第九十三話「治療室と、疑念と、あと見事な剣筋」
ガルディアス城、治療室。
そう呼ばれているが、かろうじて形を保っているだけだった。
棚は半ば空。
薬瓶はほとんど割れている。
包帯も残り少ない。
清潔な布など、探す方が難しい。
半年間、放置されていたのだから無理もない。
それでも、城の中に治療に使える場所が残っていたことは、幸運としかいえなかった。
重傷者を寝台に寝かせ、桶に水を用意する。
それでも十分。
今は、とても贅沢を言える状況ではない。
医療班もいない、治癒術師もいないのだから。
兵士たちは互いに手当てをしていた。
切り傷を縛り、噛まれた腕を洗い、折れた腕に添え木を当て。
血が止まらない者には、何人かが集まって布を押し当てる。
その片隅で、セレスティアはジェイルの顔を治療していた。
「じっとしていてください」
「してるけど」
「していません」
「いや、沁みるんだよ」
「消毒液は貴重なのですよ」
「じゃあ誰か別の奴に使ってやってくれ」
「そうはいきません。あなたは、この戦いの功労者のひとりですから。優遇されなければならないのです」
「そんなもんですかね」
「そんなものです」
セレスティアは、布に薬を染み込ませる。
ジェイルの頬は切れていた。
額にも傷。
唇の端も裂けている。
キマイラ戦。
ヴァルデマール戦。
どちらか一つだけでも、普通ならあの世行きだ。
それを二つたて続け。
この男も、相当無茶をする。
しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。
遠くでは兵士たちの声。
誰かが水を運んでいる。
怪我人を励ます声も聞こえる。
戦いが終わったと実感できた。
少なくとも、今は。
セレスティアは、ジェイルの包帯を巻き終えると、ふと口を開いた。
「少しお聞きしたいことが」
「あん?」
「あのオークは、何者なのですか」
ジェイルの目が動いた。
セレスティアは、じっと見つめている。
あのオーク。
リアにトンソクと呼ばれている魔物。
ただのオークではない。
あり得ない。
あれを見て、ただのオークだと思える者がいるなら、その者の目は飾りだ。
ガルディアス砦の兵士たちをなぎ倒した。
大勢の兵士を収納し、謁見室へ運んだ。
キマイラを倒した。
なにより、父を無傷で制圧した。
父の剛剣を、まるで子供扱い。
本当に何者なのだ、あれは。
「さぁな」
ジェイルが短く答えると、セレスティアの眉がぴくりと動く。
「さぁな、とは?私に教える理由はないと?」
「あ、いや。すまん。そういうつもりじゃない」
ジェイルは慌てて片手を上げた。
「では、どういうつもりですか」
「俺も知らないんだ」
「知らない?」
「ああ」
ジェイルは、少しだけ視線を外す。
「……正直に言えば、それを知るために、俺はここまで来た」
「そうなのですか?」
「ああ」
ジェイルは頷いた。
「以前、俺も助けられてさ」
「トンソクに?」
「そうだ」
ジェイルは包帯の端を指で押さえながら、苦笑する。
「俺だけじゃない。他のやつも、あいつがいなきゃとっくに死んでる」
セレスティアは視線を落とす。
「それにしても、強かった……まさか父が、ああも一方的に。父のあんな姿を見たのは、初めてです」
ヴァルデマール・ヴァレンシュタイン。
セレスティアにとって、父は絶対だった。
剣士として。
師として。
越えるべき背中であり、誇りだった。
セレスティアには、いまだ信じられない。
「寄生されていたから、弱くなっていた……そうは思えませんでした」
「俺もそう思う。ヴァルデマール卿の強さは俺も見た。あれは化け物級だった」
セレスティアは、静かに頷く。
ジェイルは続けた。
「だが、トンソクの強さは……遥か上、って言いたいところだが」
「違うのですか?」
「少し違う」
ジェイルは、眉を寄せた。
「あれは異質だ」
「異質……」
「ああ。強い弱いで比べるのが、どこか違う戦いだった。剣の上手さとか、魔力の量とか、単純な身体能力とか、そういう話じゃねぇ」
ジェイルは、自分の言葉を確かめるように続ける。
「あいつは、勝ち方を知ってる」
「勝ち方?」
「相手を殺す勝ち方も。相手を殺さない勝ち方も。真正面から叩き潰す方法も、裏をかく方法も、逃げる方法も、使えるものを全部使う」
セレスティアは黙って聞いていた。
「剣士ってより、戦いに慣れすぎてる。いや、戦場そのもの、といってもいいかもしれない」
セレスティアの胸に、その言葉が落ちた。
戦場そのもの。
それは、称賛なのか、恐怖なのか。
ただ、しっくり来た。
「もっとも、トンソクが本気を出せば、さらに凄いけどな」
ジェイルは、軽く肩をすくめる。
「さらに?」
「ああ。あいつが本気で殺しにいっていたら、ヴァルデマール卿ですら、一撃で命を落としていてもおかしくない」
