空襲前夜
月のない夜を見上げていた。
来栖泰造に表情はなかった。
二本の刀を揃え、十四年式拳銃を携え、手榴弾を下げている。闇夜に潜む悪鬼の如きであろうと彼自身よく分かっている。
昭和二十年六月二十五日。空襲前夜である。
夢はない。憂いもない。
ただ彼は己を恥じていた。
「もう終わりぜよ」
背後に立つ花巻英樹がそう呟く。
捻れた髪を後ろで縛った英樹の表情は夜雲の影に隠れている。吐き捨てるような、蔑むような、腐り切った声だった。
泰造は無言で歩き出す。その後に続く英樹の銃剣がカチャリと音を立てる。
沖縄が米国に占領された。
本土決戦は、すでに始まっていると言っても過言ではなかった。
最大の同盟主であったドイツが敗北し、頼みの綱はあのソ連邦のみであるという。望みなどあるはずもない。
「なぁ、どうするんじゃ?」
泰造が何を考えているか、英樹には分からなかった。雪崩れ込んでくる敵軍を相手に討死を果たすか。それとも潔く自害するか。兎にも角にも、こんな街外れの学舎を訪れている場合ではない。確かに奇怪な所ではあったが、数千年の歴史を持つこの日の本の国が終わりを迎えようとしている今、訪れるべき場所であろうはずもない。だが、もはや全てがどうでもいい。
「ワシァ、おんしに斬られて死のうと決めていた」
英樹は失望していた。絶望の淵にいた。それでも上官である泰造には最後まで付き従おうと決めている。それ以外に道はなかった。
「じゃが止めじゃ、ワシがおんしを斬る」
校庭の外に血みどろの肉塊があった。
なますのように斬り刻まれた大柄の男に野犬が群がっていた。
上官を無視して学舎への侵入を繰り返し、複数の女生徒に乱暴し、果てにその親にまで手を掛けた岸辺惣太郎は上官である泰造と英樹によって内々に処罰された。ゴミ捨て場となった学舎の西側には誰も寄りつかない。やがて肉の喰い荒らされた男の骨までもがヘドロの底に沈むであろう。そう放って置かれた肉の塊が微かに動いた。野犬は気にせず男を噛む。血の滴るご馳走に群がる。すると肉塊から唸り声が上がる。野犬の吐息に男の息が重なる。
「うっ……む……」
のしり、のしりと男はヘドロを這った。野犬たちは獰猛な雄叫びをあげ、男の肉を食い破る。だが、それでも男は身体を引き摺った。夜に向かって。縋るように。必死に──。
喧騒の訪れは唐突である。
元幽霊部員の田中太郎に、超研とは何たるかを熱く語っていた部長の睦月花子はいち早く異変を察し、先ず側にいた太郎を教室に投げ飛ばした。そうして副部長の鴨川新九郎を蹴り入れると、和やかに談笑している小田信長と宮田風花に向かって怒声をあげ、ぼんやりと月を見上げるカボチャ男こと清水狂介の胸ぐらを掴みつつ、悲鳴を上げるセーラー服姿の水口誠也に向かって勢いよく突進した。
木目の並んだ床が揺れる。
廊下が爆炎に包まれるのとほぼ同時のことである。
窓辺にいた山田春雄は呆然と流れゆく炎を眺めた。黒板の前で足を組んだ長谷部幸平のみ優雅なコーヒーブレイクに勤しんでいる。
「で、まーた空襲が始まったってわけ」
阿鼻叫喚の教室の中で、炎に呑まれた廊下を眺めつつ、花子は面倒くさそうに腕を組んだ。隣では清水狂介が同じように髑髏のタトゥーの入った腕を組んでいる。ただ、その表情はカボチャの仮面のせいで分からない。
「こ、これは……、いや、これは空襲じゃないだろ……?」
春雄が首を振る。まるで紅蓮の濁流のように炎が廊下を流れている。しかし熱風はなく、メラメラと照る黄土色の波のみ眩しい。
