第二十二羽 強襲
赤熊は鼻先をゆっくりと持ち上げる。鼻を鳴らし、空気を嗅ぐように二人の匂いを確かめると、喉の奥から低い唸り声を漏らした。
その仕草だけで、ルカは思わず息を呑む。
(勝てるわけねぇ・・・)
喉が勝手に鳴った。
人間だった頃、動物園やテレビで見た熊とはまるで違う。目の前にいるのは、この山の頂点に立つモンスターなのだ。
赤熊は鼻を鳴らすと、ゆっくり首を左右へ振る。山犬の匂いはまだ残っている。だが、その間へ割って入った二つの小さな命も、もう見逃すつもりはないらしい。
赤い瞳が、じっとキソを見据えた。
『キソ!どうすんだよ!』
返事はなかった。
少女はただ静かに腰を落とし、左手でルカを胸元にしまう。その仕草には焦りも恐怖もない。薬草を摘む時と同じように、無駄のない動きだった。
右手がゆっくりと腰へ伸びると、細い筒を握るその指先がわずかに力を帯びた。
『た、戦うのか?』
『背中を向けてはダメ』
それが戦う理由だった。
キソが言い終わるより早く、赤熊の巨体が沈み込む。筋肉が大きく膨らみ、次の瞬間には爆発したように地面を蹴った。
『グアアアアアアアアッ!!』
巨体とは思えない速さだった。
赤黒い影が視界いっぱいに迫り、ルカは思わず目を閉じる。
(終わった――)
そう覚悟した、しかし。
『・・・あれ?』
衝撃は来なかった。
恐る恐る目を開けたルカは、思わず息を呑んだ。
目の前にあったはずの赤熊は遥か下で大木を見上げている。自分たちは、いつの間にかその枝の上へ立っていたのだ。
『えっ、なんで!?』
赤熊はすぐに二人を見つけると、大きく口を開き、怒りに満ちた咆哮を響かせながら大木へ突進した。巨体がぶつかった衝撃で幹は大きく軋み、枝葉が嵐のように揺れ動く。
キソは揺れる枝を軽く蹴った。
少女の身体は宙へ舞い、そのまま隣の木の枝へ音もなく着地した。さらにその反動を利用して次の木へ、また次の木へと飛び移り、森の上を滑るように駆け抜けていく。
ルカは胸元に潜り込んだまま、ただ呆然と口を開けていた。
キソは赤熊を見据えたまま空中で吹き矢を口へ運ぶと、息を吐くような自然さで毒針を放った。細い針は真っ直ぐ赤熊の肩へ吸い込まれ、間髪入れず二本目が首筋へ、三本目が前脚へ突き刺さる。
それでも赤熊は一切怯むことなく、怒りのまま大木を薙ぎ倒していく。木々をなぎ倒しながら咆哮を上げ、その赤い瞳だけは決して獲物を見失わなかった。
『ダメだ!当たってねえ、キソ!』
『・・・違う』
短く返す。
『はずしてない』
そのあまりの冷静さに、ルカは返す言葉を失う。
やがて赤熊は怒りのまま一本の大木へ体当たりすると、その衝撃で枝葉が激しく揺れ、視界いっぱいへ葉が舞った。
『今だ!逃げろ!』
ルカが叫ぶ。
赤熊の姿が隠れた一瞬を狙い、キソは隣の木へ飛び移ると、そのまま森の奥へ駆け抜けた。風のように森を滑り、やがて赤熊の咆哮も少しずつ遠ざかっていく。
ようやく安全な距離まで離れたところで、ルカは大きく息を吐いた。
『はぁ~・・・逃げ切ったな』
胸を押さえながら笑おうとしたその時、突然キソが足を止めた。
『・・・キソ?』
少女は何も答えない。
静かに薬カバンを降ろすと、中から見慣れない小瓶を一本、また一本と取り出し始めた。
『お、おい・・・何してんだ?』
返事はない。
毒草、毒液、粉末。次々と小瓶の蓋を外し、中身を慎重に混ぜ合わせていく。
『キソ・・・?』
ようやく少女が口を開く。
『毒、作る』
『え?』
『あれじゃ足りない』
その一言に、ルカは思わず聞き返した。
『いや、もう逃げ切っただろ!?』
キソは首を横へ振ると、一瞬だけ吹き矢にプッと息を送る。
『今度は、殺す』
それは怒りでも憎しみでもない。危険なものは毒で処理する、ただ、それだけのことだった。




