立派なねこみみ
昭君の帰宅が珍しく遅くなった夜、の二日後の朝。
テディベア柄のパジャマのまま、ぺたぺた足音を響かせて明ちゃんは居間に通じる扉を開けた。
そして、すぐに閉じた。
閉じてしまうくらいに驚いていたけれど、思考は停止していた。
そこに、猫耳を生やした男がいたからだ。
情けないことに、予想もしていなかった光景を前にして心身の機能が著しく低下している。
猫耳が頭部からにょっきり生えていることを除いて、男はまともな男に見えた。
だがしかし、猫耳が生えている時点でまともではない。アウトである。
どうしよう。変な人だ。
明ちゃんはそう思った。
ついでに、どうしてこんな変な人が自分の家にいるのかと疑問が浮かぶ。
もう一度、そうっと今度は確認するためにドアの隙間から猫耳男の様子をうかがった。
猫耳男は日常的に家族の団欒が繰り広げられる場所、食卓に着いていた。
よく見ると対面式の台所には母の姿。
同じ食卓には父や長兄や次兄の姿まである。
猫耳男は明ちゃんの家族に囲まれて、せっせとエンドウ豆の鞘を剥いていた。
何故、我が家で朝っぱらから見慣れぬ猫耳男が家事の手伝いをしているのか。
それはどちらかといえば、あの場では兄達の仕事ではないかと明ちゃんの混乱は進む。
明ちゃんの頭の中は困惑と戸惑いでいっぱいだ。惑いまくりである。
この状況をどう判断したものか。
自分の取るべき行動を選びかねていると、背後でぺたぺたと足音がした。
振り返ると、そこにはポップな蛙柄のパジャマを着た昭君。
欠伸を噛み殺しながら、眠そうに階段を下りてくる。
「お兄ちゃん……」
「おはよう、明。中に入らないの?」
兄からの御尤もな指摘に、明ちゃんは困り果てて眉を下げる。
どうしていいかわからないから。
自分の隣にやってきた兄に、相談することにした。
「あのね、お兄ちゃん――」
明ちゃんは、自分の心情をわかってもらおうと頑張って説明した。
朝ご飯を食べようとやってきたら、室内に見知らぬ男がいたこと。
その男が明らかに変な人だったこと。
そしてそんな異質な男の存在を、何故か家族達が受け入れているらしいこと。
「お兄ちゃん、私、どうしたらいいの?」
「待って、まずは状況を再確認してみよう。伝聞で状況を知らされても判断つかないし」
「いい、そ~っと。そ~っとだよ、お兄ちゃん」
中にいる人に気付かれまいと明ちゃんは念を押し、昭君も特にそれに抗うことなく。
うっすら隙間を開けて室内を見てみると、やはり。
食卓にはエンドウ豆の鞘を剥く、猫耳野郎が。
寝ぼけて幻覚を見ていたのなら良かったのに……
既に意識のはっきりした頭を、明ちゃんは押さえて嘆く。
その隣で室内を確認していた昭君は、うんと一つ頷いて妹を見下ろした。
「不審者ってどれ?」
「えっ」
兄は、自分と同じ光景を見ていないのだろうか。
明ちゃんが内心で予想していたどの反応とも違い、昭君の態度は淡々としている。
あまつ、どう見ても見知らぬ猫耳男が鎮座しているのに、どれが不審者だと?