「じゃあ何だっつーのよ? 戦時中は火の川でも流れてたの?」
「いや……」
「まぁいいわ、どうせもうすぐ終わりだし、中々興味深かったわね夜の校舎ってやつも!」
花子は黒板に蹴りを入れた。すると壁は脆く破れ去り、巨大な穴が開く。その余波で長谷部幸平の体が宙を舞う。
「とっとと三島恒雄とかいう生き残りボコって、そんでこの夜とおさらばするわ……ああっ?」
花子は素っ頓狂な声を上げた。穴の向こうに講堂の舞台が見えたのだ。そして見覚えのある者たちの姿も。壁を破壊しつつ校舎を移動してやろうと意気込んでいた花子は何やら拍子抜けした思いで、すぐ目の前に立っていた猫っ毛の少年と幼なげな少女に向かって、怪訝そうに首を傾げた。
「いや……アンタらって吉田何某と千代子じゃない? 生きてたの? てかなーにしてんのよこんな所で?」
本当に何をしていたのか。
まるで綱渡りでもしているかのように、大の字に腕を広げた山本千代子は背中をそり、天井を見上げている。そんな彼女の正面で吉田障子が苛立たしげに腕を組んでいる。
「何してんのかって聞いてんだけど」
「いっつもいっつも」
「あん?」
「邪魔ばっかりしやがって」
吉田障子の瞳が空色に薄れていった。それはつまり彼が彼ではないという証である。
すぐに事情を察した花子はゴキリと首の骨を鳴らすと、グルングルンと無言で肩を回し始めた。
ちょうどその時、講堂の正面扉から、よく通る女性の怒鳴り声が舞台に響き渡った。
「先輩!」
いそいそと壁の穴を潜っていた春雄は驚いて両手を顎の前に構えた。その背中に太郎が衝突する。そこに新九郎の巨体が重なると、情けない悲鳴を上げた男たちが舞台の上に投げ出される。
「僕の体返して!」
現れたのは三原麗奈だった。アッシュブラウンの髪を乱した彼女は怒りに肩を震わせている。そんな彼女の隣に“苦獰天”の特攻隊長である早瀬竜司が立っている。竜司は、舞台の上に倒れた春雄に向かって「よお」と快活に片手を上げてみせた。
「ふーん」
吉田障子は左の頬に指を当てた。
その表情に怒りはない。ただジッと空色に薄らいだ瞳を細めている。だらりと肩を落とした姿は隙だらけで、そんな彼にいつでも飛びかかれるよう、花子は獲物を狙う肉食獣のように腰を落とした。
「返して!」
「いいぜ、返してやる」
「……え?」
「返してやるって言ってんだよ」
麗奈はポカンと口を丸くした。花子も困惑に眉を顰めてしまう。そんな素直な返事があの捻くれ者の口からするりと抜け出してくるなどと思いもしなかったからだ。
「体を返して欲しいんだろ?」
「え……っと、うん」
「なら、俺の目を見ろ」
障子はそう言って、空色の瞳を大きく見開いた。思わず前屈みとなった麗奈の足が一歩前に出る。
「ほら! しっこり見やがれってんだ!」
障子はダンッと勢いよく舞台を踏んだ。少し慌てた麗奈は転びそうになる。
「うわああっ!」
そして障子は絶叫した。雷に打たれたかのように背中をビクンと跳ね上げた。
皆、唖然として彼を見守る。
一瞬の沈黙である。
ハッと顔を上げた障子は隣でオロオロと手をこまねく千代子に向き直ると、ガバッと彼女の小さな身体を抱きしめた。
「千代子ちゃん、ごめんね!」
その顔は涙でぐちゃぐちゃとなっていた。瞳の色は漆黒。またダンッと舞台を踏み締めた障子は、千代子の短い腕をブンブンと揺らしながら、嗚咽とも悲鳴ともつかぬ声を発し、フラフラと覚束ない足取りで太郎たちの方に歩み寄っていった。
