『七ツ森』33
33
いくつもの流星が白い筋を描いて、七ツ森に降り注ぐ。
ある流星は蠢く死体を貫き、別の流星は飛び回る怪物を飲み込んだ。その怪物を産むそそり立つプラントでさえ、流星が貫通すればたちまち根元から崩れ落ちていく。
「古き王の狩りの庭……」
クレマチス・エルフは弓を下げて次々と降る流星を眺めた。もはや、自らが矢を放つ必要はない。師匠は奥義を使った。森の命を供物に魔力を増大させ、侵入者全てを標的にする奥義を。
遠くでひと際強い輝き。神の魔力。黄金の輝きを放つ絶対の一矢――
「戦いが、終わる……」
森の木々を、昇り立った雪煙が覆い隠している。
魔力を保ったまま、ニールスは地面の上へと降り立った。深緑に輝く髪をなびかせながら、もうもうと立ち込める雪煙の中を進み、雪道に転がったそれへと手を伸ばす。
黒焦げた銀色の髪を掴んで持ち上げる。人間のものではない、おそらくは体液の代わりであろう液体を滴らせる、闇霧の一族ガルタンダールの生首が、無残な姿を風に晒していた。首から下の肉体は爆散していて跡形もない。
死んでいる。
間違いようもない。生首には呪力の気配もなく、およそ生気と言えるものは感じられなかった。ガルタンダールは自身の肉体をアバターと呼んでいたので、この生首は所詮代理の身体の一部だ。まだどこかにガルタンダールの本体にあたるものがあるのだろう。だがそれでも、闇霧の一族の一人を打ち倒したのだ。人類にとって、この戦果はあまりにも大きい。
ニールス自身にとっても――……
「もはや魂の残らぬ首ひとつだろうが」
勝利の喜びなど存在しない、醒めた声音でニールスは自らが倒した敵の生首に語りかけた。
「前言通りだ。この首は使わせてもらう。闇霧の世界への鍵。その脳の一片まで有効活用させてもらおう」
首だけになったガルタンダールの瞳はあらぬ方向を向いていて、それだけ見れば不気味な有り様だった。だが、このアバターの首には、ガルタンダールがこれまで目にした魔術や呪術、異界の出来事、そして闇霧の一族の情報が詰まっているはずだ。情報アドバンテージもさることながら、この首自体に呪物としての価値がある。ニールスの考えが正しければ、この首を起点に、闇霧の世界への門を作れるはずなのだ。
深緑に染まっていた髪が、元の砂色に戻る。魔力が通っていた瞳も、輝きが収まった。何度なく限界を超えたこの身体は、もはや残されている力はほとんどない。急ぎ、マキの元へと戻り、矢を補充してクレマチスを迎えに行かなければ……
「…………ひっ」
声がした。吐息のような。止まっていた息を吹き返したかのような。
――ニールスは、脳が硬直したかのような感覚に襲われた。周囲に現れたのは、黒地に赤の、文字のような模様のようなものが描かれた、無数の画面だった。ただの呪術ならば理解できただろう。だが、それは情報そのものが異質だった。人間の脳、いやこの世界の住人では理解し得ない情報の洪水。理解できないはずの文字や模様から何故か目が離せず、理解できないはずの意味が脳の中に侵入を試みる。軋んだ音が聞こえる。金属が擦れ、ひしゃげるような。無数の意味不明な情報がなだれ込んでくる。数式のようでもあり、呪文のようでもあり、思考そのもののようにも思える。情報の洪水によってニールスの精神も、器官としての脳も、終わりを迎えてしまうだろう。いや、そもそも。これらの情報が、この世界に出現してしまった時点で、世界そのものが――
CUT
「っ!?」
反射的にニールスは後方へと跳んでいた。脳を破壊しかかっていた数多の情報が、今は視界から消えている。代わりに、生首の破断面から赤い呪力が幾筋も伸びていた。それらは、まるで引き延ばされたビデオテープのようで、ぎゅるぎゅるという耳障りな音を立てながら、ガルタンダールの首へと収納されつつあった。
「――いや、まったく。危ないところだった」
生首が、声を発した。聞き間違いようのない声。
今の今まで死闘を演じていた、惑乱の王子の声。
「こちらの世界の時間では、まだ一分と経っていないはずだが、間違いないかな? ニールス・ユーダリル。アバターの九割が吹っ飛んで、メモリーにも重大な損傷がある。答え合わせをしてくれると助かるが」
