2.シェキの洞窟②
シンはしばらく惚けたように太陽を見上げていた。すると、聞き覚えのある音が聞こえてきた。
剣と剣がぶつかり合い、盾に当たり、鎧にあたり、人が叫び、倒れる……戦いの音だ。
シンは音のする方を見た。
シンがさっきまで広い草原と思っていた場所は、今や戦場と化している。
シンは近くの灌木の陰に隠れて様子を窺い……息を飲んだ。
(自分が見ているものは何だろう?)
シンは目を見張った。
まず、戦いといえば普通二つの軍を想像する。
しかし、そこにあるのはただの殺し合いのように見える。各々が相手かまわず剣を振るっているように見えるのだ。
何より、その一人一人が見たこともないものだった。
ある者の腕は猿であった。また、ある者の足は馬であり、犬であり、頭がトカゲのものもいれば、イノシシの者もいるといった具合だ。
時々人間の頭を持つ者もいるが、それでも必ず別の生き物の部分を体に持っていた。
そしてそれぞれが武器を持ち、相手かまわず足を払い、腕を切り落とし、首を刎ねている。
生臭い血の匂いがあたりに満ちていた。
「何なんだ、これは?」
シンは吐き気を抑えながら言った。
「命をほしがっているのさ」
「えっ?」
見ると、シンのすぐ近くの木の枝に一匹の蛇が絡みついていた。
目を赤く光らせ、赤い舌がちろちろと揺れる。
その声は直接シンの頭の中に届いていた。
「命?」
「そうだ。奴らはまだ命を持っていないんだ。だから、ああやって切られても、また時が経てば動き出す。その時に自分の切り落とした相手の部分が自分の物になっているんだ。今まで熊だった手は猿のものになっていたり、頭だって猫から人になったりするが、同じことさ。また動き出してお互いに斬り合うんだから」
「何のために?」
「ああやっているうちに、いつか偶然にでも、体が揃うかもしれないじゃないか? 継ぎはぎでない一人の人間、一匹の猿、熊、猫、トカゲ、何でもいい。彼らにとって、それが命を得るということなんだ。命ある体を持つこと。それが、あいつらの希望だ。そのために何度でも戦い、痛みに耐える」
「そんな……命がない方がましだとは思わないんだろうか?」
「命を得ることがあいつらの望みである限り、やめないよ」
「それなら相手と交換すればいい。繰り返し切られるくらいなら、自分の欲しいものを相手に求め、相手の欲しいものを差し出せばいいじゃないか?」
「王子、あいつらはたとえ力で奪われるとわかっていても、自分から自分自身を差し出すことが出来ないんだ。そのために、どんな痛みや苦しみを味わっても、あるかどうかもわからない偶然に賭けて戦い続ける」
「目の前に遙かに確実な道があってもか?」
「あいつらにはその道が見えないんだから、無いも同じだ」
シンの目が蛇に注がれた。
「お前は……誰だ?」
「俺はナハシュ、この世界の案内者だ。どうやらこれで999999999回目の戦いも終わったようだ」
シンは草原を見渡した。
誰一人、そこに立っている者はいなかった。
(自分から自分自身を差し出すことはできない……か。僕だったら……? やはり、無理だ。相手が奪うことしか考えていないなら。でも、もし相手が信じられる人だったら?)
シンがそう考えたとき、あたりは一瞬にして暗くなった。
シンに向かってナイフが放たれた。
シンはすぐに暗闇の中から近づいてきた青年の髪が金色であることわかった。
「腕を一本くれないか?」
見ると、青年は腕を一本失っていた。
「これでは矢も放てないし、バイオリンも弾けない」
甘く優しい顔に悲しみが浮かぶ。
シンは驚いてその青年を見つめた。
「あっ」
その瞬間、激痛が走り、自分の腕が一本なくなっていた。
「どういうことだ?」
シンはうめいたが、返事はない。
間もなく、あたりが明るくなった。
そこには大柄で彫が深い、整った顔の一本足の男が立っていた。
「足をくれ。これでは戦場で働けない。俺の仕事が果たせないんだ」
「な……に?」
再び激痛が走り、シンは足を失った。
暖かい風が吹いた。
南風だ。
「お願いがあるの」
今度は、色の白い理知的な娘が言った。
「私、愛する人のバイオリンも、そのおしゃべりも聞こえなくなってしまった。私にあなたの耳をちょうだい」
シンから音が消えた。
シンの目が一人の男を捉えた。
体格のいい、立派な身なりをした初老の男だ。
「私がわかるか?」
男の思念が直接シンの頭の中に届く。
「いいえ……でも、懐かしい気がします」
シンは答えた。
「私は、暗闇の中をさまよっていた。目が見えないのだ。お前の目を一つ私に与えてくれ」
「わかりました」
シンの左目がえぐられた。
「ありがとう。これで闇から解放される」
男の心が震えとなってシンに伝わった。
(この人たちは……どうやら皆、僕と関わりがあったようだ)
シンの体から血が流れ続ける。
誰一人シンのそばに寄り、助けようとする者はいない。
(どれほどの時間が経ったのだろう?)
