旅館:「マサキのことは色々知ってる」
福島県いわき市の小名浜は多種多様な魚介類が揚がる漁港だ。水揚げされる魚介類は常磐ものと呼ばれ人気を集めるらしい。
お刺身はさすがの鮮度だったし、メヒカリの唐揚げなんて珍しいものもいただいた。食堂で出してもらった夕食は量が多いように見えたけれど、そこは1日働いた2人、しっかりと食べてしまった。
ところで、昨日の真咲の乱れっぷりを目の当たりにして味をしめたに違いない。玲蘭は今日もお酒を勧めてきた。
だけど、今日は昨日とはまったく事情が違う。
「今日は車出さないとは限らないもん」
昨日のような醜態を晒すのはもう御免だ。だから、とにかくあれこれと理由を述べてお酒を固辞することにした。
「急な買い物、ないとは限らないし。ほんのわずかな可能性とはいえ、地震とか津波、ヴァーチャルエラー被害から避難するシチュエーションだって考えておかなきゃならないからさ」
「まあ、そうかもしれない」
幸い、玲蘭はそれ以上無理強いしなかった。
***
客室に戻ってからも、玲蘭はそれなりにご機嫌だった。荷物を整理したり、置いてあるフリーペーパーを眺めたりしつつ、楽しそうに話しかけてくる。
「そうだ、ねえマサキ!︎︎卓球あったね」
食堂から部屋に戻る道すがら、2人はそれを見つけた。こういう施設にはよく卓球台が設置されているけれど、この旅館も例外ではないようだ。
「卓球やりたい? でも今はお腹いっぱいだもん、無理そう」
「確かに」
玲蘭と遊ぶのは楽しそうだけど、さすがに食後すぐの運動なんて考えるだけでゲンナリする。
「雨とか磁気嵐で延泊になったら、明日遊ぼっか」
「そうだねぇ……」
答えながら窓際の広縁に移動する。
この部屋の広縁には低い椅子が向き合って置かれていて、その間にごく低いテーブルがある。宿の窓辺に位置するこのコンパクトな空間が、真咲は結構好きだ。
椅子に座って、ヴァーチャルモニターを起動した。
「ああ、雨は一旦やんだんだ」
モニターに表示された気象情報の真偽を確認するため、手を伸ばしてカーテンを開けてみる。……だけど暗くてよく見えない。
「ホント?」
玲蘭がいそいそと隣に来て、モニターを覗き込んできた。
宿の浴衣姿だけど、さっき食堂に行ったわけだから、さすがにインナーを付けている。そのまま肩にぺたりとくっついてきたとはいえ、理性が揺らぐというほどではない。
軽く引き寄せるようにしたら、玲蘭は真咲の膝の上にポンと座ってきた。
玲蘭と真咲の体重は、体型から推定するにほぼ同じくらいだと思う。だからちょっと重いけれど、そのまま一緒にモニターを見ることにした。
「あ、でも夜半からまた降るっぽい。それに、磁気嵐の発生確率もさっきより高まってる。今夜50%だって」
「出そうだね。明日の朝、エラーの範囲確認し直さなきゃなぁ」
磁気嵐は地面や空間の磁場を乱れさせる特殊な嵐のようなものだ。エネルギーのバランスが大きく崩れるから、人が磁気嵐をまともに食らうとダメージを受ける。ちょうど、ヴァーチャルエラーやバグに触れたときみたいに、気力や体力が失われて倒れ伏してしまうのだ。
だから、磁気嵐が起きているときには極力建物の中に避難しておくのが定石。
そして、磁気嵐が起きるとヴァーチャルエラーの状況は大きく変化する。今夜何もなければいいのだけど、何かが起きた場合には明日以降の玲蘭の仕事が一気に増える可能性もある。
「ま、延泊自体はオーケーって言われてるし」
これについては宿のフロントに確認済みだ。何も起きなければ今夜の1泊でチェックアウト。磁気嵐によるエラーが発生したり明朝の天気が悪かったりした場合には折を見て延泊を申し出ることになっている。
「レーラは毎日働きづめだから、延泊取って休んでもいいと思うけど」
「お休みだったら卓球だね」
「卓球ね。しばらくやってないな……」
高校生の頃、授業でやって以来だろうか。球技自体はそれほど苦手ではないけれど、正直あまり自信がない。
「レーラは卓球得意?」
明日玲蘭との卓球対戦が勃発した場合に備えて、対戦相手の力量を軽くリサーチしておくことにした。
「苦手じゃないけど」
