夢痕
それからしばらくの間、俺たちは変わらず夢の中で会い続けた。
名前も知らない町を巡ったり、海を見に行ったり。
何も変わっていないはずだった。
しかし、少しずつ、友香は静かになっていった。
前みたいに、途切れなく話しかけてくることは減った。笑う回数も、ほんの少しだけ減った気がした。
俺が「大丈夫?」と聞くと、必ず笑って、
「大丈夫だよ」
そう言った。だから俺も、それ以上は聞かなかった。聞いてはいけない気がした。
ある日、夢の中の空は、やけに白かった。雲も、太陽も、どこか輪郭が曖昧で。
俺たちは、線路の上に座っていた。友香の方から何も話さなかった。
「現実ってさ、」
ぽつりと、友香が言った。
「やっぱり、現実なんだよね」
「……そりゃ、まあ」
うまく答えられない。
「この世界、綺麗だけど」
友香は、レールの上を指でなぞる。
「ずっと、いられる場所じゃないよね」
胸の奥が、少しだけざわついた。
「なんで?」
自然に、そう聞いていた。友香は、少しだけ笑った。
「なんとなく」
嘘だと、すぐに分かった。
「真司君、私と一緒に逃げてくれる?」
「どこに?」
俺は深く考えず、問いの言葉な投げかける。
「ううん、何でもないよ。忘れて」
無理やり作った友香の笑顔を、俺は一生忘れる事が出来なかった。
沈黙が、線路の上にゆっくり落ちていく。
遠くの景色は、白くぼやけたままだった。空と地面の境目さえ、少し曖昧に見える。
俺は、何も言えなかった。
さっきの言葉を、聞かなかったことにしていいのか、それとも、もう一度、聞き返すべきなのか。分からなかった。
ただ、胸の奥に、小さな棘みたいな違和感だけが残っていた。
「友香」
「ん?」
いつもと同じ返事。
「……どこにも行かなくていいよ」
気づいたら、そう言っていた。友香は、少しだけ目を見開く。
「逃げなくてもいい、ここじゃなくても。俺、いるから」
そう言いながら、自分でも上手く言葉に出来ていないと思った。
友香は、しばらく何も言わなかった。そして、小さく笑う。
「ずるいなあ」
どこか、泣きそうな声だった。
「そういうことを普通に言うところ」
俺は、何も言えなかった。
線路の上を、風が通り抜ける。仮初なこの世界に、風なんてあるはずなのに。
「真司君」
友香が、少しだけ身を寄せてくる。
「私ね」
言葉が、少し震えている。
「この世界が好きだったよ」
その言い方が、まるで過去形に聞こえて、俺の心臓が、強く鳴った。
「でもね、」
友香は、空を見上げた。
「……現実も、ちゃんと生きなきゃいけないんだと思う」
俺は、返事が出来なかった。正しい言葉だったから。
それでも、その言葉に納得したくなかった。
しばらくして、友香が、立ち上がる。
「行こう」
俺たちは、同じ方向を向いて、歩き始めた。
しかし、俺と友香には、少しだけ距離が出来た気がした。
今日の夢が終わる頃、友香が俺の手を握ってきた。少しだけ、痛いくらいに。
「またね」
「またな」
その言葉が、いつもより、重く聞こえた。
夢から覚めたあと、俺は、しばらく天井を見つめていた。
友香のあの言葉が、頭から離れない。分からない。
でも、きっと俺が思っているより、ずっと現実的で、ずっと、どうしようもないものなんだろう。
スマホを手に取る。意味もなく、画面をつける。
――午前二時四十分。
眠気は、もう来ない。窓の外では、まだ暗闇が世界を支配していた。
次の日の夢は、やけに静かだった。いつもなら、どこかで電気が揺れていたり、遠くの街の光が瞬いていたりするのに。
その日は、世界そのものが、息を潜めているみたいだった。
俺と友香は、イルミネーションの外れにある小さな広場にいた。
地面には、小さな電球が星みたいに埋め込まれていて、踏むたびに、かすかに光が揺れる。
友香は、その光を避けるみたいに、ゆっくり歩いていた。
「綺麗だね」
「うん」
短い返事だった。
少しして、俺たちは並んで座る。肩と肩が、触れるか触れないかくらいの距離。
友香は、何も言わなかった。だが、その顔は何かを考えていた。
