『七ツ森』32
32
気付かなかった。
あの娘が走ってくるのは見えていた。いかにも修行中といった風情のマントを翻し、絶叫を上げながら槍を携え迫る小娘。見るべきものはある。才気も感じる。だが、ガルタンダールにとってはそれだけだ。ニールス・ユーダリルの心を折るためだけに踏みにじってやろうとした少女。ただ、それだけ。
気付かなかった。
娘の魔力が急速に増大していたのは感じていた。だが、何かそのためにガルタンダールが動く必要は感じなかった。兄妹たちを目覚めさせ、暗黒を広げた今のこの状況で、小娘ひとりがガルタンダールに何ができるというのだ。
だから。
「なっ――」
娘の指が鳴ったその瞬間、急速な光の奔流、いや洪水とでもいうべき膨大な量のエネルギーが、ガルタンダールに降り注いでいた。反応する時間はほぼない。まさに一瞬にして、全身は光によって灼かれていた。
雷光。光の柱と見紛う巨大な雷。少女が召喚したのはそれだ。魔力を大量に含んだこの一撃は、ガルタンダールのアバターに深刻なダメージを与えた。
「ぐ、は――」
気が付けば、ガルタンダールは雪道の上で膝を突いていた。落とされたのだ。雷光の激しい奔流によって。
即座にアバターの修復を開始。だが、損耗が激しい。一体どの箇所から手を付ければよいか。それに、破壊されたのはガルタンダールのアバターだけではない。門。故郷、闇霧の世界への入り口となるはずの、巨大な赤き呪力の門もまた――
「これは……」
灼かれていた。門を構成する魔法陣の所々が損傷し、その残骸だけが力なく明滅している。
たった一撃。たった一回の魔術。
その結果がこれだ。
「ふ、ふふ、ははは」
口が、勝手に笑い声をあげていた。胸の奥底から湧き出すような高揚感。期待。
何故だろう。ニールス・ユーダリルを捕えた時でさえ、ここまでの感情は湧いてこなかったというのに。
ああ、見よ。
まさに、真正面。道の向こうに、いる。
小さな身体には長すぎる槍を頼りに、震える足で立とうとする少女。
自分でも御せぬほどの大量の魔力を行使しただろうに、まだ健気に意識を保っているようだ。つい先ほどまで灰色だったマントは、あまりの魔力量の余波ゆえか、黒焦げにでもなったかのように、漆黒に変色している。乱れた黒髪、雪風にはためく黒いマント。そして黒い槍。
まるで――
「――っ!?」
ガルタンダールは――通常であればあり得ない事だが――一瞬、我が目を疑った。
少女の後方に、何者かがいた。
老人だ。
白いとんがり帽に、長い髭。あの少女と同じくマントを身に着けた老人。あれは。知っているような気がする。そう、二百年前。ガルタンダールたち闇霧の一族たる兄妹が世界の各地に封じられる事になったあの時に――……
音が、聞こえた。
硬いものが、何かを擦るような音。
いうなれば、そう、紙にペンを走らせるような。
見えた。少女とガルタンダールの間に。蒼い一筋の光が。そして、確かに聞こえた。今しがた、耳元で。何かを書きつけるような音。
べったりと張り付いていた夢のような感覚が消えて、ガルタンダールの視界や五感は、瞬く間に現実へと引き戻された。老人の姿も、蒼い光も、どこにも見当たらない。
幻覚? いや、違う。そんなはずはない。今まさに見た光景は、本物。超常の存在であるガルタンダールが幻を見る事などあり得ない。
「……まさか、実在するのか」
あれが。
あの蒼い光が、その一部だとすれば。
あの少女とガルタンダールの出会いは、この因縁は、全て必然という事になる。
運命、そのもの。
やはり。そうか。それならば……
『――すげえ』
影の声がした。。ガルタンダールの弟。第二王子の声。
『二百年前より、人間どもは進化したってわけだな。兄上、あいつはオレに寄越せ。あの娘、このギロンギスタンがいただこう』