生首は、呪力に染まった赤く輝く瞳でニールスを見た。頭が重い。自分自身がこの世にいるのかどうか。それさえまだ実感が持てないほどの乖離した感覚が残っている。だが、少なくとも知識や、現状の認識などは、あの不可解な情報を流し込まれる前から地続きのようだ。ならば、この不快感はさておくとしても、とりあえず自分自身は正常と判断してよいだろう。
「……ああ、そのようだね。ガルタンダール」
ニールスは答えた。言葉を発するのでさえ、ひどく動作が重たい気がする。
「よかったよ。間に合ったようだ」
宙に浮かぶ生首がにやりと笑う。その周囲に、ノイズめいた空間の歪みが、ちらほらと発生している。
「……察するに、今の君は闇霧の世界から直にアバターに接続している。そう考えていいのかな、ガルタンダール」
思考というよりかは閃きめいた直観に従って、ニールスは問うた。
ノイズが、ひと際大きな音を立てる。
「正解だ。君の最後の攻撃によってアバターが破壊される一秒前からアクセスした。このアバターには二百年以上の活動の記録が詰まっている。失うわけにはいかない。とはいえ、このアバターはもう一時間ともたないだろう。悪いが、これ以上の戦闘は遠慮させてもらうよ」
ニールスはすかさず弓を構えた。
矢が尽き、魔力さえないこの身だが、それでも、戦いをやめるわけにはいかない。今、アバターの中にいるのは、おそらくはガルタンダールの本体とでも呼ぶべき部分だ。闇霧の世界の根幹に、より近いと考えられる手掛かりであろう。
「逃がすとでも――」
「よしたまえ。その様子を見ればわかる。君は、我々の世界の情報を直に目にしてしまった。アバター内に折り畳んでおいた稼働のための計算式や、私自身の思考、アイディア、メモリーの一部などを、だ。第九階梯たる君だからその程度で済んでいるが、並みの魔術師ならこの世界とは異なる性質の情報で脳はおろか身体ごと崩壊していただろう」
ガルタンダールの言葉に、ニールスは内心慄然とするのを禁じ得なかった。見ただけでこちらが破壊される情報。貴重だが、あまりにも危険過ぎる。
「こちらの世界と闇霧の世界の情報は質が違う。それは、意味や内容ではなく、存在そのものが違うのだ。同じ場所に在ろうとすれば、双方を崩壊させてしまう。だからこそ我ら闇霧の一族は、自らの魂を切り分け、こちら側で活動可能なアバターに投入しなければならないのだよ」
赤い呪力のテープが、全てガルタンダールの首に収まった。
「君は次なるアバターのための貴重な素材だ。壊れなくて助かった。準備ができ次第、すぐに捕まえにやってこよう。少し時間はかかるがね。まあ、百年も待たせないとは思うが――」
「僕の首が、君の首に挿げ替えられるのはごめんだ。ガルタンダール。矢はなくとも弓は引ける。この僕の命を燃やし尽くしさえすればね」
「何度も言わせるな。今はお互い退却すべきだ。時間はいくらでもある。君と私なら、おそらくは」
何かが、はためく音が聞こえた。続いて、黒い影の飛翔。
ニールスには、それがまるで大きな一羽の鴉のように見えた。
「おぉおおぉ――っ!」
雄叫びとともに空から落下してきたのは、一人の少女だった。いや、もはや年齢通りの少女ではない。獲物と見定めた怪物を前に、槍を構えて突撃するその姿は、すでに戦士だった。
直下する槍の一撃を、生首は間一髪躱していた。穂に触れた銀髪のいくつかが切られて舞い、体液の代わりに頬から呪力そのものが稲妻のように放出される。
「ははっ、君か!」
ガルタンダールの声に、明らかに喜びが混じっていた。
着地したマキは、すかさず槍を横薙ぎに振るってガルタンダールの生首を叩き落そうとする。生首はそれをすんでのところで躱した。ニールスは、すでに弓を構え、身体に残った魔力を集めて矢の形にしてつがえていた。照準――いかに身体に負担があろうと、狩人となるこの瞬間だけは、本能が動作を敢行する――放つ。隙を突いた魔力の矢が、ガルタンダールに迫る。
「容赦ない――が!」
生首の口から放出された呪力が、魔力の矢を弾き飛ばす。そのために空中に停滞した、その動きそのものが新たな隙となった。背後から迫ったマキの槍の穂先が、ガルタンダールの後頭部に突き刺さった。だが、それも一瞬の攻勢に過ぎなかった。間を置かず放たれた呪力が槍ごとマキの身体を弾き飛ばした。雪を蹴り、ニールスは跳ぶ。地面に叩きつけられるよりも早く、マキの身体をキャッチして着地する。
