6.ウィウィップの里④
「それにしても慣れているなあ。これでは、つけられていても気づかない」
三人の後について夜の森を歩きながら、シンは感心した。
「ことさら気を付けているようでもないのに足音がほとんどしないわ」
アイサも答える。
先に立って歩きながら二人のやり取りを聞いていたウィウィップの案内人たちがそろって笑い出した。
「その私たちが側にいたことにすぐに気づいたのは誰です?」
髭の男がすかさず言った。
その男の髭はたいしたもので長くのばして編んである。
「お困りならばお助けしようと思ったのに、あなたたちは実に物慣れた様子でした」
白髪の男も言った。
若い男が頷き、森に入ってからシンとアイサが少しも道を間違えずに手際よく進んだ様子や、おいしそうな食べ物の匂いのこと、ゆっくり飲んでいたお茶や、その時のおしゃべりのことを面白そうに話し出した。
「それでも、僕は誰かにつけられている気がして最初からひやひやしていたよ」
シンは不機嫌な声を出した。
「まあ、あなたの置かれた状況を考えればそうでしょう」
髭の男が振り返る。
「そう、君たちは僕らの置かれた状況がわかっている。おそらく兄上のことだ。僕らを引き渡せば、報酬を出すぐらいのことはするはずだ」
シンの声が冷たくなった。
「そうでしょうね」
白髪の男は微笑んで言った。
「身元を明かさなくとも、我々はあなた方をエモン殿に引き渡し、報酬をもらうことは出来ますが、そのことに興味はありません。我々が外の世界のことを全く知らずに暮らしているとお思いならば、それは間違いです。シン様が思う以上に、我々は多くのことを知っていますよ。でも、我々には我々の付き合いがあり、決まりがあり、大事にするものがあり、それが必ずしも外の人たちと同じではない、ということなのです」
「そういうことです」
髭の男が誇らしげに頷く。
「そう、そう」
若い男が小躍りする。
「ますますわからなくなったよ」
シンは小さく言い、アイサが笑った。
彼らに伴われて歩く道の端には、ぽつりぽつりとキノコが光を放っていた。
「素敵ね、まるで招かれているようね」
アイサは言った。
「あれは俺たちの目印。暗い中を歩き回るには、ちょっとした目印が便利だから」
若い男が答えた。
「そう言えば……随分歩き続けている。そろそろ朝の気配がしてもいい頃なのに」
シンは怪訝そうにあたりを窺った。
「この森は深いですからね」
髭の男が答えた。
「森の道からは、かなり離れてしまったようだ。それに空気が湿っぽくない?」
「ほんと」
それはアイサもさっきから感じていたことだ。
この森の奥には、大きな水源でもあったのだろうかとシンが思っていたところで髭の男が言った。
「この先に滝があります。もうすぐウィウィップの里ですよ」
「森の雰囲気が変わった……」
アイサが言った。
「人の手が入っているね」
シンが答えた。
夜が白々と明けてきた。
深い森が優しい林になっている。
その林を抜けると、そこにはきれいに耕された畑と麦畑があった。遠くに見えるのは、その場にそぐわない円柱形の巨大な建物が一つ。
あっけにとられるシンの横で、ウィウィップの案内人たちが口笛を吹く。すると三頭の馬が駆けて来た。
小柄な三人のもとで止まった馬たちはとても大きく見える。
「お乗りください」
白髪の男が言った。たき火の光ではわからなかったが、その髪は日の光の下で見ると更に白く輝いていた。
アイサとシンがそれぞれ言われるままに馬にまたがる。アイサの乗った馬に白髪の男が、シンの乗った馬に髭の男が乗った。
馬たちが走り出す。
若い男も馬に乗り、二頭の後に続いた。
畑のわきを駆け、整えられた道をぐんぐん走る。
森の中を歩いていた時とは全く違う爽快感だ。だが、その心地よい疾走感もあっという間に終わり、馬たちは見上げるばかりに大きい円柱形の建物の大きな扉の前で止まった。
案内人たちが馬を下りる。
「この先ですよ」
白髪の男が二人に建物の正面にある立派な扉を指さした。
シンとアイサは顔を見合わせ、馬を下りて案内人たちの後に続いた。
「トンネルみたいだけど、広い……」
シンは建物の通路を見回した。
点々と明かりが灯された通路は広々としていて、見るからに頑丈な造りになっている。
通路を歩きながら、シンはその壁には小さな扉や覗き穴のようなものが並んでいるのが気になった。
「あれは?」
「もしもの時のためですよ」
髭の男が答えた。
「もしも?」
「外の民が何をするかわからないでしょう?」
髭の男が頷く。
「我々は古い民ですからな」
白髪の男の薄い色の瞳がシンを捉えた。
「もうすぐ、もうすぐ」
アイサを引っ張っていく若い男がはしゃいでいる。
見ればその大きな動作で先された先が明るかった。
通路を出たシンとアイサは目を瞬かせた。
