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90.いつか果たされる約束を

 テオナールを探して駆けていたミスラは、ふと一人の気配を感じて足を止めた。

 それと同時、どこか驚いたような声音が、ミスラの耳に届いた。


「まさかミスラの方から来てくれるとは思ってなかったな」

「……久方ぶりですね、テオナール」


 声のした背後へとゆっくりと体を向けると、いつの間に姿を現したのか、テオナールがそこに佇んでいた。

 薄い紫の瞳をもった、左目を黒い眼帯で覆った青年。白の短髪が、柔らかく風になびいていた。

 彼に向かってミスラはゆったりと小首を傾げ、さも当然のように言い放つ。


「私の亡骸を貰ってくれるのでしょう?」

「なんだ、知ってたの?」

「ええ、ノーシスが教えてくれました。おかげで貴方、彼のなかでは『もしかしたら裏切るかもしれない怪しいひと』ですよ」

「ああ、ミスラが虚構の中で可愛がってた彼? 妬けるなあ、昔はその枠は僕のためのものだったのに」


 不満げに眉を顰めるテオナールは、あくまでノーシスに疑われかけていたことを気にも留めていないらしい。

 その姿にミスラは一抹の懐かしさを覚えた。まだ彼らが——ミスラとテオナールと、レーヴと慈愛の神継ぎ(メルセ)が共に在れたころも、テオナールは他者からの評価を意に介していなかった。


「一応聞いておきますが、私の亡骸を悪用なんてしませんよね」

「するわけないだろ、そんなこと。分かってるくせに」

「それでは、何故」


 テオナールはミスラの言葉に透き通った紫色の右目を瞬かせ、そして笑みをこぼした。


「メルセの最期の願いを叶えるために」


 優しい笑みだった。ともすれば想い人に向けられるような、どこまでもただひたむきな愛を湛えた笑みだった。


「僕はね、神になったんだよ、ミスラ。昇華の神だ。ほとんど定まりかけていた占術の神格を捻じ曲げて、昇華の神になった」


 テオナールは、初代の神としてこの世に生まれ落ちた存在だった。

 神はそれぞれ特定の神格を有し、それが虚構であれ契約であれ慈愛であれ、始まりの神が存在する。その初代の神として生まれた彼は、神格こそ定まっていなかったものの、伝説にあるように青みがかった透明の血をもっていたのだ。


「息を引き取る直前、メルセが言ったんだ。『もっとみんなと一緒に居たかった』って。だから僕は、皆の魂を昇華させて一つの世界に生まれ変わらせることにしたのさ。何のしがらみもない、僕たちのために存在する自由な世界に、ね。ミスラたちが神継ぎに降りかかる全ての障害を振り払うために尽力してるのは知ってる。でも、その完成した世界にミスラたちがいないのなら、その魂を攫ってしまってもいいよね?」

「……このまま神になれないのは、レーヴが困ります」

「大丈夫、レーヴが神になってこの世界の全てを虚構で包み込んでから、レーヴの魂は昇華させるから。魂の一部を連れていくだけだから神としての世代交代は起こらないし、百年(ひとの一生分)くらい四柱が沈黙したままでもなんの問題もない」


 ね? と首を傾げるテオナールに、それもそうだとミスラは納得する。そもそも、神々は現世への過度な介入をかつての秩序の神に禁じられているのだから、いてもいなくても変わらないといえば変わらないのだ。

 脱力したようにミスラは息を吐いて、くるりとテオナールに背を向けた。


「最悪の場合、私の遺体を回収できれば貴方はそれでよかったということですね」

「やだなあ、まるで僕が君たち以外の神継ぎなんて眼中にないみたいな言い方」

「実際そうでしょう」

「ちょっと興味が薄いだけだよ」


 手のひらで口元を抑えて少し笑みをこぼしたテオナールが、回り込んでミスラの顔を見上げる。


「ミスラ、呆れてるの?」

「私たちが愛した子たちを蔑ろにされて、私たちが貴方のことなど嫌いになったとは思わないのですか」


 その瞳が閉じられてさえいなければ、彼のそれはいま、少しばかり剣呑な光を纏ってテオナールを射貫いていたのだろう。けれども、例え彼がその瞼を開いていたとしても、それが戒めの意をもった偽りであることをテオナールは知っている。


「ヒトはね、一度好いた相手をそう簡単には嫌いになれないものさ。それこそミスラは僕らのことが大好きだから、一度や二度じゃ僕のこと嫌いになりきれない」


 そのあまりの自信に、ミスラはもう一度ため息をついた。


「……そのように好意に胡坐をかいていると、いつか愛想をつかされますよ」

「あっ否定しないってことは図星なんだ?」

「話を逸らすということは図星なんですね?」


 情は理屈ではないのだ。

 そう簡単に嫌いになれないことも、何かの拍子にその寵愛を失うことだって、双方理解はしている。だからこそ、この言い合い(軽口)が不毛であることも、十分承知の上なのだ。


「私は契約の神と代替わりについての契約を交わしています。契約を履行すれば、今すぐにでも私は次代の契約の神となり、この神継ぎとしての私は死に絶える。ですから事を起こした後の私の遺体は、どうぞご随意に」


 ミスラの許しを聞いて、テオナールはゆっくりと右目の薄紫を瞬かせた後、嬉しそうに細めた。


「ありがとう。……ねえミスラ。最期にもう一度、君の目を見たいな」


 テオナールのささやかな願いに、ミスラはほんの少しだけ息を詰めた。

 けれども、拒否する理由もない。いつの頃からか、それこそヘリオスが悪魔憑きとなり、レーヴが虚構の外へと単身連れていかれた頃から、ミスラは世界を拒絶するようにその瞼を下ろしていた。長い年月の中、その瞳が映した世界は、ミスラの心身を削るには十分すぎるものであったから。それらすべてを、知覚できないようにしたかったから。

 数百年という単位で閉ざされ続けたその瞳を瞼の下で揺らめかせ、そしてミスラはゆるりと瞼を持ち上げた。

 久方ぶりの眩い視界に、記憶より少しばかり大きくなって、ところどころに昔とは異なる相貌が見え隠れするテオナールがいた。

 影を落とした深い蒼玉に真っ先に映り込んだその神の子は、心底嬉しそうに破顔した。その表情が、昔の彼とぴたりと重なる。


「テオナール、私と約束をしましょう」

「約束? 契約でもいいよ」

「いえ。昔から私たちは約束事ばかりしていたでしょう、その延長線です」


 過去の記憶を手繰り寄せたテオナールが懐かしそうに右目を細めて、ミスラの言葉を待つ。


「また、会いましょうね」


 ミスラの蒼玉もゆるりと柔らかく細められ、そっと持ち上げられた右手がテオナールの頬に添えられた。そのまま親指が眼帯越しに失われた左目をうっすらとなぞる。


「……うん」


 テオナールの返事を聞いてから、ミスラはもう一度その瞳を瞼の裏に隠した。満足そうにほんの少しだけ口の端が持ち上げられて、そうして彼の体は、ゆっくりと傾いでいった。


「——ずるいなあ……」


 完全にただの骸となったそれが地面に打ち付けられることのないよう支えながら、テオナールはぽつりとつぶやく。


「他の神継ぎを守ってほしいって、そう僕に願えばいいのに」


 同時に、ミスラであればそのような約束の形をした卑怯な強制などしないだろうという、確固たる自信と安堵が湧いてくるものだから、テオナールは力なく笑って、ゆるりと腕の中の亡骸を抱きしめた。

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