□過去 土蜘蛛との決着
己の荒い息遣いの他には何も聞こえなかった。
全身が灼けるように熱く、また同時に凍てつくような悪寒を感じていた。
眼前には太刀を握った首のない女が斃れ、すぐ傍らに頭部を転がしている。唇の紅、膚の月白、御髪の漆黒からなる鞠の如し首級は鮮やかで――どこまでも異様な魅力を放っていた。
どれだけ放心していたのか。
私を覚醒させたのは、手から滑り落ちた刀が床を叩く、ごとり、という音であった。拾おうと身を屈めれば、刀身の殆どが腐食して、鍔元から千切れかかっている。
これは一体――。
「妾の血に触れたのじゃ。鋼を溶かすくらい造作もないことぞ」
首だけになった女が云った。
忌々しげに此方を睨んでいる。
「土蜘蛛よ。貴様は首を落としてもまだ死なないのか」
「そう驚くでない。そんな大層なことでもなかろうに。――のう、その厳めしい面頬を取って、妾に爛れた死に顔を見せてはくれぬか」
女は猫撫で声でねだる。
「死に顔だと」
「然り。お主は妾の血を頭から被ったのだ。如何にお主が頑強な躰をして、鎧兜を着込んだとしても無駄よ。膚を抉り骨まで貫く地獄の痛みじゃ。ただの人間ならば一日たりとも保ちはせん。これは呪いぞ。妾を討った愚行、死ぬまで悔やみ続けるがよい」
「成程。道理で先刻から顔が痒いわけだ」
「痒い、とな」
女は破顔する。
「くだらん強がりはよせ。妾の血を浴びて平気な者などいるものか」
「そんなに見たければ見せてやる」
面頬を外し、素顔を晒してやる。狼狽えたのは女の方であった。
「何故じゃ。何故痕がない」
「云ったはずだ。人間を舐めるなよ、とな」
「認めぬ。人間ごときが妾を斬って無事でいられるわけが――さてはお主、術を用いたな」
「だとしたらどうする」
「――おのれ。貴様だけではない。いつか必ず、術者共々嬲り殺しに」
「黙れ」
女の髪を掴み、床に叩き付ける。間髪入れずに顳顬を踏み潰せば、この恨み晴らしてくれるわ――と女は呻き声を上げる。
「そうだ。それでいい。貴様は私だけを恨んでいればいい」
「魂胆が読めたぞ。お主に術をかけた者がそんなに大切か」
額に汗を浮かべながら、おそるおそる土蜘蛛は口を開いた。
「其奴がお主の弱点か。ならば妾は其奴を」
「黙れと云うのが分からんのか」
足に体重を乗せれば、みしり、と頭蓋が軋む。
「詮索は無用だ。舌を抜かれたくはあるまい」
慥かに私が浴びた土蜘蛛の返り血は熱かった。人の命など容易に奪える代物であろう。それは全身を突き刺す耐え難い痛みからも分かる。
だが、馨のくれた護符が呪いを打ち消してくれている。
胸に掌を当てれば、篭手と胴越しに、札が熱を放っているのが感じられる。
首を包む布切れを確保せんがため、女の唐衣を剥ぎ取る。未練がましく四肢を振り乱している躰であったが、落ちていた槍で胸を穿てば、すぐに大人しくなった。
あとは館に火を放ち、骸共を荼毘してやればいい。
それで、全ての始末は終わる――。
腰に提げた革袋から、青鷺の血で綴った呪符を取り出す。女の屍へ放れば、呪符は女に触れた途端、紅色の炎に姿を変える。
火は床を滑るように燃え広がり、屍達を次から次へと呑み込んでいく――。
「阿修羅だな、まるで」
女が呟いた。私が黙っていれば、続けて。
「お主、名は何と申す」
と尋ねた。
そこで、斬り合いまでしたのに、己が名乗りもしていなかったことに思い至る。
「日影龍真だ」
「龍真。やはりお主は人ならざる者よ。加護を背負った阿修羅になら討たれても致し方ない」
「貴様も執拗いな。負けた妖が矜恃を語るのは滑稽とは思わんのか」
「ふん。早う妾を包むことだな。火に呑まれては叶わん。そこの太刀も持って行くがいい」
「太刀?」
「妾の愛刀ぞ。妾を討った褒美に、お主に貸してやる。いいか、くれてやるのではない。貸すだけじゃ。いつか必ず取り立ててやる。その時まで精々大事にしていることだな」
努々(ゆめゆめ)忘れるでないぞ――と土蜘蛛は嘯いた。