「素晴ら――しい――コンビネーション――だ」
ガルタンダールが、途切れ途切れの声で言った。
「おかげで―――一時間――は――あった猶予が――削られてしまった。口調を元に戻すだけでも大変だ。貴重な呪力もメモリーも、これ以上は失えない」
「逃げる気!? ガルタンダール!」
マキが、怒りとともに叫ぶ。身体はもうすでに限界なはずなのに、まだ戦意を失っていない。
「私の名前を覚えてくれたとは嬉しいね。だが、今の私には、君の名を覚えられるだけの容量がない。残念な事だが……」
ガルタンダールの背後に、ノイズだらけの魔法陣が現れる。今度は、直視しても問題がない。飛び出そうとするマキを、ニールスは抑えた。
あれは、転移の呪術である。
「逃げ切れると思うのか。その状態で」
「さあて、ね。アバターとはいえ、今まさに死がそこまで迫っているよ。本当に――どうなるか――運命が、私を生かしてくれるかどうか――」
生首が、魔法陣の中心へと引き込まれていく。ガルタンダールの顔が、ノイズの走る呪力に隠されていく。
「だが――再び――また、会おう。森の魔術師。そして、魔女の娘。私はきっと――」
ターコイズブルーのマキの目が、消えゆく魔法陣を、ガルタンダールを、じっと睨みつけていた。
「私はきっと知るだろう。魔女となる、君の名を――」
魔法陣は、幻のように掻き消えていた。
雪の積もった森に、そうして冷たい風が吹き抜けていった。静けさを取り戻した森の中に、もう侵入者はいなかった。誰も彼もが――森を守るために戦った弟子や使い魔たち、そしてニールス自身もが――疲れ切っていた。これから後始末が待っている。だが、今は。もう一人の弟子、クレマチスや使い魔たちを迎えに行き、皆で休まなければ。
かたん、とマキの身体から力が抜けた。
心配する必要はなかった。小さな呼吸が聞こえていた。敵が消え、呪力の気配が消え去った事で、身体が勝手に緊張状態を解いたかのように、マキは気を失っていた。
――先ほどの、あの巨大な雷撃。
あれは、マキの許容範囲を超える一撃だったはずだ。いかに秘めた魔力の量が膨大であろうとも、一度に大量の魔力を行使するのは、十分な訓練が必要だ。白かったはずの修行着は、尋常ならざる魔力量の行使で、灰色から黒へ、一気に変色している。
――シゲル。
彼女が、巨大な雷撃を放つにあたり、使用したルーンの名だ。
だが、光のルーンに雷を呼ぶ力は、本来はない。シゲルの意味する光は太陽の光。雷とは違うものだ。
だから、もしシゲルのルーンで、雷を呼ぼうとするならば。
「拡大解釈……」
ルーン・マスター特権がひとつ。ルーン本来の意味を越え、自在な想像力をもとに驚異の魔術を行使する事を許す力。
それを、ルーン・マスターでもない、ルーン自体に触れてまだ日が浅い少女がやってのけた。
「理を超えるほどの才能。あるいは……」
あるいは、誰かがこの子を、強力無比な駒へと仕立て上げようとしている――
冬の風が吹く。この巨大な森に入り乱れた様々な思惑を運び去るかのように。残るのは因果だけだ。否応なくこの世界で自らの運命と戦わされるべく結び付けられた、因果だけ。
戦いが、終わった。
空が、晴れている。
洗濯を終えた修行着を身に纏い、大鴉の槍を抱えたまま、マキは空を見上げている。
雲が、いくつかまばらにある青い空。
周囲は、まだ雪が残る森だ。
「本当にいいのかい?」
そう、ニールスは言った。
「君には、日本に戻るという選択肢もある。元通りとはいかないまでも、生まれた国で過ごす選択肢がある。君にはまだ、渡瀬マキでいられる生き方がある」
本当に? と、マキは頭の中で問いを繰り返す。そよ風が雪面を撫でる。今や手に馴染んできた槍をぎゅっと握り締め、風にはためく黒マントを修行着越しに感じる。
全ては、変わってしまった。
それが、わかる。全てが、変わっていくことがわかる。
「いるんでしょ?」
マキは空を見上げたまま言った。
気配を感じていた。後方に。だが、恐ろしくはなかった。それは、そういうものだと理解したからだ。
――儂の名を覚えたか、とその老人は言った。
今なら、わかる。マキがこれから歩む道で、この老人の力は必要となる。マキの中に眠る魔力を完全に扱えるようにするためには、マキ自身の修行のほかにも礎がいるのだ。
