7 あなたが好きです
「……リボンはそこじゃないよ」
「えっ?」
顔を上げると、ジョシュア様は微笑んでいた。
その笑顔はいつも見てきた優しい表情で、私はほっとした。嬉しくて、たぶん笑ったのだと思う。ジョシュア様はさらに笑顔を深くした。
私に微笑みかけながら、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
大きな手が私のリボンに触れたようだった。
私はその手をおとなしく受け入れる。自分の手を下ろして、ジョシュア様の手がゆっくり丁寧に歪みを直してくれるのを待った。
でも、リボンの歪みは直ったはずなのに、ジョシュア様の手は離れていかなかった。
私の髪を撫でるように動いて、私の顔に掛かる髪に指を通す。未婚の娘として長く垂らしている毛先を持ち上げ、軽く巻きつけてするりと引っ張った。
「ジョシュア様?」
いつもと違う気がして、私はそっと目を上げた。
すると、ジョシュア様がふと笑みを消した。どうしたのかと目を見開いている私に顔を寄せ、鼻先に唇を押し当てた。
驚いて、私はびくりと震える。
それをなだめるようにジョシュア様は肩を撫で、その手で私の顎を持ち上げて……唇に口付けをした。
「……な、何をなさるの!」
「口付けの意味は一つだと思うけど」
「え? でも、ジョシュア様は妹様にしていたんですか!」
「小さい頃はともかく、妹への口付けは唇にはしないな。……ん? もしかしてリィナは……聞いていない、のか?」
「何のこと?」
真っ赤になった私は、ジョシュア様を押しのけながら聞く。
ジョシュア様は困った顔をして、少し離れてくれた。
「三十歳になったら騎士を引退する、と決めたのはずいぶん前だったんだけどね。それを告げた時、君のお父上に言われたんだよ。その時まで君が結婚していなかったら、嫁にもらってくれないか、ってね」
「え? ええっ、お父様ったら何てことを……!」
とんでもないことを提案したお父様への憤りに、私は羞恥を忘れてしまった。
つい拳を握ってしまった私を見ていたジョシュア様は、かすかに笑ってなだめるように私の頭を撫でた。
「当時の僕にとっては、君は小さな女の子と言うか、可愛い妹のような存在だったからびっくりしたよ。三十歳なんて年寄りと結婚させられるのは可哀想としか思えなかったし。とはいえ、僕が引退する頃は君も二十歳になっている。そんな年まで結婚しないような子じゃないと思っていたから、お父上が安心するのならと思って承諾していたんだよ」
「……そんなこと、お父様は少しも……」
「本当に聞いていなかったの? お母上も何も言っていなかったの?」
「ええ、何も」
うつむいた私が小声で言うと、ジョシュア様はますます困ったようにきれいなプラチナブロンドをかきあげた。
でもすぐに気を取り直したのか、苦笑を浮かべながら私の目を覗き込むように顔を寄せた。
「ねぇ、リィナ。僕はプロポーズのつもりで今年の祭り用のドレスを選んでいたんだよ」
「あ、あの……」
「参ったな。頑張ってレースの好みを聞き出そうとしていたのは、全部空振りだったのか。ごめんね。君が僕との結婚を承諾してくれたと勘違いしていたようだ」
「……私を押し付けられるなんて、ジョシュア様がお気の毒過ぎます」
「気の毒どころか、僕はこの半年間、ずっと浮かれていたんだよ。君と結婚するつもりでいたからね」
苦笑しているジョシュア様は、私の手をとって甲に口付けた。
私が驚いて手を引っこめようとしても、それを許してくれなかった。一瞬ぎゅっと両手で握りこみ、それからそっと手を緩めて私の手のひらにゆっくりと唇を押し付けた。
「ねぇ、かわいいリィナ。君が好きだよ。愛している。……君は? くたびれた退役軍人なんて、やっぱり嫌かな?」
「私は……」
私の目を見ながら、ジョシュア様はささやいた。
どうすればいいのかわからず、私は口ごもる。助けを求めて周囲に視線をさまよわせたけれど、人混みの中に私の知り合いなんていない。
そのうち、視界は少しだけ癖のあるプラチナブロンドで遮られた。
いつの間にか間近にジョシュア様のお顔があって、そのお顔はとても緊張しているように見えた。
「リィナ、僕との結婚は……嫌だった?」
「嫌なはずはないわ! でも、私は商人の娘だから身分が……」
「……ごめんね、リィナ」
突然、大きくて強い手が、私をぐっと引き寄せた。
座っていたはずなのに、私の体は宙に浮くように抱き上げられていた。
相変わらずの通りの喧騒のなかで、耳元で低い声が聞こえた。
「リィナ、ごめんね。実は……君に着てもらう花嫁衣装は、もう完成しているんだ」
「……えっ?」
「君の好みを聞く前に仕上げてしまって、本当にごめん」
思いがけないことが続いて、すっかり混乱した私は黙り込んだ。
ずっと前から結婚の話があったらしくて。
突然、抱き寄せられて。
一方的に謝られたけれど……花嫁衣装? 好み? 完成?
何のことを言っているのかとしばらく考え込んで、やっと思い当たった。……でも結局、私はくすくすと笑い始めてしまった。
「ねぇ、ジョシュア様」
「何?」
「私に謝ることって、ドレスのことだけなの?」
「え? ああ、うん」
「ひどいわ。好みじゃなかったら文句を言ってもいいの?」
「うーん、君の好みには合わなくても、絶対に似合うから我慢してほしいかな」
「本当にひどいのね」
無性におかしくなって、私は声を上げて笑っていた。きっと端から見たら変な光景だろうと思いながらも笑い続け、私は思い切ってジョシュア様の首に手を回した。
すらりと細く見えても、ジョシュア様の肩は私よりずっと広い。肩も首もしっかりとした筋肉がついている。そっとしがみつくと、ジョシュア様の心臓の音が聞こえた。
今度はジョシュア様が驚いたようだ。私を抱き上げている腕が、少し強張ったようだった。
「そこまで準備しているのに、今さら結婚しないなんて言えないわ。くたびれたおじさん貴族と、少し行き遅れ気味だけど十分に若い庶民女だもの。そんなに不釣り合いでもないかもね」
「リィナ」
「私も、ジョシュア様が好き。レース編みが上手で優しくて、少し乱暴に頭を撫でてくれるあなたが好きよ」
顔を埋めているプラチナブロンドに向かってささやくと、私を抱き上げる腕にぎゅっと力が入った。
私も抱きつき返すと、周囲から「おめでとう」とか「やっと結婚するのか」とか、そういう声が聞こえた。
直接は知らないとはいえ、どうやら私たちのことを知っているらしい人々に見られていると気付いて慌てたのに、ジョシュア様は少しも腕を緩めてくれなかった。
家に戻った私たちは、結婚承諾の報告をした。
お父様もお母様も、今までそういうお付き合いではなかったのかと驚いていた。
私が何も聞いていなかったと文句を言えば、言っていなかったのかとさらに驚いて何度も謝っていた。
でも、お母様はともかく、お父様は抜け目のない商人だ。あえて言わずにいたのかもしれない。
祭りの日から、一ヶ月後。
私はすでに完成していた花嫁衣装を着た。
そのドレスはジョシュア様が編んだレースでいっぱいで、私が夢見ていた以上のものだった。そういう意味では、ジョシュア様が心配したように私の好みではなかったけれど。
……嬉しくてずっと泣いていた私は、文句を言うのを忘れてしまった。