空気。どこか古い石の匂い。
俺は、下を見る。
石造りの街並み。蛇みたいに曲がる川。
そして、高く、空へ突き刺さる巨大な時計が、そこにあった。
霧の都の時計台は、テレビで見たままの姿だった。霧が作り出す幻想的な光景に、心が奪われる。
俺たちは、時計台の上空を旋回する。
やがて、ゆっくりと降下する。
石畳に、静かに降り立った。音が、やけに遠く感じる。
街は、確かに存在しているのに、どこか、時間から切り離されたみたいだった。
「ここ、少しズレてる」
フェルが、見上げて言った。
ティリルが、小さく頷く。
「時間の流れが、ほんの少しだけ狂ってる」
スイは、すでに歩き出していた。
「来い」
俺たちは、塔の中へ入る。
石の階段。
湿った空気。
歯車の音。
重たい機械の鼓動が、建物全体を揺らしていた。
やがて、巨大な時計機構の前に出る。
金属の針が、ゆっくりと動いていた。
「これだ」
スイが、無言で工具のようなものを取り出す。スクレは、少しだけ、下を向いた。
ティリルは、優しく言った。
「すぐ終わるから」
俺は、ただ見ていた。
金属が、外れる音。重たい針が、ゆっくりと取り外される。
何か、大きなものに触れてしまった気がした。
「これは何の不具合を治したの?」
ビックベンから降りながら、隣にいたティリルに問いかける。
ティリルは、少しだけ空を見上げた。
霧の向こうで、塔の輪郭がぼやけている。
「時間ってね」
静かな声だった。
「まっすぐ流れてるように見えて、本当は、何層にも重なってるの」
俺は、黙って聞いていた。
「過去と今と未来が、きれいに並んでるわけじゃない。少しずつ、重なったり、ズレたりする」
石の階段を降りる足音が、重く響く。
「この時計は、その“基準”のひとつだったの」
「基準……?」
ティリルは、小さく頷いた。
「世界中の時間の“流れ方”を揃える、支点のようなもの」
フェルが、後ろから軽い口調で続ける。
「でもさ、長い時間の中で、余計な歪みが溜まることがあるんだよね」
彼は、まるで雑談みたいに言った。
「それで、そのまま放っておくと、時間そのものが割れる」
不思議と現実味があった。
「だから、取り除いたの?」
「うん」
ティリルは、柔らかく笑った。
「本来の流れに、戻すために」
その笑顔は、優しかった。だから、俺は信じてみることにした。
塔の外へ出る。
霧が、ゆっくり流れていた。
さっきまで鳴っていたはずの鐘の余韻が、なぜか、今は思い出せなかった。
フェルが、大きく伸びをする。
「よし。一個目、終了」
軽い声。まるで、小さな作業を終えたみたいに。
スイは、何も言わなかった。ただ、塔を一度だけ振り返った。
その目は、ほんの一瞬だけ、強く、何かを押し殺しているように見えた。
スクレは、黙ったままだった。白い布の奥で。
フェルが、手を叩く。
「次、行こうか」
ドラゴンが、静かに翼を広げる。俺たちは、再び背に乗る。
霧の都が、ゆっくり遠ざかっていく。
その時、ほんの一瞬だけ、塔の影が歪んだ気がした。しかし、すぐに、霧の中に溶けた。
「次は、もう少し派手だよ」
フェルが、振り向かずに言う。
「どこ?」
俺が聞く。
フェルは、少しだけ笑った。
「神話の残骸が、眠ってる場所」
その言葉の意味を、俺はまだ知らなかった。
雲を裂き、俺たちはさらに南へと飛び続けた。
灰色だった空は、いつの間にか濃い青へと変わっていた。
空気が、少しずつ重くなる。湿度を含んだ、まとわりつくような風だった。
やがて、下に広がる景色が変わった。
深い緑。どこまでも続く、木々の海。
ドラゴンが、ゆっくり高度を下げる。
枝葉が、空を覆い隠していく。
そして、俺たちは、地面へと降り立った。
湿った土の匂い。虫の羽音。遠くで鳴く、名前の知らない生き物の声。
鬱蒼としたジャングルに、足を踏み入れる。足元の土は、柔らかく沈む。靴が、わずかに湿る。
フェルが、軽く背伸びをする。
「ここ、いいだろ?」
聞き馴染んできた軽い声。
俺は、周囲を見渡す。巨大な木々。絡みつく蔦。光を遮る葉。
自然の圧倒的な密度。
そして、その奥に、石の影が見えた。
俺たちは、無言で歩き出す。
湿った葉を踏む音。水が流れる音。
やがて、木々の密度が、少しだけ薄くなり始めた。
古代遺跡が、立っていた。
崩れかけた石柱。苔に覆われた階段。半分、ジャングルに飲み込まれた巨大な門。
思わず、息を呑む。
古代遺跡の前に立ち、冒険の香りに、少しだけテンションが上がる。
思い出した。この感覚だ。何かを「面白い」と思う、この感情。
フェルが、振り返る。
「いい顔してるじゃん」
俺は、何も言わなかった。ただ、遺跡を見ていた。
ティリルが、石壁に触れる。
「……ここ、かなり古い」
スイは、周囲を警戒するように見渡している。
スクレは、門の前で、立ち止まった。白い布が、わずかに揺れる。
フェルが、石の門に手を置く。
「ここに、“残骸”がある」
「残骸……?」
フェルは、少しだけ笑った。
「昔、世界を支えてた“何か”の欠片」
また、軽い言い方。なぜか、背筋が少しだけ冷えた。
「長居はするな」
スイが、低く言う。
スクレが、ほんの一瞬だけ、俺の方を見た。
フェルが、門を押す。重たい石が、ゆっくりと開く。
暗闇が、口を開けた。
「行こう」
その声に、俺は、頷いた。
俺たちは、ジャングルの奥に眠る神話の残骸へと、足を踏み入れた。