建物の真ん中は円形の広場だった。外からは円柱と見えたこの建物の中心は広場になっていて、実はドーナッツ型だったというわけだ。
アイサは丸い空を見上げた。
「コップの底にいるみたいだな」
やはり空を見上げていたシンが言った。
それから二人は建物の壁に並ぶ、夥しい数の丸い窓に目を奪われた。広場には人の姿は見えなかったが、トンネルや窓から人々がそっと二人のことを覗いているのがわかる。
「こちらです」
その場に立ち止まって動かなくなってしまったシンに、髭の男が声をかけた。シンの注意が髭の男から広場に移る。アイサは鮮やかな色のタイルで飾られた広場の噴水に向かって歩いていた。シンはアイサに追いつくと、二人は小さな神の像を見たり、店主のいない露店の品物に目をやったりしながら歩いた。
三人のウィウィップの案内人たちはシンとアイサの先に立って広場を横切り、建物の中の通路のに入った。その通路は更に枝分かれしている。
ふんだんに使われたタイルが美しい。
「ここは、薄暗かったさっきの通路とは、ずいぶん雰囲気が違うけれど?」
シンが言った。
「はい」
白髪の男が頷いて説明した。
「さっきの通路は通称大通りと言ってウィウィップの里への正式の入口ですが、それと同時に、あそこには、里を守るための準備もなされています。武器が供えられ、攻撃する準備もできているのです。一方、こちらはお客様をお泊めする区画です」
「この建物の周りに家は見えなかった……里の人は皆、この建物の中に住んでいるんだろうか?」
興奮を抑えられない様子のシンに、今度は髭の男が答えた。
「そうです。この中は何層もの階があって、みんなそこに住んでいます。里の者が見ているのに気が付いたでしょう?」
「ええ」
「やっぱり」
アイサもシンも頷いた。
「気持ちがいいわ」
「うん」
通路は上手く外の光を取り入れていて明るかった。外から風も入る。
思ったよりずっと居心地がいい。
「それは嬉しい」
「嬉しい、嬉しい」
「さあ、こちらですよ」
白髪の男、若い男、髭の男、それぞれが口々に言い、ステンドグラスのはめ込まれた重厚な木製の扉が並ぶ一角で立ち止まった。
ステンドグラスがさまざまな色の光を放っている。
「アイサ様はこのお部屋でお待ちください。すぐにお世話をする者が来ます。シン様はこちらへどうぞ」
髭の男がそう言うと、男たちはシンを連れてアイサの部屋の向かいの、緑の濃淡が美しいステンドグラスの入った扉を開いた。
アイサは示された扉のステンドグラスを見た。明るい色の花々の間に小鳥の姿があしらわれている。扉を開けると、部屋には香りのいいポプリが置かれ、床には鮮やかな色合いの厚手の敷物が敷かれていた。それから小さいが座り心地のよさそうな椅子と、きれいに整えられたベッドもあった。
外から取り入れられた光が部屋の鏡に反射して、部屋はさらに明るい感じがする。
部屋の窓からはさっきの広場が見えた。
一回りアイサが部屋を眺めたところで扉がノックされ、若い娘が入って来た。
「ウィウィップへようこそいらっしゃいました、アイサ様。私は、アイサ様のお世話係のユイと申します。どうぞ、何なりとご用をお申しつけ下さい」
丸顔で色白な顔に浮かぶそばかす……可愛らしい娘だった。
アイサを見る濃い茶色の瞳が輝き、微笑んでお辞儀したときに柔らかそうな栗色の髪が揺れた。
「ありがとう、ユイ。でも、どうして私たちをこんな風にもてなしてくれるの?」
アイサは油断なく聞いた。ユイという娘は驚いた顔をし、それからまた微笑んだ。
心地のいい微笑みだ。
「バラホアのアエル様は私たちにとって大切な方でした。アイサ様はアエル様の縁の方とか。それだけで私たちには十分です。それに……長老は、お二人の安全を計るよう、ある方から依頼されておりますから」
「ある方?」
アイサは目の前の娘を窺った。
「じきにお会いになれますよ、こちらに向かわれたそうですから」
「回りくどいのね」
ユイの打ち解けた様子につられたアイサがつい文句を言うと、ユイはいたずらっぽく答えた。
「私たちは外の国々とは交流はありませんが、あの方々は別なのです。時に私たちを助け、導いて下さいます。ウィウィップの古い友人なのですわ」
「ウィウィップの古い友人か……」
小首を傾げ、自分を見つめるアイサにユイは目を奪われた。
「ユイ?」
「あ、何でもないです。さあ、それよりもまず入浴して、着替えになさいませんか?」
これはアイサにとって嬉しい申し出だった。
「有難いわ。これ以上考えたって仕方がないもの」
さっさと考えることをあきらめて気持ちを切り替えたアイサを見て、ユイは声を立てて笑った。
アイサがシンの部屋を覗くと部屋は空だった。
(やはりシンも体を洗いに行ったのかしら。とにかく二人ともひどい有様だったから)