「わたしは、あなたの駒にはならない」
マキは後方に佇む老人に、言った。
その姿は、今はおそらく曖昧で、幻影のようなものだ。マキだけにその存在を感じさせるために、あえてそうしているのだ。
マキとこの老人。一対一の契約のために。
「でも力を貸して。あなたにはわたしの力が必要なんでしょ? もっと強くなった、わたしの力が。わたしにも、あなたの力がいる」
――左様、と老人は答える。そして続ける。
ならば、どうする? と。
「手に入れるの、全部」
マキは老人へと振り返った。
「今よりもっと強くなって、お父さんとお母さんの仇を取る。もう、あんな奴らの好きにはさせない。私みたいな思いは、もう誰にもさせない」
この槍で最初に貫いた少女の姿が、脳裏に去来する。
「わたしに力を貸して、オーディン。その代わり、あなたが頼むなら、わたしもあなたに力を貸す」
老人の気配が、ふわりと風に舞った気がした。
老人の返事は聞こえなかったが、その笑みは見えた気がした。何かを企むようで、親しい娘を見るような慈愛も含まれているようだった。返事はなくとも、それでわかった気がした。
家のほうから、クレマチスが歩いてくるのが見えた。あの戦いから幾日かが過ぎていたが、クレマチスもだいぶ体調が戻ってきたようだ。
「マキさん」
どこか緊張した面持ちで、クレマチスはマキに言った。
「答えは、決まった?」
青い空を、一羽の鳥が飛んで行った。漆黒の翼を持つ、知恵者の鳥。この地の神話における、主神の使い魔。
――鴉。
――
「こうしてわたしは、師匠ニールス・ユーダリルの弟子になった。闇霧の一族、特に長兄のガルタンダールを倒す力を手に入れるために」
麻來鴉は、そう言って日記を閉じた。
この目の前の、十七歳の少女が魔女となるまでの話が、今、ようやく終わろうとしている。
火保は、複雑な思いで彼女を見る。因果を背負い、運命と対峙し続ける彼女は、この先一体どこへ向かうのだろう。いや、もし人間の人生に、運命や定められた役割というものがあるのならば、彼女と出会い、時にはともに戦う事もある、火保自身の運命や役割は何だろう。私は何故、彼女の身の上話を知ったのか。知ったという事実が、この先、どんな運命をもたらすのか。
「あれから七年。ガルタンダールは再び私の前に現れた。前回は仕留め損なったけど、次はそうはいかない。神の魔力を扱う術は覚えた。次は、もっとうまくやれる」
「麻來鴉……」
七年。その口から語られた壮絶な経験が、七年の月日を経て、彼女の中でどのように定着し、育ったのか。金色に輝く神の魔力を扱った代償として、一時はその存在さえ消えかけたというのに、今の麻來鴉はそんな事などもう忘れたかのようだ。
うっすらと。
麻來鴉の瞳が、ターコイズブルーに染まりつつあった。
「あなたひとりで闇霧の一族と戦うわけじゃない。私や、ほかの退魔屋だって、いざ奴らと対峙すれば戦う。あなたひとりで背負おうとしないで、麻來鴉」
火保の言葉に、麻來鴉は微笑んだ。一見、いきり立つ自分自身を落ち着かせるかのようにも見えた。だが、違う。麻來鴉の中には確固たる自信と意思が存在していて、それは彼女の槍のように、いかなる状況であっても貫き通そうとする気配があった。
「もちろんだよ。私だって自分ひとりで戦い続けられるとは思っていない。ただ……」
麻來鴉は右手の拳をぎゅっと握り締め、魔力の通うターコイズブルーの瞳で火保のほうを向いた。
「あいつだけはわたしが狩る。師匠や姉弟子からの教えも、神の魔力も、全てを使い果たしてでも」
麻來鴉の瞳は火保を見ていなかった。自分自身の人生に絡みつく闇と霧を見ていた。彼女の中に眠る膨大な魔力。そして今や、それ以上のものを扱う術さえ、彼女は手に入れた。彼女は進み続けるだろう。その肉体には、もうノイズめいたブレはない。早晩、彼女は再び戻るだろう。槍を携え、黒い帽子に黒マント、魔女の衣装に身を包み、彼女自身が選んだ、戦いの道へと。
〇
「真名封印……?」
屋敷の片付けを手伝いながら、マキはニールスの言った言葉を鸚鵡返しに聞き返した。
「そうだ。僕ら魔術に関わる者にとって、自身の本当の名前というのはとても大切で、守り抜かなければならないものだ。何せ、これを知られると簡単に悪い術にかかってしまうからね。何を真の名とするのかの解釈は人それぞれだけど、たいていの者は真名を封印して、術者としての名を名乗る。真名の封印はとても強力で、一度封印すれば本人でさえ真名を思い出すことは難しい」
