夜の海:「マサキって本当にバカね!!!」
(私はまた間違えた)
どうしようもない苛立ちを抱えながら、部屋を隅々まで確認する。トイレとバスルームも開ける。やっぱりいない。
それを確認した上で、エレベーターホールへと駆ける。
玲蘭がいない理由は分からない。だけどもしかすると玲蘭は、なんらかの理由で真咲を追いかけたのかもしれない。
その場合、玲蘭は屋外にいる可能性がある。そう、今にも磁気嵐が襲ってくるかもしれない屋外に。
1階に降りてそのまま外に飛び出そうとしたところで、ふと足を止める。
フロント係がこっちを見たから、歩み寄って声をかけてみることにした。
「あの……。若い女の子、外に出ていきませんでしたか? ロングヘアで、目がぱっちりしていて、多分今は浴衣姿で」
「お連れ様ですか? ……って、ああ、あの美人すぎる方」
フロント係の若い男が、急に思い出したように言った。その表情がどことなく華やいでいるのがなんとなく鼻についた。
「ここ通ったんですか?」
「あ、いえ。チェックインの際にそう思っただけで。14時台にチェックインなさった方ですよね。や、ええと、お客様も、美人さんですから、美人さんが2人でチェックインしたなぁって覚えていただけで」
何やらしどろもどろになっている。余計なことを言うあたり、バイトか新人かもしれない。しかし、構っている余裕はない。
「じゃあ通ってない?」
「あの方が通ったら覚えてないはずがないですけど……」
それはそうかもしれない。なにしろ玲蘭は黙っているだけで人の目を引くほどの完璧美人だ。
それならば、玲蘭は外に出ていないと考えて良さそうか……。
「ですが、私も、フロントに常にいたわけではなくて、何度かバックヤードに入っているので、その間に通ったとしたら、分からないんですが」
あてにならない若造だ。
「ありがとう。探してみます」
それでも、内心の苛立ちを押さえつけながら謝辞を述べる。
立ち去りかけて、ふと余計なことを言いたくなった。
「ちなみにあの子、恋人いるんで」
「わぁ。そぉなんですかぁ……。あ、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
露骨にガッカリしている。素直な若造だ。
***
真っ暗な海辺は一見すると、さっきとそれほど変わらないように思えた。だけど、どことなく風が強いような気がする。
静かな砂浜に人影はない。逡巡ののち、声を上げた。
「レーラ!」
まだ気まずい感じはするけれど、それよりも安全確保が優先だ。だから呼びかけた。
「レーラ、いる?」
返事はない。
旅館の中にいるのかもしれないと思ったけれど、それでももう少しだけ粘ってみることにする。
早足で堤防の上を歩きながら人影を探す。探す。
急に、何かの気配に気がついた。少し遅れて、ぞわりと嫌な予感が体を駆け巡った。
慌てて気配の方向を見やる。
波打ち際で、バチリと音がした。
波の音とはまったく異なる、機械が紡ぎ出した電子音のような雑音。
そして、真っ暗な波間に出現していたのは、極彩色の異形。
サソリのような歪な形をしたバグだった。
まずい。
あれこれと考えるよりも先に駆け出した。旅館の方に向かって。
おそらく磁気嵐の影響で、海にヴァーチャルエラーが出現しようとしている。生まれたてのエラーは範囲が小さいけれど、既にバグが生まれているということは……あのエラーはやがて、海岸一帯を侵食する巨大エラーになってしまうに違いない。
とにかく駆けた。これでも元陸上部、足は速い方だ。だけど、浴衣にサンダル履きというハンディキャップがある。
意を決してバッと振り向いて、絶望した。サソリのバグの動きが意外と速い。
静かな海岸でたった1つ、動きのある物体に目をつけたのかもしれない。一心不乱にこっちに向かってきている。
旅館に続く道を走る。息が上がってきた。
背後に、殺気のような鋭いものが膨れ上がっている感じがする。音響設備がトラブルを起こしたときみたいな、バチバチという嫌な音がすぐ近くで聞こえる。