「お、おにいちゃ……」
「部屋の中、家族しかいないみたいだけど」
「えっ?」
しかも、何か言いだした。
兄は正気なのだろうか……疑う眼差しを兄に向ける明ちゃん。
納得がいっていないとあからさまに示す妹へと、昭君は指差し確認を交えて同意を求めてくる。
「まず、母さん」
「お台所にいるね」
「次に、父さん」
「新聞読んでるね。経済系の」
「それから正兄さん」
「そういえばいつの間に帰ってきたんだろう……」
「その隣に、和兄さん」
「うん、そこはいつもの光景だよね」
「それから源氏」
そう言って、昭君はピッと一点を指でさした。
人差し指がまっすぐと伸びた先……対角線上には、見慣れぬ男が一人。
件の、 猫耳野郎が鎮座ましましている。
「お、お兄ちゃん……源氏どこ?」
昭君は源氏がいるという。
しかし室内を見回しても、見慣れた可愛い飼い猫の姿はない。
まさか。
まさか、そんなはずは。
信じ難い思い……いいや、そんなはずはない。
信じたくないというよりそんな発想をそもそも認めない。
意識せずに固唾を呑んで、明ちゃんは恐怖の眼差しで兄を見上げた。
「だから、源氏」
その指は、相変わらず猫耳野郎をまっすぐにさしている。
「お、おにいちゃぁぁあああん!?」
明ちゃんの素っ頓狂な声が響き、声に気付いたお父さんが廊下に佇んでいる子供達を見つけた。
今日も朝から麗しい微笑みで、微塵も大和民族には見えない日本国籍の人魚が子供達を差招く。
「昭君、明さん、そんなところでどうしたんだい? こちらにおいで、朝ご飯にしよう」
「おー昭、明、おはようさん」
「おはよう、昭君。明ちゃん。バターたっぷりのクロワッサンがあるよ」
「爽やかな朝でおじゃるな、二人とも。今日の羹は帆立貝のお吸い物でおじゃる」
昭君と明ちゃんに、口々にかけられる家族からの温かな挨拶。
みんな、なんでこんなに平然としているの……
先程とはまた違った信じられない思いで、明ちゃんは呆然とする。
「お、おおお、お兄ちゃんっ? もう一度言って……源氏が、どこに?」
明ちゃんが何度尋ねても、ああ無常。
昭君はただただ猫耳野郎に人差し指を向ける。
もう誤魔化しも利かない。
室内に猫はいない。猫耳の男がいるだけだ。
認めるしかない。
昭君は、明確にあの猫耳野郎を指しているのだと。
「う、うっそだぁ……だって源氏、猫だもん。お父さんやお兄ちゃん達も、なんで猫耳さんを平然と受け入れてるかなぁ」
ぎこちなく、目を逸らしながら。
それでもまだ無駄な抵抗を続ける明ちゃんの精神。
だが、やはり無常。
明ちゃんの無駄な抵抗を蹴散らしたのは、明ちゃんが決して目を合わせようとしない……当の猫耳野郎だった。
いっぱいいっぱいになっている明ちゃんに、猫耳男はこう言ったのだ。
「……この姿で会うのは初めてだから、混乱させてしまったな。明、私だよ。源氏だ」
「う、うそだー!! だって源氏、猫だよ! 猫だよ!? 猫さんのお耳が生えていても、人じゃなかった!」
「これには、そう……理由がある。あれは私が故郷の世界で魔王を倒した時のこと……」
「え、なんか自分語りが始まった。っていうか魔王って何、魔王って」
「魔王に呪いをかけられるも、私は持ち前の魔を防ぐ能力によって発動を抑えていた。だがそんな状態で出身国に帰郷した私に、王家から縁談が持ち掛けられた……縁談の相手は、仲間であり親友でもある戦士の思い人だった。私は縁談を受けられないと王に申し上げたんだ」
「王家からの縁談、直で断っちまったのかー……え? それヤバくない?」
「ヤバイんじゃないかなぁ。王家側からしてみれば面子を潰されたって思うだろうし。魔王を倒すような男が首輪を拒んで野放しになろうとする――権力者からしたら嫌な展開だろうね」
「なんでお兄ちゃん達はするっと信じちゃってるの!?」
「「え、だって源氏だし」」
「……その、この人が源氏だって確信はどこから来てるの?」
心底不思議そうに猫耳男を源氏だと認めきれない明ちゃんを見下ろす兄達。
明ちゃんは逆にそんな家族の方が信じられないと、困惑の目で兄達を見返した。
その疑問に、家族は一同首を傾げて……
人魚父(妖怪)の証言:
「見ればわかるよ? ええと、気配?とかで」
鬼道使い母(元貴族)の証言:
「かかっておった呪が同じものでおじゃる」
長兄(異世界の英雄)の証言:
「目の前で猫から野郎に変わる場面、見ちまったからな……猫耳猫しっぽ、猫首輪装備の全裸男とかどこに需要があるのか。おぞましいもの見たぜ……」
