88話 侵入者vs師弟
カツ、カツ……
霧が街を覆い始めたミルゼアの石畳を、一人の影が静かに歩いていた。
黒いローブに身を包み、ゆったりと、それでいて迷いのない足取り。
この時間帯に外を出歩く者はほとんどおらず、その不気味な存在に声をかける者はいない。
ただ一人の不運な巡回兵を除いて。
「……そこのお前、今の時間にそんな恰好で怪しいな。おい、止まるんだ!」
兵士は背後から声をかけ、警戒を強めながら近づく。
しかし、その影は歩みを止めない。
「フードを脱いで顔を見せ……ごぼっ」
言葉の途中で、喉の奥が詰まるような音がした。
兵士は何かを言おうとしたが、声にならない。
混乱しながら、焼けるような激痛を感じる喉に手を当てると、そこにはぽっかりと穴が開いていた。
温かい液体が手のひらを濡らし、ようやくそれが自分の血だと悟る。
「か、ひゅっ」
兵士は最後の力を振り絞り、腰の剣を引き抜こうとする。
ズンッ
だが、剣を抜くよりも早く、頭を何かに撃ち抜かれた。
衝撃の意味すら理解できぬまま、兵士の意識は沈んでいった。
その影は振り返ることなく、歩みを進める。
カツン
黒衣の影は、ミルゼアに数多くある宿屋のうちの一つの前で、静かに立ち止まる。
ゆっくりとその宿屋の扉を開き、“目的”を果たすために中に足を踏み入れる。
カツ、カツ……
宿屋の中は異様な静けさに包まれていた。
まるで時間そのものが止まってしまったかのように、物音一つしない。
だが、その異常さを気にする様子もなく、影は奥へと進み、足音だけが廊下に響き渡る。
「……」
やがて、影は一つの扉の前で立ち止まる。
ギィッと扉を開けると、薄暗い部屋の中、ベッドには燃え盛るような赤毛の少女が静かに眠っていた。
「……」
影がゆっくりと少女へ手を伸ばした、その瞬間。
「そこまでです」
不意に背後から声が響く。
その声に反応し、影の動きがぴたりと止まった。
否、止まらざるを得なかった。
*****
「どのような用件か存じ上げませんが、彼女に手を出すことは容認できませんな」
「……」
眠っているラフィに手を出そうとした侵入者の黒衣の影にシルヴァは話しかける。
侵入者はシルヴァから地面を縫うように伸びた無数の糸で縛られ、身動きを取れない。
「やはり話すつもりはないようですね」
「……」
シルヴァが話しかけても侵入者が口を開くことはなく、もがくだけだ。
「ですが、“聞こえている”のは分かっていますよ。二代目『霧裂きヴェイル』とお呼びすれば良いでしょうか?」
「妖躯」
シルヴァがその名前を口にした瞬間、侵入者の体が小刻みに震え、不気味に変形し始めた。体の輪郭が崩れ、まるで影が流れるように細長く伸びていく。
縛っていた糸がわずかに緩んだ隙を突き、侵入者はするりと抜け出した。
その勢いのままラフィを攫おうと再び手を伸ばしたところで、
「解除」
侵入者の足元の板がトラバサミに変わる。
魔物用のトラバサミは、侵入者の足を砕くほどの威力で噛みつき、その動きを完全に封じた。
「久々の張り込みでしたが、こんなに早く現れるとは思いませんでした。シルヴァ殿の勘は本当に鋭いですね」
眠っていたはずのラフィは、ゆっくりと体を起こし、自分を襲おうとした侵入者をじっと見つめる。
「残念ながら、私はあなたの狙っている少女ではありません」
ラフィの体はじわじわと大きくなり、元の姿に戻り始める。
「初めまして、私はゼノン・グレイドールです。『霧裂きヴェイル』、この街で好き放題にやってきたツケをきっちり払ってもらぞ」
ラフィに偽装していたゼノンは静かに言い放つ。
「まずはその顔を見せろ!」
ゼノンが投げた二つの赤い宝石が空中で輝き、瞬時にナイフに変形する。その鋭い刃が、侵入者の顔を隠していたフードを引き裂く。
「そんな……フィル、お前、どうして……?」
「妖躯、空弾」
フードから現れた顔を見たゼノンは目を開き、驚きのあまり言葉を失う。
その間に侵入者の影の腕は銃の形に変形し、ゼノンの額に照準を定める。
「ゼノン、離れろ!」
「!?」
シルヴァの声で意識を戻したゼノンがすぐに離れると、さっきまで自分のいたベッドには穴が開いており、その穴は床まで貫通している。
「すみません」
「何がありました?」
「彼は……私の部下のフィルです」
ゼノンは信じられないといった様子でシルヴァに侵入者の正体を伝える。
「ひと月前から行方が分からなくなっていたんです。まさか、フィルが『霧裂きヴェイル』だったなんて。真面目で、正義感に溢れる男だったのに……」
「しっかりなさい。私の推測が正しければ、おそらく彼は」
「空弾、貫通」
「来ますよ!」
シルヴァが言い終わる前に、フィルは両手を銃に変え、銃口を二人に向けて連射する。
「彼の魔法は?」
「フィルは空弾を放つ魔法が得意です。ここまでの威力はなかったはずですが」
「なるほど」
「それに、体が変化する魔法なんて使えませんでした」
シルヴァとゼノンは不可視の空弾を避けながら、敵の情報を共有する。
「ゼノン、おそらく彼は死んでいます。完全に動きを止めて、首を刎ねますよ」
「? 分かりました!」
ゼノンはシルヴァの推測に疑問を覚えたものの、すぐに指示に従う。
「解除、縛鎖」