――ガルタンダールの胸の裡に、一瞬、切っ先で突かれたかのような不快感が走った。
『いいえ、駄目よ。ギロン兄様』
すかさず、別の声が言った。第一王女。グリムドローズ。
『あの娘は私がもらうわ。ガルタン兄様がそこの魔術師を手に入れたのなら、私はあの娘をアバターに使いたい』
――普段なら聞き流す妹の言葉が、今はひどく無神経に響く。
『調子に乗るんじゃねえ、グリム。兄に敬意を払え』
『兄様こそ、出しゃばらないでくださいな。私は早急にこのアバターを直したいのです。小娘、そこを動くな。今からお前の身体を奪いに行くから――』
『……みっともない』
呆れたような声がした。
『たかだか人間の娘一人に興奮して。何ならわたしが――』
第二王女、ゲレアガーデンが醒めた口調で言った。
『殺してしまおうかな。そっちのほうが、兄さん姉さんがイラついてくれて、面白い』
――駄目だ。
ガルタンダールは、思わず声を出した。
『……え?』
「ならん。させん。下がれ、兄妹たち」
影が、揺らめく。空に現れた三つの巨大な影が。赤き魔法陣より繋げた呪力の流れをカットし、ガルタンダールは、そのまま魔法陣を構成する呪力を自身の身体へと吸い込む。アバターの修復に呪力が必要なのはもちろんだが、今はこれ以上、彼らの目に少女の姿を晒したくない。
あれは――
「あの娘は、私の獲物だ。兄妹たち」
影が消える。消えていく。いや、これらは所詮、影。世界のどこかで目覚めた兄妹たちの声を届けるだけのもの。
『兄上、いきなり――』
『乱暴な真似を!』
『あははは、兄さんがムキになってる!』
口早に吐き出される兄妹たちの非難や嘲笑も、今はどうでもいい。
「駄目だ。お前たちには渡さない」
空に現れた影が消え去り、エイボン卿が用意した巨大な魔法陣もガルタンダールの中に吸い込まれる。
「あの娘も、ニールス・ユーダリルも。二人とも、私の獲物だ」
アバターの最低限の修復が終わった。衣服は雷に灼かれ、今や身に着けているものはひとつもなかったが、ガルタンダールにとってはどうでもいい事だ。
「私の運命の邪魔は、誰にもさせない」
少女が、震える手で槍を構える。ガルタンダールは雪道を一歩踏み出した。呪力の流れが完璧ではない。一歩踏み出した拍子に、取り込んだはずの魔法陣の残滓が、ヴェールのように身体に纏わりつく。
「娘……そういえば名前を聞いていなかったな」
近付く。一歩。魔力を消耗して今にも倒れそうな娘。今ここでは殺さない。だが、教えてやらなければ。お前は私の獲物だと。
「何といったか……あの男が呟いていたな。君の雷撃は見事だった。おかげでアバターのメモリーがいくらか損傷しているようだ……思い出せないな」
そうだ。せめて名前だけ。それだけ知って帰るとしよう。これから長い運命をともにするかもしれぬ娘。お互いの脳味噌に、その存在を刻み付けあっておかなければ。
「なあ、教えてくれないか。どうやら君は、私が思う以上の存在であったようだ。君は何者だ。どこからやってきた。何故そんな力を持っている? なあ、君は――」
雪が舞った。少女の黒いマントがはためいていた。ガルタンダールの頬に一筋の傷が入り、少女の影がガルタンダールの後方に着地する。振り返ったその瞬間、槍の穂先が鼻先に突きつけられていた。
「うるさい奴……お前なんか……ここで」
少女の口から荒い息とともに小さな声が出てきた。ガルタンダールは傷の熱さの残る頬を指で拭いた。人間の血によく似た赤い体液の跡。
「お父さんとお母さんの仇……お前が……お前さえいなければ」
「両親。ああ、そういえばそうだったな。君の激しい絶望は私も感じたよ。しかし、あの体験こそが君の才能を真に目覚めさせたのではないのかい? 魂が壊れるほどの悲しみや怒りこそが、君を本当の自分に近付けるのではないのかい? つまりは――」
「黙れ!!」