お、あったあったと、ニールスは木製の箱を取り出す。
「師匠……片付けてたんじゃないの?」
「探し物もしていたのさ。これをマキにあげようと思って」
箱の上の埃をはらい、ニールスはその蓋を開ける。中には、黒い、とんがったような形のものが入っている。
「……帽子?」
「そう。以前人から譲り受けたもので、これは助言の帽子という。これを被ると帽子自体が被った人にインスピレーションを与えてくれたり、緊張を和らげてくれたりするんだ」
「ふーん」
マキは帽子を取り出して、眺めてみた。前後の鍔は短めながら広く、左右の鍔は長く、先端のほうに向けて狭くなっている。いわゆる、マキが帽子と言われて思い描くような形とは、だいぶ様子が違う。
「へんな形」
「失礼な。結構貴重なものなんだよ、それ」
そう言われても、いまいちピンとこない。奇妙な形の帽子は、見ようによっては黒い鳥のようにも見える。
「――名前を決めておいてくれ。マキ」
少し落ち着いた声音で、ニールスが言う。
「これからの人生で、君自身が名乗る、新しい名前だ。儀式まで、まだ時間がある。自分の直感がよいと思う名前を考えておいてくれ」
マキは帽子を胸に、考える。渡瀬マキという、両親からもらった名前から、新たに自分自身でつける名前。何だか、これまでの自分が置いていかれて、新しくなった自分だけがどこかに行ってしまうような気もする。
「この森……」
「え?」
まだ確信の持てない閃きだった。それでも、マキはニールスに聞いてみる事にした。
「七ツ森って、日本語で何ていう?」
屋敷の片付けから儀式の準備まで二週間ほどかかった。儀式当日、マキは黒く染まったマント、修行着を身に着け、大鴉の槍を手に、第三の森の奥へと進んだ。
儀式を行うための広い場所には、すでに出席者全員が揃っていた。右手側で跪くのはクレマチス、アウストリ、スズリ。左手側で跪くのは、ヴェストリ、ノルズリである。そして儀式の祭壇にはニールスが普段の服とは違う祭司の服を着て立っており、祭壇には木の根によって囲われた、蒼く輝く鏡のようなものがあった。それは、鏡面に波紋のようなものが生まれ、遠目にもわかるほど清らかな魔力で満ち溢れている。
あらかじめ取り決められた通り、マキは祭壇の前で跪くと、深く頭を垂れた。
「原初の泉、フヴェルゲルミルの泉に、汝の名を捧げる。真の名は川を遡り、泉の底へと封じられる。ここで、汝は新たな名、新たな生を受ける」
ニールスが儀式のための詞を唱えると、自然とマキの中からターコイズブルーの光が溢れ出した。それは、今日まで生きてきたマキの記憶、感情、経験といったものが含まれた、特別な魔力だった。マキの魔力は大小さまざまな大きさの粒となって、蒼く輝く鏡面に吸い込まれていく。
「汝、魔術を杖とし、衣とし、新たな生を生くるのならば答えよ。汝が魔術の神は」
「魔法の心得ある者、万物の父であり戦死者の父、幾多の名を持ち、ひとつきりの名では収まらぬ者、オーディン」
マキは答えた。
ニールスは表情を変えぬまま続ける。
「汝、大神を仰ぎ、七つに分かたれしこの森を守ると誓うか。森に危難ありし時には、矢の如く駆けつけ、その槍を振るうと誓うか」
「誓う」
森は、静まりかえっているようでありながら、そこに住む全ての命、鳥も獣も虫も木々も、花も草も芽でさえも、マキの言葉を聞き、マキの姿を見ているのがわかった。マキと、この広大な森が結び付けられようとしていた。
黒い鳥が、蒼い鏡を囲う木の根に止まる。その両目が、マキの姿をじっと見つめる。
「ならば我は師として汝に魔術を授けよう。槍を振るう技を授けよう。新たな生において汝が必要とする、およそ全ての術を授けよう」
ニールスはそう言って、祭壇の近くにあった木製の箱を開けると、中から黒く染まった帽子を取り出した。
助言の帽子を。
「今ここに、誓約は為された。我らは汝を森の者として迎え入れよう。汝は傷の白鳥。七つの森を守護し、故郷とし、魔と運命とに導かれし魔女よ。今日から君は――」
助言の帽子が頭の上に被せられ、黒き衣を纏う少女は顔を上げた。
「七ツ森麻來鴉だ」
『七ツ森』了