次兄(異世界転生した魔法使い)の証言:
「母さんも言っていたけれど、同じ呪術の気配が濃厚にこびりついているしね。見ればわかるよ。今も人の姿にはなっているけど、まだ呪いの二割ほどは残っているみたいだしね。影響が耳に出てるし」
今更だが、三倉家の皆さんは普通ではなかった。
一般的な疑問も、速攻で消滅である。
がっくりと項垂れる、明ちゃん。
「せめて猫が人間になることに疑問持とうよぅ」
この家族には何を言っても自分にはよくわからない理屈で納得しているのだと返される。
自分の胸の内から湧き上がる、なんだかモヤモヤした気持ち。
モヤモヤをどう処理したものかと、胸を押さえて明ちゃんは思い悩む。
それを自分が猫だったことへの疑問からくる行動だと思った源氏は、先ほど中断されていた『自分が猫になった経緯』について続きを語り始めた。
「……自分との縁談を、私が断ったこと王女もどこかで知ったらしい。自分を振るなんて許せないと……私は、猫になる呪いをかけられた」
「あ、猫になってたの魔王の呪いじゃないんだ」
「そう、私には魔王の呪いもあった。王には自分が魔王の残滓に呪われていることを話して、縁談の撤回に納得してもらったんだが……王女に猫にされたせいで、魔への抵抗力が下がってしまった。それまでギリギリ防いでいた呪いが猫の体に競り勝ち、発動。私は異世界へと飛ばされてしまった……それが、この世界」
「ああ、やっぱり異世界の人だったんだな。現代日本で魔王なんておかしいと思った!」
「今の日本じゃ、魔王を倒したと言っても、まあ大体ゲームの話だと思われるからねぇ」
「猫となり、全く土地勘のない見知らぬ世界で……私には、早々に限界が訪れた。元より慣れぬ猫暮らし、ネズミなどの小動物を食らうのは衛生観念的に受け付けなかったこともある。野良暮らしに行き詰って衰弱は進み、とうとう路傍で行き倒れてしまった……このまま保健所送りを待つしかないのかと諦めかけた時、目の前に女神が現れたんだ」
「女神とな」
「流れからして、拾ってもらったとかそんな展開だろうけど……源氏が我が家の飼い猫になっている経緯上、女神となると……」
現状、三倉家に女性は二人。
平安元貴族なお母様と、黒髪の魔法少女明ちゃんである。
兄二人は一瞬、明ちゃんに目を向けたが。
当の源氏が熱の籠った瞳で凝視していたのは、食卓に汁物を運んできたお母様の方だった。
「貴女は私の救い、私の女神だ……ご主人様」
どうやら女神(笑)は、お母様の方だったらしい。
あまりに熱の籠った視線に、お父さんの麗しい顔が引きつった。
「ああ、そういや源氏は母さんが拾ってきたんだったっけ……」
「女神とか言われっと、違和感すげぇな」
「あの、源氏? 言われずともわかっているだろうけれど、彼女は人妻だからね? 私の妻だからね?」
何に不安を感じているのか、念を押す人魚父。
儚く泡になる展開は彼には無縁だが、種族を超えた結婚をしているだけに何か不安があるのかもしれない。……人魚と猫耳、天秤にかけるにも両者異質すぎて天秤がすごく拮抗しそうだが。
「ああ、伴侶殿。ご安心を。私の感情はあくまで崇拝……信仰心だ。恋愛的興味は一切介在しない。そもそも、二十以上も年が離れている相手にそういう気にはならない」
「ははははは。こちとら年の差四桁なんだけど当て擦りじゃないよね?」
「そんなつもりはなかったんだが、そう思わせてしまったのならば済まない。私も先日の魔王討伐で能力が向上し、呪いの八割を解くことに成功した。今後は猫の頃よりお役に立つつもりだ。恩ある女神様に誠心誠意お尽くししようと思っている。伴侶殿も、その旨了承していただけると助かる」
「その伴侶殿って呼び方、気になるんだけど……私は、お前の伴侶じゃないぞ?」
「だが女神様の伴侶殿だ。では今後、なんとお呼びすれば良い」
強張る笑顔の、お父さん。
至極真面目な顔で、重々しく頷く源氏。
……その頷きは何に対する反応なのか、微妙な気持ちで兄二人は遠い目をしている。
朝から、凄まじい混沌が渦巻く三倉家の食卓。
混乱が極まって立ち尽くす明ちゃんの隣で。
昭君は欠伸を噛み殺しながら食卓につき、母へと手を突き出した。
「母さん、僕にもお吸い物ちょうだい」
そんな新しい日々の変化を感じさせる、三倉家の朝だった。
微妙に区切りをつけたので、今回はここまで。
また昭君でお話を書くこともあると思います。
ですがこのお話は、ここで完結です。