旅館の玄関まではまだ遠い。背後を振り返った瞬間、サソリがこっちに向かってザッと跳躍したのが見えた。
全力ダッシュで疲れ切っている体に鞭を打ち、横に跳びながらひらりと体を捻る。
サソリは目の前すれすれをかすめ、真咲の行く先に立ちふさがった。これで、行く手を塞がれた形になる。
やむなくサソリのバグと対峙する。
ヤツが真咲に向かって、再び飛びかかろうとした瞬間だった。
「एतेभ्यः शापित-कीटेभ्यः मुक्तिं प्राप्नुत」
ガツッと何かがぶつかるような重い音。そして詠唱の声。
刹那、目の前で起きた光景に思わず「ひぇ」と声を上げてしまった。
人の身長より長い錫杖が、サソリのバグのド真ん中にドッと深々突き刺さっている。
サソリが暴れだしそうな気配を感じ、慌てて数歩下がった。
下がりながら状況を確認する。玲蘭が、ヴァーチャルエラー修復のスキルでバグに思いっきり攻撃を仕掛けたのだと理解した。
それならば、至近距離にいてはあとで怒られる。慌てて安全圏目指して駆けた。
駆け出す瞬間、玲蘭と目が合った。……鬼気迫る表情だった。まるで、神話の世界で悪い者を制圧する女神のような立ち姿。
正直、怖いと思った。
音響のノイズみたいな激しい音が周囲に響いている。もしかすると、あのサソリバグの鳴き声のようなものなのかもしれない。
バチバチと耳障りな音を立てて抵抗するバグは、それでも玲蘭によってあえなく駆除され、掻き消えていく。
錫杖を掲げたまま、玲蘭がゆっくりと振り向いた。
駆け寄ろうと足を踏み出しかけて、玲蘭の様子に気付き思わず固まる。
……あの表情。もしかしなくても、多分すっごい怒っている。
「このバカ!!!」
ほとんど金切り声みたいなお叱りが飛んできた。これは、マジで怒っている。
「マサキって本当にバカね!!! 別のが湧くと困るから走りなさい」
とにかく、一切合切はあとらしい。真咲がホテルに向かって駆け出すと、玲蘭も長い錫杖を握りしめたまま、あとを追ってきた。
***
ホテルのロビーでようやく錫杖をしまった玲蘭は、すぐにフロントにつかつかと歩みながらさっきのフロント係に声をかける。
「今しがた出てった浅はかな女はあたしが無事保護した。情報ありがとう。海岸に今ヴァーチャルエラーが発生しかけていて、バグが出る可能性もあるから、玄関閉じとくとか、宿泊客に注意喚起するとかうまく対処して。あたしはヴァーチャルエラー修復士だけど、今はエラーの状態が不安定な上に暗くて範囲も見えないから対応不可。明日も朝から雨だから対応不可。夜のうちにエラーが広がったら機関への通報を済ませておいて。あのエラー放置できないから様子見のために延泊する。雨が止み次第除去するから、ひとまずあたしたちの部屋もう1泊延ばしておいて」
フロント係の若造は一気にまくし立てられてアワアワしている。それでも「しょっ、承知しましたっ」など返事をしている。
「あっ、そうだ、これ!」
フロント係が背後の棚を振り向く。そこに置いてあったジンジャーエールのボトルを差し出してきた。
「……ああ、どうも。それで、説明理解した? あなたの方で対応できなければあたしからこの施設の責任者に同じこと説明するけど」
「あっ、いえ、私の方から、支配人に伝えるまするので、だっ大丈夫っす」
ちょっと頼りない気がするけれど、それでも若造は健気に答えた。
「それじゃ対応よろしく」
言うべきことは言ったという感じで、玲蘭が真咲の浴衣の袖を思いっきり引っ張る。引っ張られるままに、すごすごとついていくしかない。
無言でエレベーターを待つ。……なんか怖い。
エレベーターに2人で乗り込む。扉が閉まる直前、玲蘭は手に持っていたジンジャーエールのボトルを真咲にポンと手渡す。
「?」
「歯、食いしばりなさい」
……察した。
真咲の浴衣の襟が乱暴に掴まれる。言われた通り奥歯をグッと食いしばって、全てを諦めるように目を閉じた。
2人だけの閉鎖空間に、パァンと鋭い音が響いた。