「そんなに!」
セレスティアの声が大きくなる。
周囲の兵士たちがちらりとこちらを見た。
セレスティアは、慌てて声のボリュームを落とす。
「父は、この国でも十指に入る剣士なんですよ。いくら何でも、そこまでは……」
「あり得る」
ジェイルは即答した。
「さっきの戦い、トンソクは、勝つことよりも、生かして捕らえることに苦心しているように見えた」
「生かして捕らえる、ですか」
「ああ。最初から殺す気なら、もっと手っ取り早いはずだ」
セレスティアは、思い返す。
頭を踏みつけて制圧したこと。
寄生モンスターを寸止めの衝撃で気絶させたこと。
父を傷つけないように。
殺さないように。
あの激しい戦いの中で、そこまで考えていた。
「知能が高い、いえ高すぎませんか」
セレスティアは呟いた。
「あれは、本当にオークなのでしょうか」
「オークではあるな」
ジェイルは軽く答えた。
だが、その声には、軽さだけではないものが混じっている。
「俺は、人間が、呪いか何かでオークの姿にさせられたんじゃないか、と見ている」
セレスティアの目が見開かれる。
「先ほどの侍!」
「ああ……多分」
ジェイルは頷く。
一瞬、ジェイルの脳裏に、別の姿がよぎった。
勇者アルド。
かつての人類の希望であり、裏切ったと噂される男。
あり得ない。
そんなはずがない。
勇者がオークになって、トンソクと呼ばれて、鼻をほじりながらリアに使われている?
冗談にも程がある。
ジェイルは、すぐにその考えを振り払った。
「見たことがない剣術でした」
セレスティアが言う。
「海の向こうの技でしょうか?」
「そうだな。ヴァルデマール卿をスカさせたやつ。あれは、たぶん俺たちの知らない何かだ」
「ええ」
「だが、その後の剣は違った」
「剛の一撃、でしたね」
「あれは騎士剣に近い。もっと言えば、聖騎士系の技だろうな」
「聖騎士系……」
「それに、俺は前に見てるんだ。あいつが魔法剣を使うところを」
「な……」
セレスティアが思わず身を乗り出す。
「複数の流派を、実戦で使えるというのですか!そんな馬鹿な!一つの流派を極めるだけでも、人の一生では足りません。類まれなる才能を持ち、長い時間、剣に人生のすべてを捧げて、ようやく一流に届きます」
その手が、無意識に胸元を握る。
「まして、異なる系統の剣技を複数。しかも自在に使い分けるなど……」
セレスティアは、顔を上げた。
「人間に可能なのでしょうか?」
ジェイルは答えられなかった。
可能か不可能なのかでいえば、不可能。
ただ一つ言えるのは、トンソクは実際にやっている。
「なら、こういう可能性もある。年を経たオークが、人間に化ける術と高い知能を身につけた、とかな」
自分で言いながら、ジェイルは腑に落ちなかった。
かなり無理がある。
だが、ほかに説明がつかない。
セレスティアも、明らかに納得していない顔だった。
「年を経たオーク……」
「ないかな?」
「普通に考えれば、ありません」
「だよな」
会話が止まる。
包帯の端が、セレスティア指先で揺れた。
やがて、彼女は小さく呟いた。
「正体を……知りたい」
ジェイルは、セレスティアを見る。
「なんでだ」
「え?」
「そんなに、トンソクにこだわる理由はないんじゃないのか?」
セレスティアは、はっとした。
「い、いえ!別に、こだわってなどいません!」
声が裏返る。
「そうか?」
「ただ、その……」
セレスティアは視線を泳がせる。
なぜだろう。
自分でもよく分からない。
命を救われたから?
父を助けてもらったから?
それはそう。
感謝はしている。
だが、それだけではない。
あの背中。
刹那の姿。
静かな剣圧。
父と同じ領域に立ちながら、父とは違う強さ。
美しいと、思ってしまった。
剣士として。
騎士として。
それとも、別の何かとして。
「見事な剣筋だったのです!だから、気になっただけです!」
セレスティアは、急に勢いよく言った。
「そ、そうか」
ジェイルは引いた。
なぜかは分からないが、ここで踏み込むと面倒なことになる。
そういう勘が働いた。
「そうです」
セレスティアは、妙に強く頷く。
「見事な剣でした!」
ジェイルは苦笑した。
だが、胸の奥には同じ疑念が残っていた。
トンソク。
やはり、ただのオークではない。
人間か。
モンスターか。
それとも、もっと別の何かか。
見れば見るほど。
知れば知るほど。
近づいたのに、遠くなる。
あの背中は、どこまで行っても掴めない。
ジェイルは、治療室の窓から差し込む青い光を見た。
城は取り返した。
だが、謎は増えた。
そして、その謎の中心で、きっと今頃、トンソクは何も考えていない顔で鼻をほじっている。
そんな気がして、ジェイルは少しだけ笑った。