「真司君」
「ん?」
「……もしさ」
言葉が止まる。
「……もし、私が」
そこまで言って、友香は首を振った。
「ううん、なんでもない」
その時、重たい眠気が、頭の奥から押し寄せてきた。
――あ。
分かる。これは、もうすぐ目が覚める時の感覚。
でも、今日は、やけに強く、あまりにも早かった。
まぶたが、重い。意識が、引っ張られる。
「……真司君?」
友香の声が、届く。俺は、必死に目を開ける。
友香が、すぐ目の前にいた。不安そうな顔で、何かを言いたそうだった。
俺は、言おうとした。
大丈夫だよ、また明日な、って。
しかし、声が全く出なかった。眠気が、容赦なく、意識を削っていく。
世界の光が、少しずつ遠ざかっていく。
友香の手が、俺の服を掴む。
そして、友香が、口を開く。
「もう行っちゃうの?」
友香の顔は、切なさの色が濃くなっていた。
更に、眠気が襲い来る。容赦のない攻撃に、明確な意思を感じた。
「友香、ごめん」
自然の摂理に、人間が入り込める余地はなかった。
「・・・な・・・に・・・て・・・・う・・・・よ」
この世界から去る刹那、友香が何か語りかけたのが聞こえた。
俺は、本当の別れを知らなかった。別れは出会いの始まりと誰かは言うが、それは違うと思う。別れは別れだ。
次に夢を見た時、俺はひとりだった。
いつもなら、どこかに友香の気配がある。姿が見えなくても、『あ、近くにいるな』って分かる。
でも、その日は、何もなかった。
「友香?・・・」
声に出してみる。返事はない。
俺は、歩き出す。
あの広場。
あの線路。
あの海へ続く道。
どこにも、いない。
胸の奥が、ゆっくり冷えていく。
その時、足元に、白いものが落ちているのに気づいた。
小さな封筒だった。
この世界に、こんなものがあるはずがない。
でも、それは確かに、俺に向けて置かれていた。
ゆっくり拾い上げる。表には、少し震えた字で。
『真司君へ』
喉が、ひどく乾いていた。
俺は、その場に座り込り、封筒を、開けた。
『親愛なる真司君へ
初めて会った時のことを覚えていますか。私は、覚えているよ。独りだと思っていたこの世界で、真司君と出会えて本当に良かった。
君がこの手紙を見ていないことを願って書いています。だって、これは、もしもの時のための手紙だから。
でも、だからこそこの手紙を書こうと思います。
知らない街の知らない場所で、誰にも知られないまま、あなたと何も残らないように生きてみたかった。
この世界で歩いた線路も、見上げた星空も、静かな海も、全部、全部、大切な思い出です。
いつか君と現実の世界で会えることを夢見ています。もし会えたら、その時は、普通に笑って話せたらいいな。
薄っすら気が付いていたけど、私と真司君が住んでいる世界は違う世界だと思う。それでも、私は真司君と出会えて良かった。
真司君と過ごした時間は、夢だったとしても、私にとっては、本物でした。
真司君は、優しくて、まっすぐで、少し不器用で。でも、そういうところが、すごく好きでした。
もし、これから先、夢で会えなくなってしまっても。
どうか、自分を責めないでください。どうか、ちゃんと現実を生きてください。
私は、ちゃんと大丈夫だから。
……って書くと、少し嘘っぽいかな。
でも、最後くらい、少しだけ格好つけさせてください。
あなたと出会えて本当に良かった。ありがとう
友香より』
友香と出会ってからは、一日を終えて眠るのが楽しみに変わっていた。
友香といる時、俺は心からの笑顔を作れていたと思う。そして、友香も笑顔だった。
手紙を丁寧にしまいながら、大粒の涙が出てくる。俺は、それを止めようとしなかった。
ペタリコールが香る大都市で、友香の匂いが消えていた。
俺の涙腺が乾ききった頃、睡魔が襲ってきた。
目を開ける。見慣れた天井だった。手の中には、まだ、何かが残っている気がした。俺の枕は、濡れていた。体は回復しているはずが、水を被ったように重くなっていた。
そして、一日がいつものように流れ始めた。悲しみを帯びた一日が。