アイサは納得し、ユイに続いた。通路を通り、建物の外へ出る。すると、そこは手入れの行き届いた、気持ちのいい林だった。
どこからか水の音がする。
ユイはアイサを林の中でこんこんと湯の沸き出す泉へ案内した。そこから湯は美しく磨き上げられた石の広々とした浴槽に引かれている。
その周りにもなめらかな石が敷かれていて、柔らかい木漏れ日が差していた。
水の音と葉を揺らす風の音、それに鳥の声。
他には何も聞こえない。
「シンは?」
アイサはユイについて行きながら聞いた。
「別の湯の方にご案内しています」
ユイはアイサをツタの絡まった衝立の後ろに連れて行きながら答えた。
アイサはユイに言われた通りにそこで服を脱ぎ、小さな滝のところでまず身体を洗った。
ユイの渡してくれた小瓶には石鹸が入っていて、いい匂いがする。
アイサはゆっくりと湯につかった。
身体のあちこちにできていた傷は、ストー先生の薬のおかげでかなり良くなっている。
「髪を洗いましょう」
ユイがガラスの瓶やブラシの入った桶を持ってやって来た。
「自分でできるから」
アイサは焦った。
見も知らない娘が、自分にそこまでしてくれる理由がわからない。
だが、ユイの方は不思議そうな顔をした。
「私たちは家族や友達同士で、よくお互いに洗いっこするんです。仕上げにオイルを使いましょう。いい気持ちですよ。あの、でも、お嫌でしたらいいのですが」
ユイはそう言って、少し困ったようにアイサを見た。
「じゃ、お願いするわ。郷に入っては郷に従えって言うもの」
アイサはあっさり降参した。
ユイは本当に慣れた様子でアイサの髪を洗い始めた。
アイサはユイのされるままになっている。
(こんなに美しい人を私は今までに見たことがない)
ユイは思わず溜息を漏らした。
「シンもこんな風に髪を洗ってもらっているのかしら?」
アイサはシンの癖のない黒い髪を思い出して言った。
「ユイ?」
アイサが目を開いた。
「何でもありません。さあ、終わりましたよ」
ユイはアイサを大きな布で包み込んだ。
部屋に戻ると、ユイはアイサにウィウィップの服を着せた。
ウィウィップの服は手織りのワンピースにベルトを締め、その上から毛皮の飾りのある上着を羽織るといったものが基本の形になっている。
それから髪を丁寧に乾かした。
バラの香りが部屋に満ちる。
「私たちの服がとてもお似合いですわ。それにその瞳の色。私は見たことがありません。きれいな緑色、まるで宝石でできているようです」
鏡に映るアイサを眺めながら、ユイは言った。
「変わっていると目立つ。私はこの世界でお尋ね者になってしまったから……厄介なことになったわ」
アイサはこの先のことを考えると気が重くならざるを得なかった。
(この美貌を隠すのは並大抵のことではあるまい)
ユイは心配そうにアイサを見た。
「あの……アイサ様がファニのエモン様から追われていらっしゃるのは、シン様をお助けしたからですか?」
「ああ、助けてもらったのは私の方なのよ。シンはこの世界で頼る当ても何もなかった私を受け入れてくれたんだから」
アイサは屈託なく答えたが、これを聞いたユイは心底驚いた顔をした。
「でも……アエル様の縁の方が、頼る当てがないなど考えられませんが?」
ユイは鏡の中のアイサを真剣に見つめている。
アイサは鏡の中のユイににっこり笑った。
「ここに案内してくれた髭の人が言ってたわ。自分の知っていることがすべてではないと」
「ああ、スダルのことですね?」
ユイは口をとがらせた。
「スダルって言うのね。ユイ、これはさっきのお返しよ。ウィウィップの古い友人のこと教えてくれないんだもの」
「それは、これから長老からちゃんとお話があるでしょうから黙っていたのですわ。でも、まあ、アイサ様は意地悪だこと」
ユイは頬を膨らませ、それから笑い出した。
「わかりました、無理にはお聞きしません」
「別にかまわないけど、面白い話でもないから。それよりウィウィップのことが知りたいわ。外に出てもいい?」
「ええ、ご案内しましょう」
アイサはちらりと鏡に映る自分の瞳を見て、父を思い出した。
(お父様譲りの瞳を厄介だなんて言って悪かったかな? ラビス姉様なら、きっと怒り出す)
アイサはそっと微笑んだ。
エメラルドの瞳、流れる黒髪の父。
瞳こそ青いが、その黒い髪も気性も父にそっくりな姉。
明るい髪に茶色の瞳をした、いとこのヴァン。
(みんなどうしているだろう……こちらの世界は、知れば知るほど複雑だ。美しいものと醜いもの、嬉しいことと辛いこと、良いことと悪いことが次々と現れる。まるで……いろいろな色の糸で一枚の布を織っているようだ)
ユイの使ってくれた香が、さらにアイサを懐かしい世界に誘った。
(おそらくお母様の好んだものだったのだろう)
そんな気がした。