体は熱を持ち、痛みは波のように寄せては返して、永遠に続くように思われた。
ふと、シンは覚えのある香を感じた。
「あなたはいいわね。そんな姿になりながら、まだ私の香を感じられる。私はもうどうでも良くなってしまった。見るもの見るものが予想通りで、退屈なの。あなたの残った目をちょうだい。私の目では映すことが出来ないものが見えるかもしれないから」
「あなたの目は?」
「もう、えぐってしまったわ。わかりきっていることしか映さない目なんか、いらない」
美しい黒髪の女……しかし、その女の片目は空洞だった。そこから、なぜだか涙が流れているように見えた。
シンは頷いた。
(なぜ、自分はこうも簡単に頷いてしまうのだろう。彼らは誰ひとり自分に何かを与えようとはしないのに)
「だから奪えば良かったんだよ。きれい事なんか言わずにさ」
ナハシュの声がした。
今や、自分は醜い肉のかたまりに過ぎない。
そんなシンの頬に細い指先が触れた。
「私、あなたと別れてから寂しくて寂しくて。お願い、あなたの声をこの子に移してちょうだい。そうすれば、いつでもあなたの声を聞くことが出来る。あなたの声で優しい言葉が聞きたいの」
シンの声は娘の肩に止まる鳥に移った。
息が空しくシンの喉を通る。
地面が震えた。
きっぱりとした男の声が、直接シンの心に響いた。
「俺は自分のしたことが間違っていたとは思っていない。しかし、心が冷えるのだ。そこから体が少しずつ不自由になっていくのを感じる。何よりも感情が湧いてこない。心の泉は枯れていく一方のようだ。だから、お前の心臓が欲しい。暖かい血潮を汲み上げ、勢いよく体中に送り出すお前の心臓をくれ」
シンから心臓が失われた。
今まで熱を持ち、痛みが苛んでいた体は急激に冷たくなり、凍えていくようだった。
その中でも、体の痛みだけは消えない。
その痛みに終わりは来なかった。
風が渡っていくのがわかった。
全てを忘れたくて、シンは夢中で残った感覚を風に集中しようとした。
「王子、王子の周りにはろくな奴がいないな? 弱虫ばかりだ。そのくせ、欲だけは深い。どんな理由を付けようと、おのれ可愛さに奪うのだから」
(そうなのだろうか?)
「まだ何かを信じようとするのか? おめでたいな。お前は今、体が冷たいはずだ。お前に残されているのは、その無様な体の一部だけだ。これがこのままずっと続くのだ。恐ろしい痛みとともに。さあ、お前の魂を手放すがいい。そうすれば、もとの姿に戻してやるぞ?」
(魂か……自分は……何故ここにいるのだろう?)
「さあ、王子。手放すのだ。楽になれる」
シンは頷こうとしたが、どうしてもそれが出来なかった。
ナハシュの目が光った。
すると、シンの心に一人の娘が現れた。
美しい銀の髪が揺れ、エメラルド色の瞳が輝く。
シンは思わずその姿に見とれた。
「私はあなたを救うために、あらゆる手を尽くしたわ。でも、あなたがこんなに苦しむのなら、それは私の望みではない。私があなたの魂をもらう」
(でも、そうしたら僕には君が本当に見えなくなってしまう。何を探していいのかもわからないのに探し続けなくてはならなくなる……)
風が吹いた。
それがこことは違う空気を運ぶ。
ナハシュの声とは別の声が聞こえた。
『シン』
『誰?』
『あなたはシンよ』
『シン?』
風は止んだのに、シンを澄んだ空気が包む。
『シン、あの蛇に気をつけて。あれは嘘と誠を寄り合わせてつくられている。魂を失ったら、迷子になっちゃうのよ』
(僕の周りに澄んだ空気を感じる。これが僕を落ち着かせてくれる)
シンは必死になって自分の肌に触れる空気に集中した。いつ果てるともわからない時間の流れ。やがてシンの意識は遠のいていった。