ゼノンが投げた黄色い宝石は鎖に変化し、フィルの両腕ごと体に巻き付く。
「魔法をもらっておいてよかった」
これはゼノンの友人の指定した相手を捕縛する鎖の魔法だ。
ゼノンは普段から魔法を黄色い宝石に偽装して持ち歩いている。
「空砲弾」
フィルはトラバサミに噛みつかれた足を体から離し、口から壁に向かって巨大な空弾を放つ。
壁に穴をあけ、外へ逃げるつもりだ。
「……」
フィルが放った巨大な空弾が壁に当たるも、不思議と空弾の威力が弱まり、壁は無傷であった。
「解除」
ゼノンが魔法を解除すると、部屋中を覆う布が現れた。
「この布は耐魔布と言いまして、魔法にはめっぽう強いのです。その威力なら何度も耐えることはできませんが、あなたを捕らえる間くらいは持つでしょう。残念ですが、逃がしませんよ」
「空砲弾」
「もう遅い」
シルヴァは冷静に告げると、フィルはシルヴァに向けて口から空弾を放とうとした。
だが、その瞬間、シルヴァは余裕を持って上を指す。
その合図と共に、大きな布がばさりと落ち、フィルの全身を覆った。
この布はシルヴァの魔法で天井に仮止めしてあった。
攻撃を避けながら、シルヴァとゼノンは部屋の端に移動し、フィルだけが布に包まれるよう、巧妙に位置を調整していたのだ。
「妖躯」
「魔糸束縛。あなたを包んでいるのは拘束布です。形を変えようが、包んだ対象に合わせて締め付ける。無駄な抵抗は止めなさい。ゼノン、今です」
「分かりました。解除。魔導刃、起動」
布に包まれたフィルをさらに自らの魔法で縫ったシルヴァは、ゼノンに指示を出す。
ゼノンは青い宝石を取り出すと、宝石は剣に変わる。
「フィル……せめて苦しまずに終わらせよう」
ゼノンが剣に魔力を込めると、剣からは新たに鋭利な光の刃が現れる。
「はあ!」
ゼノンが首を断ち切ると、拘束布の中で暴れていたフィルはその動きを止める。
「ふぅ……。シルヴァ殿、先ほど言っていた死んでいるというのはどういうことでしょうか?」
一呼吸置き、ゼノンは戦闘中のシルヴァの発言を追及する。
「その前に、まずは死体を確認しましょう」
シルヴァは死体を調べるためにフィルに近づく。
「私の予想が正しければ……」
言い終わらないうちに、シルヴァはフィルの死体からカチッと音が鳴るのを耳にした。
「……まずい、ゼノンッ!」
次の瞬間、フィルの死体を中心に爆発が起こった。
*****
「げほっ……くっ、やられた。シルヴァ殿、大丈夫ですか?」
「ええ、何とか……」
爆発の余韻が残る部屋の中、二つの繭が解けるようにほどけ、ゼノンとシルヴァが姿を現す。
死体から鳴った不穏な音に即座に反応したシルヴァは、瞬時に自分とゼノンを包む繭を作り出していた。
それでも死体の近くにいたシルヴァは、爆風の衝撃を避けきれず、鈍い痛みをこらえながら立ち上がる。
「すみません、助かりました。……シルヴァ殿が気付かなければ、間違いなく死んでいました」
「最後まで油断は禁物、ということですな。それにこの用心深さ……あの男らしい」
ゼノンはフィルにとどめを刺した後の動揺と気の緩みを悔やみ、シルヴァの言葉の意味を深く噛み締める。
だが、シルヴァはそれ以上何も言わず、ただ静かにゼノンを見つめていた。
「それでは、話しましょう。事の発端は、私たちの部屋に現れたネズミです」
「ネズミ……ですか?」
「ええ。不快な視線を感じ、その先にいたのがネズミでした。不審に思いすぐに仕留めましたが、調べてみると、私が仕留める前にすでに死んでいたのです。そこで、『霧裂きヴェイル』は死体を操る魔法を使うのではないか、と考えました」
「なるほど。では、女性を斬りつけている犯人も……?」
「おそらく、『霧裂きヴェイル』が操っている死体でしょう。ただ、動きを見る限り、完全に支配しているわけではなさそうです。実際に脳と体を切り離した瞬間、動きが止まったので」
「だから、首を刎ねろと言ったのですね?」
「ええ。その上、操る者と感覚を共有できるとなれば、私たちが追っていることも把握しているでしょう。相当用心深い人物なのは間違いありませんし、今ごろ逃げる準備をしている可能性は高いですな」
「それはまずい。……でも、どうしてラフィ殿を狙うと分かったのですか?」
ゼノンはその事実に焦りながらも、シルヴァの落ち着きを見て冷静さを取り戻す。
「手紙でも書きましたが、あくまでその可能性が高いという推測と“勘”です。だからこそ、ゼノン殿には宿屋の人々に避難するよう説得を頼みました。まさか、張り込み捜査に協力までしていただけるとは思いませんでしたが」
「昔から、シルヴァ殿の勘が外れたことはありませんから」
「それは買い被りすぎです。それに、ここまで早く来るとは思いませんでした。魔布の在庫があったおかげで助かりましたが、なければ危ないところでしたよ」
「私も数日は張り込む気でいました。でも、どうして“可能性が高い”と?」
「それはですね、クラウ様が」
――バンッ!!
突然、部屋の扉が勢いよく開いた。
「大丈夫ですか! あれっ、シルヴァさんにゼノンさん?」
「大丈夫かニャ!」
「一体何が?」
「どうしたんですの?」
慌てた様子で捜査を終えた四人が帰ってきた。
久々のがっつり戦闘回でした。