素早く突き込まれた槍の穂先を、ガルタンダールは難なく躱し、その黒い柄を掴んでみせた。少女が躍起になって振り払おうとするが、ガルタンダールは柄を掴んだまま、さらに少女に顔を近付ける。
「つまりは、こうだ。君の目覚めには私が必要だった。この闇霧の一族、ガルタンダールがね」
「黙れ……黙って……」
少女の目が虚ろになる。意識の限界。柄を持つ手から力が抜ける。少女の身体が崩れ落ちる。ガルタンダールは槍から手を離した。何となく。そう、抱き留めてやらなければと思ったのだ。自分の運命を決定づけるかもしれぬ娘。ならば、大事にしてやらなければ――……
突然の強い気配を感じて、ガルタンダールは一気に後方へと跳んでいた。少女の身体と槍が、砂色のローブを着た人物によって抱えられていた。
「……やあ、遅かったじゃないか。ニールス・ユーダリル」
砂色のローブを着た人物は少女を雪道に横たえ、槍をその傍に置くと、鋭い視線をガルタンダールに向けた。ニールス・ユーダリル。
「先の雷撃で拘束が解けたか。師匠としてはどうなんだい? 弟子に助けられてばかりで」
「何事も自分だけで為せると思うのは傲慢だ。弟子には感謝しているよ。代わりに、僕も師として果たすべき役割を果たそう」
ニールスが軽く左手を掲げると、森の奥から黒い弓と矢筒が高速で飛来する。弓はニールスの手の中に収まり、矢筒は自動的にその身体に装着された。
「まだ戦意は衰えていないか。しかし、だ」
ガルタンダールは纏った魔法陣の一部を砕くと、周囲へとばら撒いた。
森の奥から呪力の濃い気配が漂いはじめた。異形の怪物が宙を舞い、次々と集い始める。怪殖子。未だ森の中に設置したいくつかのプラントは健在のようだ。次いで聞こえてくるのは、たどたどしい多くの足音だ。地の底より甦らせた死者たちが、あっという間に四方八方を取り囲む。
「今の君ではさすがにこの数を相手にはできまい。心配せずとも、君が私とくるというのならその娘は見逃すさ。だが抵抗するなら……残念ではあるが、多少の手傷は覚悟してもらおう」
怪殖子が触腕をうねらせ、死者たちが呻き声を上げる。呪力は拡散し、七ツ森は刻一刻とガルタンダールの領土となっていく。一方、拘束から逃れたとはいえ、ニールス・ユーダリルに勝機はない。残る矢は七本。魔力は微少。ガルタンダールとて、これ以上目を付けた素材を傷つけたくはなかった。
「……闇霧の王子、ガルタンダール」
ニールス・ユーダリルは視線を逸らさぬまま言った。
「神聖なる七ツ森を汚し、我が弟子にさえ手を出そうとするその邪悪。断じて、許してはおけない」
森の中に、静けさが降りた。
それは、呼吸とでも呼ぶべきだろうか。第三の森それ自体が、息を深く吸い込んだかのようだった。
「何をする気だ……」
ガルタンダールは右手を掲げ、怪物たちにニールスを襲うよう意思を飛ばす。だが、怪物たちは動かなかった。第三の森の呼吸を感じた瞬間、捕食者と対峙したかのように、怪物たちは動きを止めてしまっていた。
「七ツ森第三の森よ……すまないがその命、使わせてもらう」
突風が雪を蹴散らす。第三の森の木々という木々、草という草、熊や鹿、栗鼠や虫の一匹に至るまで、ありとあらゆるものから魔力が流れ出し、ニールス・ユーダリルに吸い込まれていく。
「森自体から魔力を吸い上げているのか? 森の魔術師ともあろうものが、森を殺す気なのか?」
「ここで君たちを倒さなければ七ツ森全体が死ぬ。もはや手段は選ばない」
弓を持つニールスの左手首が、光を纏った。
それは、いくつかのルーンが描かれた魔力そのもので作られた腕輪だった。
「それは……」
何かが、違う。ニールスの魔力ではない。そう思わせる気配がある。その輝きは白を基調としながらも宝石のようにきらめいていて、人間の持つ魔力とは明らかに異質だった。その光の腕輪ひとつだけが、遥かなる時代を越えて、世界の境界さえも越えて、今ここにあるのだ。
