変化
目が覚めたら、またいつもの天井だった。一瞬、不安がよぎるが、窓の外から聞こえる小さな騒音が少しの希望をもたらしてくれた。良く寝た感じがあり、体の疲れは皆無だった。
少し心が軽くなったのを感じながら、下に降りるとお母さんが台所に立っていた。
「そんなところで突っ立てどうしたの?」
母のいつも通りの顔を見ると、安心の波が押し寄せてきて、冷たく固まっていた何かが解けていく。長い長い悪夢からの解放に、心の底から安堵する。
何の変哲もないいつもの一日を送る。しかし、あの夢の記憶は、昼になっても、夜になっても消えることは無かった。心の隅に、どんなに小さくとも消えない異物がある。それは、不安に似た何かだった。
誰かが言っていたが、寝不足はすべての悪の元凶になるらしい。あの夢が怖くて、寝るのを後回しにしていた。日を跨いで数時間たった頃、ようやく俺は寝床に入る。
眠りに落ちる刹那、一抹の不安を覚える。しかし、不安というものは当たるのが、世界の常らしい。
目を開けると、再び世界は誰もいなかった。俺に得体の知らない恐怖が襲うが、夢という事実が余裕を生んでくれた。そして、他責の念はすぐに増幅していった。
自分の部屋から一歩も出ず、布団を頭からかぶり続ける。目を固く瞑り、必死に恐怖を追い出そうとした。追い出そうとすればするほど、不安は俺の背中に近づいてきた。恐怖が俺の肩に触れそうになった時、俺は声にもならない叫びを上げながら、布団を跳ね除けて家を飛び出す。靴を履く暇なんてなかった。
走り続ける。ただただ走った。そんなことをしたって、恐怖からも不安からも逃げ切ることは出来ない。そんな簡単なことは、知っていた。それでも、夢の中の俺の足は、動き続けていた。
気が付けば、周りの景色が変わっていた。不安は、俺の背中を音を立てて間近まで迫っている。それは変わっていないが、ただ、不安までの距離は少しだけ広がっていた。
その僅かな距離が、俺に後ろを振り向かせてくれた。知らない土地で、家々が建ち並ぶ。現実では一つ一つの家に人が住んでいて、それぞれの生活を営んでいる。そんな妄想をしていると、少し心にスペースが出来た。
マンションや団地も、当然の如くそこにあった。マンションの屋上を目で追っていたら、青空に気づく。雲一つのなく、この世界に似つかないきれいな大空。少しばかりの希望と勇気の芽が、俺自身の中に生えたのを、俺は知らなかった。
恐怖とは、共存できない。しかし、不安は中々離れてくれない。少なくとも、未熟な今の俺には、不安との決別は不可能だ。俺は決別の方法をしりたい。喉から手が出るほどに。でも、その答えは、手の届かないところにあると思った。
夢で過ごす時間が長くなっていくにつれて、この世界について少し分かったことがある。
眠りから覚める時は、唐突の眠気に襲われること。眠りから覚めても、記憶は維持されること。現実世界の一睡は、夢の世界での三、四日に値すること。そして、眠ると必ずこの世界に来ること。あと、不思議なことにこの世界は、電気が通っているようだった。
三度目の夢の世界に来た。流石に慣れて来た俺は、気づいた。この世界は、思ったよりも退屈だということ。現実世界で出来ないことをしたくなった俺は、線路を歩いて、旅に出ることにした。
線路なんか歩いて大丈夫かって?逆に聞こう、夢の中に法律があると思うかい?
線路上を歩くことにした理由は、単に現実世界で出来ない方法で旅をしてみたくなったから。
最寄りの駅の改札を、無銭で潜り抜ける。少しの罪悪感は、まだ見ぬ景色の期待感で打ち消された。
無人のホームから慎重に飛び降りて、線路上に立つ。線路から見下ろす町は、普段と変わらぬ表情をしていた。
徐々に変わりゆく町々の表情を眺めながら、線路上を散歩する。陽気な風に吹かれ気分がいい俺は、鼻歌を奏でていた。
視界良好な今なら、どこにでも行けそうな気がした。
飽きることなく、歩き続けた。駅を何駅も通り過ぎていく。いつの間にか、建物の数が少なくなっていき、徐々に緑が視界の中に入ってきた。
俺の目の前には、トンネルがあった。左右は、山に囲まれている。
トンネル内から、光が漏れ出ていた。俺は、恐怖心よりも大きかった好奇心に背中を押され、歩き続ける。内部に入ると、赤色灯が広い空洞の全体像を曝け出してくれていた。
長い長いトンネルだった。出口が見えず、抜け出せる気配が全くない。しかし、頭の中に止まるという選択肢は一切無かった。半分惰性的に足を繰り出し続けていたら、いつの間にか光が見えてきた。
日差しが眩しくて、目を瞑る。明るさに慣れて、細目になりながら徐々に瞼を上げる。太陽の恵みを一身に受ける緑たちが、そこにはあった。
後ろを振り返ると、さっきまで歩いてきたトンネルが続いていた。この場所からは、入り口が見えない。今までよりも、少し違った土地に来たことを再確認した。
進みたい方向を、しっかり見る。目の前には、視界の大半を占める山があった。
レールから外れ、山道を登っていく。木漏れ日が、俺の顔を照らした。
夢の恩恵で、一切疲れを感じない。そのおかげで、速度を落とすことなく頂上を目指せた。
世界が、オレンジ色に染まる頃、頂上に到着する。達成感が思いのほか少なく、あまり満足しなかった自分が居た。頂上から見下ろした先には緑あふれる森があり、その先には田園風景が広がっていた。点々と民家があるが、人は存在していないはず。
何度目かの淋しさが襲う。その一方で、淋しさに少しだけ慣れた自分に気づいた。
一時の暖色に染まった空はすぐに過ぎ去り、闇がやってきた。そばにあった切り株に寄りかかり、夜空を見上げる。息を呑むような満天の星空だった。
不確定なもので溢れている夢の世界で、暗闇の恐怖なんて目に見えない不安に比べたら、大差は無かった。俺に似合わないその考えは、時を超え瞬く星々に感化され、少し気が大きくなったからかもしれない。
それからも俺は、旅を続けた。この旅に目的もゴールすらない。世界が明るい時は、歩いて歩いて色んな景色を見た。暗くなれば、誰の物にもなっていない月夜と星空を独り占めにした。
ある夜、今日は民家が数軒まばらにある集落に来ていた。
電信柱の上で、星が瞬いている。畦道のわきでは、水田が二つの星空を演出していた。こんな素晴らしい景色を見れるなら、一人っきりの世界も悪くないかもしれない。
この夜空を、俺は一生忘れたくない。そして、願う。叶うのなら、この気持ちを誰かと共有してみたいと。




