12.偽りの信徒⑩
パシパの宝ともいえる書物が盗まれてまだその行方が分からない。まだ物々しいパシパにクイヴルの実権を握るエモンの妹セレン(実はアイサがその身代わりになっているのだが)の一行が到着した。
今度は何事かと通りに出てきた人々を追い払いながら、アイサを連れた警護隊が第一の壁の大門に向かう。門の向こうでは、僧たちがアイサを迎えた。
ここでエテルが率いる警護隊の任務も終りだ。
ベールを被ったアイサが乗っていた馬車を下り、僧たちに軽く会釈をする。
「エテル、ここまでありがとう」
振り返ったアイサは、青ざめるエテルに言った。エテルは黙って頭を垂れ、そのまま動かない。
「クイヴルのセレン殿、大主教がお会いになられます」
僧の一人がもったいぶって言った。
「光栄でございます」
今までその身を覆っていたベールを僧侶に渡してアイサは答え、僧たちが用意した煌びやかな馬車に乗り換えた。
立派な教団の施設が点在する広々とした敷地を、アイサと付き添いの僧を乗せた金色の馬車が行く。やがて、その先に第二の壁が現れた。近づく人を拒むかのようなパシパの第二の壁は、巨大な第一の壁以上に分厚く、高い。
馬車が向かう先の正面の門が開き始めた。門には、苦しみ、助けを求める人々に手を差し伸べるギレ神と、それに従う僧たちが彫り込まれている。
人を威圧するような門をくぐり、油断なく構える守衛たちの前を通り過ぎると、広々とした敷地に整然とつけられた道が続く。
その先には、巨大な建造物がただ一つ。
そこが、僧院というには豪華すぎるティノスの住処だった。
アイサは付き添いの僧と一緒に石造りの重厚な大僧院の正面で馬車を下りた。付き添いの僧は待っていた僧たちに恭しく頭を下げ、アイサを引き渡して帰っていく。ここでアイサは更に位の高い僧たちに案内され、金をふんだんに使ってまばゆいばかりの大広間に通された。
大広間の高い天井には複雑な凹凸があり、見事な絵が描き込まれている。それらの絵が光の入る角度によって繊細な陰影を持って浮かび上がった。
床は木材の色の違いを巧みに生かした寄せ木細工だ。
柱にも、梁にも、彫刻がなされ、金箔が張られ、鏡やガラスがその空間をさらに輝かせる。そして、もちろん、どこもかしこも、ぴかぴかに磨き上げられていた。
恐らくは、この大陸で一二を争う豪華さだ。だが、アイサはこの僧院にどこか寒々としたものを感じていた。
(リョユウは無事セレンに会えただろうか?)
アイサを知る者は、ここには誰もいない。
(とにかく、ここまでは順調だ)
アイサは時々立ち止まっては壮大な僧院を彩る様々な芸術品について説明をする僧を眺めた。
「ごく限られた方しか、こちらの僧院には入ることはできません。各国の重鎮、高名な芸術家、パシの高僧……大主教ティノス様がお認めになった特別な方々だけなのですよ」
先頭を歩く僧の得意げな声がアイサの耳に入った。
「セレン様もこれから度々こちらに招かれることになりましょう。最高の栄誉ですよ」
別の僧も言った。
(各地の有力者の親族は、ゲヘナの炎の前で信仰と奉仕を誓った後、この僧院を囲む壁の外にある賓客用の施設で厚遇されることになっている。セレンのための部屋もそこに用意されているはずね)
黙ったままのアイサに、一つ咳払いして、付き添いの僧が言った。
「そろそろお時間です。大主教がお見えになります」
「こちらへ」
僧の一人が大広間の奥にある扉を開いた。
大きな扉の向こうから、四人の僧を従えたティノスその人が入って来た。
アイサの側にいた僧たちが恭しく頭を垂れ、アイサもそれに倣う。
「どうか、お楽になさってください」
かすれた、それでいて少し高めの声がし、アイサはゆっくりと顔を上げた。アイサは自分のまっすぐ前に立っている人物を知っていると思った。
夢の中で何度も見た男、洞窟の暗がりの中で、炎に向かって立っていた男だ。男の腰は曲がり、体はやせ細っている。だが……その男は大きく見開いた目に狂気を宿し、アイサを捕らえると、その手に持った剣でアイサの胸を刺し貫くのだ……
夢の中で何度も目にした姿に実際対峙して、アイサは自分が小さく震えているのがわかった。
こんなことは生まれて初めてのことだ。
ティノスはアイサに目をやった。
(銀の髪はオスキュラの北部でまれに見られるという。しかし、この瞳は……クイヴルの辺境にこんな娘がいたとは)
不思議な思いを抑えながら、ティノスは続けた。
「遠く、クイヴルからいらしたと聞いています。三日後の祭りの日に力の火の前で誓いを立てられるまで、心安らかに過ごされよ。その後は宿舎の方でゆっくりと信仰の日々を過ごされますよう」
「有り難うございます。心静かに過ごせる日々を楽しみにして参りました」
アイサはどうにか声を出した。
その声はたいそう頼りなかった。
しかし、一方のティノスはそんな反応には慣れている。力の火、ゲヘナが、向かい合った者からその生命力を奪うことを、そしてそれが噂となって広く囁かれていることを、ティノスは知っていた。
「ご立派なお心がけです。セレン殿、あの炎と向かい合うことができるのは、幸運でございますぞ? 確かに、身体の力の幾分か、または、人によってはその多くを失うことは否めません。ですが、あれは人の犠牲の上に立ってこそ、光り輝く。人の生気を糧として輝くと言ってもいい。そして、その試練を通り抜けた者こそ、祝福されるべきなのです」
ティノスの目が熱を帯びて輝き、その声に不自然な張りが宿り始める。この時、アイサの中に言いしれぬ嫌悪が生まれた。
いつの間にか、体の震えは収まっていた。
「大主教様は、パシの教えよりも力の火の方を信仰なさっているように見えますわ」
アイサは、ことさら無邪気に言った。
「これ、大主教様に何ということを」
「無礼ではないか」
僧たちが顔色を変え、声を荒げる。
「いや、よい」
ティノスは鷹揚に頷くと、もののわからない幼子に諭すように言った。
「セレン殿、あの炎はパシ教徒に与えられた力、神の恵みなのです。そして、あれこそが我らの教えの正しさの証明でもあります。この世を神のお望みになるような形にするには、力が必要ですからな。大多数の者には複雑な教義は要らぬ。目に見える力と、それに対する恐れさえあればよい。おわかりですかな?」
ティノスは笑みを浮かべた。これに対してアイサはかわいらしく小首をかしげて見せたが、心の中では嫌悪感と不安が渦を巻いていた。
(各地にあった礼拝所、パシ教の学校や施設……パシ教は国境を越えて広がっている。そして、富と権力がますますここに集まってくる。一つの価値観が世界を支配するなら、世界は安定を保つことができるのかもしれない。しかし、それとて永久に続くわけではあるまい。その矛盾はいつか吹き出す。それに……何であろうと、ゲヘナは封じる。あの力がそれを振るう者の正しさの証明であってはならないのだ)
「そういう……ことですのね」
「お分かりになったようだ。では、また祭りの日にお会いしましょう。それまで、こちらの者がお世話をするでしょう」
部屋の隅に控えていた僧が深々とティノスに頭を垂れると、それを合図に、ティノスは僧たちを従え、扉の向こうに去って行った。