「この腕輪は王権の証。我が主にして古の王の治世と恩寵、そしてその権威を示すもの――」
ニールス・ユーダリルの瞳が、深緑に輝いている。砂色だった髪は今やエメラルドの色に染まり、迸る魔力が風を巻き起こしている。
「我が主は波を読み、雪を滑る渡りの神。決闘においては力を与え、弓にかけてはその矢から逃るること能わず」
ニールスの言葉は、今や世界そのものに影響を及ぼし始めていた。わかっている。これは詠唱だ。強大な魔術の行使。それがわかっていながら、ガルタンダールは動けなかった。呪力の回復がもはや見込めない状況である事。それも一因だ。だがそれ以上に、吹き荒れる雪風が身の動きを封じ、漂う緊張感が足先を安易に動かす事を許さない。
「今よりここを神域とす。さあ、狩りの時間だ。ガルタンダール」
腕に描かれたルーンのひとつが、ひと際大きな輝きを放った。エオ。弓の材木たるイチイの木を表すルーン。
それは、狩りの神――ニールス・ユーダリルの魔術の根幹であり、北欧神話において主神オーディンに匹敵する古き王、ウル神のルーン。
「―界の魔術、《古き王の狩りの庭》」
舞い上がる粉雪が、ガルタンダールの視界を覆い尽くす。巨大な魔力の波動を感じる。森の命そのものを燃やし尽くす純粋で強力な魔力。それが周囲の世界そのものを変質させている。似ている。これは――……
「異層転移……!? いや、しかし――」
雪が、晴れる。
上空にオーロラのような、いくつもの色彩の光があった。
おそらくは、その無数の光の帯が、空を、そして七ツ森全体を覆っているのだろう。似ている。異層転移に。だが、呪力によって齎される禍々しさはなく、全くの別物だ。
――神域。
「っ!?」
白い流星が、見えた。一つではない。天空より降り注ぐ、百、二百を超える流星。それらが瞬く間に地上の怪物たちに迫る。ガルタンダールの傍にいた怪殖子の一匹が流星に呑まれ、死者の一人が流星に胴体を貫かれる。そして、ガルタンダールの目の前にも、白い流星が迫っていた。
「ちぃっ!」
跳ぶ。流星は速度を落とさぬままガルタンダールを追い続ける。ただの攻撃ではない。予感がする。触れてはならない何か――
「おのれ!」
死者たちを盾に、ガルタンダールは森の中へと逃げ込む。幾条もの白い流星が、間を置かず追ってくる。木々の間を器用に抜け、途中立ち尽くす死者や怪殖子を貫き、あと数センチの位置まで接近する。
「ぐっ!」
木の幹を蹴って方向を変えようとした刹那、死角より飛来した白い流星が、ガルタンダールの胴体を貫いた。
衝撃は――ない。
痛みも、感じない。
「……?」
身体に纏われていた魔法陣の残骸が消えている。代わりに、胸のあたりにあるのはひと文字のルーンだ。
ウル神のルーン、エオ。
「さすがに〝刻印〟には耐えたか。闇霧の王子よ」
ニールス・ユーダリルの声がして、ガルタンダールは顔を上げる。
周囲の景色が変わっている。真昼の草原。七ツ森ではない。遠くには連峰、はためく旗、そして城のようなものが見える。
「刻印……?」
「そう、刻印。獲物であることの証だ。この僕の」
山々に夕日が沈みこんでいく。太陽の動きが目に見えて早い。あっという間に、空は闇に、星空に変わる。
波の音が聞こえた。気が付けば、ガルタンダールは砂浜で膝を突いていた。ニールス・ユーダリルが冷たい目でこちらを見下ろしている。
「これは――」
異界か? 界の魔術とは、他者を異界へと引きずり込む術だったのか。
「ここは狩りの庭だ。ガルタンダール。この魔術は絶対に逃してはならぬ敵を僕と結び付ける術。ま、たいていの者は刻印の衝撃に耐え切れず消し飛んでしまうが……そのルーンを刻まれた者は一生、狩人から狙われ続ける。たとえどこにいようとも――」