「とりあえずは一件落着?」
花子は未だ困惑の表情である。障子の動作の一つ一つがあまりにも大袈裟だったため、それが果たして感動の瞬間なのか、それとも激情の延長線上なのか、はたまた入れ替わりによる副作用なのか、彼女には分からなかった。
「嘘です!」
と、舞台の下から声が上がる。
皆の視線が講堂の正面に向けられる。
「まだ返して貰ってない!」
障子の動きは緩やかだった。ボケっと立ち竦む春雄と太郎の間をするりと抜けると、腰に手を当てた新九郎の肩をポンと叩き、千代子の腕を握ったまま姿勢を低くした。
花子があっと振り返った時にはすでに二人は壁の穴を潜ろうというところだった。
「返して欲しけりゃ捕まえてみろ!」
障子の声が穴の向こうから響いてくる。
額に青筋を浮かべた花子が一歩で壁の穴に突進した。だが、すでに教室には誰もおらず、月の仄明かりに落ちる埃の影のみがキラキラと揺らめくのみであった。
「一体、何をしようというんです?」
“苦獰天”の総長、野洲孝之助は純白の特攻服を風のない校舎でバサバサとはためかせつつ、のそりのそりと前を進む木崎隆明の陰気な背中に向かって、そう苛立たしげに問い掛けた。
「俺たちにはやる事があるんだ。空襲の当日に三島恒雄という男を捕らえなければならない」
陰気な男は先ほどから無言である。夜の校舎は静かだった。廊下に並んだ木目の一つ一つが涼しげで寂しい。どうにも空襲という惨劇からは遠ざかっているように思える。
「おい!」
すぐに業を煮やした孝之助は木崎の肩に乱暴に手をやった。彼らの後ろで事の成り行きを見守っていた徳山吾郎が慌てて止めに入る。
「説明しろと言っている!」
「ま、まぁまぁ野洲さん、落ち着いて」
「キザキ!」
「ほら、キザキさんも、いったん話をしてみては?」
木崎は振り返らない。コツン、コツンと足音が響いていく。孝之助が怒りの形相である。そんな彼を吾郎が必死になって宥める。いつまでも続くかと思われた時間。やがて夜が明けようかという頃、木崎は「理化学室」と書かれた木製のプレートを見上げ、立ち止まった。
「波は止められない」
「はい?」
「大いなる流れは変えられないという事だ」
「つまり……未来は変えられないと?」
「いいや。だが、俺自身がその事実に気付いていなかった」
木崎が教室の中に入っていく。孝之助と吾郎は慌てて彼の後に続いた。
理化学室とは名ばかりの簡素な教室だった。長机の天板はベニヤのように薄い。並べられたビーカーの大きさは不揃いである。焦げ色の棚にホルマリン漬けのカエル。後は背の低い人体模型と用途の分からない道具が数点。それらが夕刻の陽に照らされている。
「やぁ」
窓辺に一人の少女がいた。短い前髪を左右に分けた足の長い彼女は人形のように整った顔立ちをしていた。ただ、どうにも影が薄い。夕日を背にした彼女はそのままフッと消えてしまいそうなほどに翳っている。彼女は机に置かれた物を前に四苦八苦している様子だった。そんな光景がモノトーンの映像のように儚い。
「なっちゃん」
香ばしい匂いが漂っていた。
コポコポと泡の立つ音が流れていた。
無色透明の水を見つめていた少女が顔を上げる。
その瞳には透き通る初夏の空が広がっている。
「違うんだ、それはこう使うんだよ」
木崎は彼らしからぬ得意げな表情をした。ぎこちなく腕を上げると、キョトンと彼を見つめる鈴木夏子の元に歩み寄り、いそいそとサイフォン式コーヒーの説明を始めた。




