第9話:忘却の森の観測官
第9話:忘却の森の観測官
荒野を抜けた一行の前に現れたのは、巨大な樹木がそびえ立つ森だった。しかし、それは我々が知る「自然」とは決定的に異なる。
霧は粒子状のノイズを伴い、梢を揺らす風はどこか硬質な電子音の残響を孕んでいる。
忘却の森。かつて滅びた文明の墓場であり、世界のバックアップを保存する巨大なメモリ・バンク。
木々の葉は半透明に透け、その奥にはホログラムのように、見たこともない街並みや、笑い合う人々の断片がプレビュー表示されていた。
「綺麗だな……。でも、なんだか胸が締め付けられるような、変な景色だ」
ユリウスがそっと木肌に触れる。触れた指先から、光の粒が電子の火花のように弾け飛んだ。
その時、森の奥から、乾いた靴音が響いた。
「驚いた。君たちがここに辿り着く確率は、統計上わずか20%以下だったはずなんだが」
霧を割って現れたのは、白銀のローブを纏った青年だった。
表情はない。感情の起伏を示すような筋肉の動きが、彼の顔面には一切存在しない。ただ、その双眸だけが、一行を「走査」している。
「……魔王軍か」
レオンが即座にエルディア《天秤剣アストライオス》を抜く。
青年――リオ・セファルは、呆れもせず、ただ静かに右手をかざした。
その瞬間、一行の頭上に、理解不能な数字の羅列が空中に展開される。
「僕はリオ。魔王アーク・レイヴンが忠実なる『観測官』だ。君たちの行動を最適化し、そして排除するために来た」
空中の数値が、目まぐるしく変動する。
レオンの頭上には『勝率:48%』。ユリウスには『被弾率:85%』。ガルドには『生存率:12%』。
セイルが目を見開く。
「な、何なの……この数字は……ッ!」
「君たちのエルディア、思想条件、過去の全データ。全てが《観測盤アルゴス》によって解析されている」
リオが指を鳴らす。
直後、一行の周囲の空間が歪み、重力が局所的に増幅された。
レオンが反射的に盾を構える。しかし、リオの計算はレオンの「英雄としての正義」を完璧に先読みしていた。
レオンが右に動けば、先回りして重力が圧し掛かる。左に回れば、逃げ場を塞ぐように空間が圧壊する。
「無駄だ。君の動きはすべて、過去の戦績データから導き出された『最も効率的なルート』の焼き直しに過ぎない。英雄レオン・クラウス、君は正しすぎる。だからこそ、読みやすい」
レオンは奥歯を噛み締めた。
確かに、彼の剣は常に最短で急所を狙う。だが、それを読まれてしまえば、すべてはカウンターの餌食だ。
――負ける。このままでは、ここで全滅する。
レオンの脳内に、冷徹な計算式が浮かぶ。
ここでユリウスを囮として左翼に配置し、自分が隙を作る。そうすれば、勝率は一気に70%まで跳ね上がる。
英雄としての判断。仲間を守るための、非情な選択。
「レオン、迷うな。計算せよ。君が愛する仲間を、最も効果的に『消費』する手段を」
リオの言葉は、まるで正しい解法を教える教師のように響いた。
レオンの手が、わずかに震える。
彼は剣を握り直し、ユリウスの方へと視線を投げた。ユリウスは気づいていない。ただ純粋に、仲間であるレオンのために敵へと突っ込もうとしている。
「――ッ!」
剣を振り下ろそうとしたその時だった。
視界の端で、ヒラヒラと踊るような動きが、レオンの思考を物理的に遮断した。
「計算終了、お疲れ様。でもさ、観測官さん。俺たちの人生は、君の計算機の中に収まるようなお安いデータじゃないんだよ」
フィンのエルディアが、空間をなぞるように広がり風を斬る。
その一撃は、重力の渦を真っ向から破壊するような力任せの一撃ではない。
渦の『基点』となる重力子の配列を、羽の先でシュッと撫でただけ。
「な……ッ!?」
計算外の事象。アルゴスがエラーを吐き出し、空中の数値が真っ赤に点滅する。
重力の縛りが解け、空間が元に戻る。
「兄貴、ぼーっとするな! 次はあっちだ!」
「フィン……!」
「計算なんてしてないで、直感で動けよ! 迷いがあるから、データに食われるんだ!」
フィンは笑っていた。
その笑顔は、あまりに頼りなく、そして狂おしいほどに人間臭い。
レオンの冷え切っていた英雄の仮面が、弟の無茶苦茶な介入によって、わずかにひび割れる。
ああ、そうだ。
俺は、何をしているんだ。
数式のために、大事な弟や友人を「切り捨てる」ことばかりを考えて。
「……すまない、フィン。お前の言う通りだ」
レオンの剣から迷いが消える。
彼は最短ルートを捨てた。あえて非効率な、大振りの横薙ぎ。
リオが計算した「英雄の剣」ではない、ただの「兄の剣」。
「――解析不能?」
リオの瞳に、初めて動揺が宿る。
レオンの切っ先が、観測官の頬を掠めた。
一筋の血が流れる。
それは、完璧に管理された世界に、初めて生じた「ノイズ」だった。
「撤退する。今の君たちには……計算値では測れない『悪意』が混ざっている」
リオは静かに霧の中へと消えていく。
後に残ったのは、沈黙する森と、荒い息をつく五人だけ。
「……あーあ。逃げられちゃったね」
フィンが羽を畳み、空を見上げる。
その瞳には、空の青さなど微塵も映っていない。
ただ、兄の背中が、また一つ遠ざかったことだけを、彼は知っていた。