「まあ、護身術をあれだけスマートに繰り出してくるくらいだから、運動神経は悪くないんでしょうね」
昨日の鮮やかな関節技を思い出したら、また身震いがしてきた。
玲蘭は「ふふ」と笑った。
それからおもむろに立ち上がる。膝にかかっていた重みがなくなった。
「マサキだって、運動はそれなりにできるでしょ?」
そんなことを言いながら、玲蘭は広縁の向かいの椅子に悠然と腰掛ける。
「どうかな」
「マサキは結構足が速い」
向き合った状態で、玲蘭がそんな質問をしてきた。それも、確信を伴うような声で。
「うん、まあ」
大人になれば、運動をする機会なんてそれほどない。この旅行の中でも、運動神経がものを言う場面はそれほどなかったように思う。
だけど玲蘭は真咲のことを『運動神経がいい女性』とみなしたらしい。
ふと気づいて、問いかてみる。
「運動神経といえば……そういえばレーラは、私があの川を、跳んで渡れそうに見えた?」
それは午前中のことだ。海辺にあった幅2メートルくらいの川を見て、玲蘭は『跳んで渡れちゃうでしょ?』と言ったのだ。
玲蘭は微笑む。
「うん。跳べる。だってマサキは走り幅跳びが得意」
刹那、違和感に襲われた。
玲蘭の言い方は妙だと思った。さっきの言葉も、今の答えも、予想とか推測とかではなく、明らかな確信を持って放たれた言葉だ。
「……どうしてそう思ったの」
「思ったんじゃない。知ってる」
向き合って座っている玲蘭が、真顔のまま口角を上げた。
「マサキのことは色々知ってる」
「いや、ええと、でも」
混乱しかけた脳で一生懸命考える。だって、そんな言い方では納得できない。
「知ってるって、言ったって、私、昔、走り幅跳びをしていたことは、あまり人に話していない……」
玲蘭は軽く斜め上の方に視線を泳がせた。何か考えるようなしぐさだった。
数秒ののち、まっすぐに真咲を見据えて玲蘭は言った。
「せっかく県大会に出たのに?」
心臓が一瞬、ガクンと音を立てて止まったような気がした。それくらい驚いた。
「え……」
かろうじて声を発する。だけど喉がぎゅうっと詰まって、言葉がうまく出てこない。
「……だって、それ、私、は」
おかしい。真咲はそのことを、周囲の人に話した覚えはない。
「うん、そう」
玲蘭は、あまりの動揺にフリーズする真咲の様子に構うことなく、話し続ける。
「一般のデータベースだとヒットしないんだよ。月ノ井真咲って名前を普通のヴァーチャルモニターの検索窓に入れるでしょ、そうすると、ヴァーチャルストーム社の社員としてしかヒットしない。だけどね、ローカルに潜って出身県のアーカイブまで探るとその名前が出る。11年前、陸上の地方大会に幅跳びでエントリーだけして大会には出場していない、中学3年生の月ノ井真咲って子」
どうしようもない恐怖感に襲われた。
どうして目の前のこの人は、それを知っているのだろう。
何を自信満々に語っているのだろう!
玲蘭の言っていること、全て身に覚えがある。
中2のとき、努力が実って県大会出場を果たした。まだ両親が離婚する前のことだ。
だけど中3の春、親の離婚を機に陸上をやめることにした。だからエントリーしていた大会への出場を取り消してもらいに顧問のところに行った。
お金がなくて遠征費が出せないし新しいシューズも買えない。受験勉強の傍ら家事をしなければならなくなったから時間の余裕もない。だから部活をやめた。……本当は、もう一度上の大会を目指したかったのに。あんなに練習を頑張ったのに。
あのやるせない気持ちが昨日のことみたいに蘇ってきた。
「その前年度のアーカイブには、同じ中学校の佐藤真咲って子が県大会まで行った記録が残ってる」
久々にそのフルネームを聞いた。
かつて佐藤姓だったことなんて、高校入学以降ほとんど誰にも教えていない。自分ですら旧姓を忘れてかけていたほどだ。
旧姓は、あまりにありふれた苗字だ。だから、県大会出場の記録が残っていたとしても、12年も前のその情報と現在の真咲を結びつけることはできない。……本来ならば。
玲蘭がこの旧姓を知っているということは、つまり……。