また周囲の景色が変わる。どこかの国。どこかの都会の雑踏。道路に膝を突いたまま、ガルタンダールはニールスを見上げることしかできない。
「何をしていようとも――」
南極。氷の大地の上。
ニールス・ユーダリルの魔力は、今や全身に満ち満ちている。それは彼自身のものであろう深緑の魔力だけではなく、さらに白い魔力も織り込まれた、強力で底知れぬほどの量だ。
「このニールス・ユーダリルから逃れることはできない」
ガルタンダールは――またしても景色が変わり、今度はさびれた教会の中だ――この言葉にすかさず渇いた笑いを返した。
「なるほど。完全追尾の魔術とでもいうべきかな。しかし、仮に君を今ここで倒せばどうだ? ほかにも、呪い、病、事故。人間である君が狩りの最中に死ぬことなど、いくらでもあるんじゃないか」
「死なない」
岬へ――ちょうど二人の間に位置するところに、真っ白い灯台が立っている。
「何?」
「死なないんだ。君と僕は結び付けられた。獲物を追う限り、僕は一時的に不死となり、魔力によって怪我も病もたちどころに治すことができる。獲物である君もまた、僕に狩られる以外の理由で命を落とすことはできない。代償として、僕は君を追い続けなければならず、君は僕に一生追われ続ける」
夜の草原に戻っている――満月が、二人を見下ろしている。
ガルタンダールの胸で、エオのルーンが光を放っている。
「それでは、この魔術は……」
「そうだ、ガルタンダール。今や君と僕にとって、この世界の全てが狩りの庭となった。まさにこの魔術は――」
冷たい風が吹き抜けた。景色が戻っていた。雪の積もった森に。七ツ森に。
「運命を決定づける術だ」
狩人が弓に矢をつがえていた。ガルタンダールは咄嗟に空の剣を繰り出した。この距離ならばニールスを両断できる――だが、決死の刃に切り裂かれたはずのニールスの胴体は血の一滴も流さぬまま元の姿を保っていた。弓も、矢筒も無事だ。敵の手元の矢は七本。対してこちらは、今や呪力も底をつきそうな――
「ぐっ――!」
後方へ、跳ぶ。ニールスの矢が放たれていた。超高速で飛来するそれを何とか叩き落とし、ガルタンダールは樹上へと逃げる。積もった雪が散り、灰色の空が見えた。逃げなければ。だが、どこへ。どうやって――
空気を裂く音。ガルタンダールは虚空にて磨き上げた無色透明な刃を振るう。追撃の矢が弾かれた。だが、さらに死角から矢が一本、二本と飛んでくる。躱しざま鏃が大腿部を掠め、肩を抉った。ニールスの姿が見えた。魔力による強化された肉体での跳躍。いや、それはもはや人の域ではない。今のニールスにとって人間に適応される物理法則など存在しないようなものだ。
「ニールス!」
接近したニールスへ不可視の刃の一撃。だが、ニールスはその刀身が見えているかのように、空中で軽やかに一転。躱しざま、目に見えぬ速度でつがえられた矢が放たれる。ガルタンダールは自らに残された呪力を放出する。赤い波動が矢の軌道を逸らし、加速を得たガルタンダールは呪力を纏った腕で無造作にニールスへ掴みかかる。空中で、高密度の魔力と呪力がぶつかり合い、衝撃波によって両者が吹き飛ぶ。
「ぐっ!」
浮遊したまま、ガルタンダールは体勢を立て直し、ニールスの姿を探す。研ぎ澄まされた感覚が気配を察知した。矢。だが躱せる。ニールスは、ニールス・ユーダリルはどこに――……
「っ!?」
さらに上空。ガルタンダールは天を見上げた。狩人はすでに最後の矢を獲物へと向けている。
「生涯君との追いかけっこをしてやるつもりはない。ガルタンダール、これで終わりだ。魔力昇華・神具――」
弓と矢が、目もくらむほどの黄金色へと染まる――
「〝狩人の月〟」
直後、弦より離れた黄金の矢が瞬く間にガルタンダールの胸の刻印へと突き刺さり、耐え切れぬほどのエネルギーが、爆音とともに闇霧の王子の肉体を吹き飛ばした。




