第一羽 落ちた
『よっと・・・おしっ』
趣味のボルダリングが高じて、近藤 琉夏はいつしか本物の岩壁を登るようになっていた。
最初は近所のクライミングジムで遊ぶ程度だった。色分けされたホールドを順番に掴みながら壁を登り切るだけで満足していた。
気付けば屋外の岩場へ足を運ぶようになり、今では高さ百メートルを超える崖に挑戦するまでになっている。
もちろん危険な趣味だという自覚はあった。親に知られれば大目玉は確実だろうし、学校の友人たちに話しても『頭おかしいだろ』と笑われるに違いない。それでも、こうして崖に張り付いている時間だけは、妙に心が落ち着いた。
足元には森が広がり、吹き上げる風が頬を撫でていく。指先に伝わる岩の感触に意識を集中させていると、面倒なことも嫌なことも自然と頭の外へ追いやられてしまうのだ。
『あと少しだな・・・』
頂上を見上げると、残りの距離はそれほど長くない。このまま順調に登れば十分ほどで到着できるだろうと思いながら、琉夏は右手を伸ばして次の足掛かりを探した。
その時だった。
『ピィピィ』
不意に甲高い鳴き声が響き、琉夏は思わず動きを止めた。鳥の声そのものは珍しくない。山へ来ればいくらでも聞こえる。
気になって周囲を見回すと、自分の登っているルートから少し横へ外れた場所に、小さな岩棚があるのが目に入った。そこには枯れ枝を寄せ集めたような巣が作られており、その真ん中で産毛の残るヒナが口を大きく開けて鳴いている。
『へぇ・・・こんな場所にも巣を作るんだな』
感心しながら眺めていた琉夏だったが、次の瞬間、その表情は固まった。
シュルルル・・・
巣の奥にある岩の隙間から、一匹の蛇が頭をのぞかせた。
蛇は慌てる様子もなく、ゆっくりと岩肌を這いながら巣へ向かっている。その動きには迷いがなく、まるで目の前の獲物が逃げられないことを知っているかのようだった。
『ピィーピィー』
ヒナは危険を察しているのか、先ほどよりも激しく鳴いている。
『し、自然の摂理ってやつだよな』
琉夏は目をそらしながら小さく呟いた。
蛇がヒナを食べるのは残酷に見える。しかし蛇だって生きるために餌を必要としているのだ。可哀想だからという理由だけで人間が介入するのは違う気がする。
それに、ここは地上じゃない。足を滑らせれば死んでもおかしくない高さの崖の途中だ。他人どころか、自分の身ですら保証できない場所である。
『関係ない関係ない・・・』
そう言い聞かせながら視線を上に戻し、再び登ろうとする。
だが。
『ピィーッ!ピィーッ!!』
鳴き声が耳から離れない。気のせいだと分かっているのに、まるで助けを求められているような気分になってくる。
『知らねぇって・・・』
思わずそう返してしまったものの、結局もう一度ヒナの方を見てしまった。
蛇はさらに距離を詰めている。あと数十センチでその口がヒナに届くだろう。
琉夏はため息をつきながら、試しに体を横へ振りできる限り腕を伸ばしてみるが指先は空を切った。
『くそっ、やっぱ届かない』
安全確保のために掛けているカラビナを外せば巣まで辿り着けるかもしれない。しかし同時に、落下した時の命綱も失われる。
つまり、足を滑らせたら終わりだった。
『馬鹿らしい・・・』
たかがヒナ一羽だ。助けたところで何になる。見捨てて登れば済む話じゃないか。頭ではそう理解している。それなのに・・・
『ピィーーッ!!!』
『ああもう!』
ついに琉夏は声を上げ、勢いのまま腰のカラビナへ手を伸ばす。自分でも何をやっているんだと思いながらそのロックを解除する。
『少しなら大丈夫だろ』
誰に向けた言葉なのか自分でも分からないまま、琉夏は慎重に巣に向かって横移動を始める。
命綱がないという事実は想像以上に恐ろしく、一歩動くたびに胃が縮み上がるような感覚がした。
それでも少しずつ距離を詰め、ようやく巣の近くまで辿り着いた時、蛇がこちらへ気付いて鎌首をもたげた。
『悪いな。今日の飯は別を当たってくれ』
そう言って巣に使われていた枝を一本掴み、蛇の鼻先を軽く叩く。
ペシ。
蛇は不快そうに頭を引いた。
もう一度。
ペシッ。
今度は完全に警戒したらしい。蛇はしばらく琉夏を睨んでいたが、やがて諦めたように岩の隙間へ消えていった。
『ふぅ・・・』
琉夏が安堵の息を吐いた瞬間だった。
『ピピピッ!』
興奮したヒナが巣の中で暴れ、そのまま端から転げ落ちた。
『うおっ!?』
咄嗟に手を差し出すと、小さな体が掌の中へ収まった。
胸を撫で下ろしながらヒナを見下ろすと、当の本人は何事もなかったかのように掌の上でピィピィと鳴いていた。
『ったく!せっかく助かったのに落ちたら元も子もないだろ』
そう言いながら元のルートを確認しようと体をひねった、その瞬間だった。
ミシッ・・・。
『・・・は?』
足元の岩に亀裂が走ると同時に、琉夏の足がスカッと空を切った。
『やばっ!』
反射的に近くの岩へ手を伸ばそうとした。だがその瞬間、掌の中のヒナが目に入る。
『っ・・・!』
もし今岩を掴みにいけば、この小さな命を放り出すことになる。
一瞬にも満たない迷い。けれど、体が完全にバランスを失うには十分な時間だった。
『うわぁっ!』
空と崖がぐるりと反転した次の瞬間、少年とヒナは崖の下へ真っ逆さまに落ちていった。
ここで死ぬのか?遠ざかる空を見ながらそう思った瞬間。
―――ピカッ
琉夏を包むように、空全体が白く光った気がした。




