朝日①
桑野スミレが目覚めた時、何よりも大切な友達の顔が目と鼻の先にあった。
見慣れていたその顔は、日常ではあまり見ることのない、心配の色をありありと滲ませている。あまりにも心配しすぎているのか、目の下に軽く、クマが出来てしまっていた。
こんな表情は、小学六年の時に他のクラスの女子と喧嘩して、頬をビンタされた時と、中学一年の時に、スミレがクラスの男子に告白された時くらいしか見たことがない。いや、小五の時、はしゃいで車にはねられそうになった時とか、高一の時に学校で熱を出した時も、と思い出せばキリがなく出てくることに気が付いて、スミレは思考を打ち切った。
目の前、それも少し顔を動かせば、それこそキスでも出来てしまいそうな距離にいる大切な友達。蓮実アヤノは、スミレが目を開けたことで、心配そうにしていた顔を輝かせた。
その笑顔こそいつも、いや、スミレが心配させるようなことをしなければいつも、アヤノがスミレだけに見せてくれていた、眩しいほどの綺麗な表情だった。
流石のスミレでも、これほどの至近距離で、その笑顔をくらってしまえばひとたまりもない。
顔が熱くなるのを感じ、視線はアヤノの唇に自然と注目してしまっている。
赤くなっているんじゃないかとか、挙動不審になっていないかとか、スミレは一人、心の中で右往左往する自分を自覚していた。
勝手にアヤノの唇に行ってしまう視線を戻しては、すぐにまた唇を見てしまう視線を鋼の意志でまた戻す。キョロキョロと動きまわる自分の眼球は、傍から見ると変に見えているだろう事は自覚出来ていたが、なかなか眼球が言うことをきいてくれない。
スミレがそんな独り相撲をしていると、それを知ってか知らずか、黙っていたアヤノが、何も言わずに顔を近づけてきた。
その時、スミレにはアヤノの動きが、妙にゆっくりと、一瞬一瞬がコマ送りのように見えた。
もはやスミレは、近づいてくるアヤノの唇を凝視することしか出来ず、心の中にいる自分が『待って、ブレスケアの時間を!』とか『私がリードするべきなんじゃないの⁉』とか『ぶちゅっと来いやぁあ!』とか、それぞれが言っているのを聞いて、覚悟完了とばかりに目を閉じた。
「よかった」
次の瞬間、耳のすぐ近くで、酷くかすれた声が聞こえた。
スミレが目を開けると、アヤノは抱き着いたまま、スミレの首元に顔を埋めて震えていた。
首元が少し冷たい。
スミレは震えるアヤノの背中に手をまわした。
「もう起きないかと思った」
「そんなわけないじゃない。心配性なんだから」
「スミレちゃんがいつも心配させるような事をするからだよ」
「それは、さっき自覚したわ。ごめん」
「ふふ、分かればいい。許してあげる」
しどろもどろになったスミレを見てアヤノがまた笑ってくれた。
もう一度、その笑顔を見たスミレは、そこでようやく、自分も自然と笑えていることに気が付いた。
「で、ここは?」
まだ辺りは薄暗い。周囲に目をやれば、見た限りはどうやら駅のようだった。
スミレが寝かされていたのは、ホームに設置されているベンチで、身体を起こしてみると、誰もいない寂しいホームと、どこまでも続くような線路が見えた。
そこで自分の身体にかけられていたものに気が付く。
所々、泥なのか、血なのか分からない汚れがついてくすんではいるが、間違いなく、スミレが誕生日にプレゼントした黄色のパーカーだった。あれ以来、いつも着てくれている。そんな些細なことでもアヤノの優しさを感じられた。
「これ、ありがと」
「うん。あと、ここは駅」
「え~アヤノさん。それは見れば私にもわかるのよ」
「あの集落からは結構離れた所にある駅。来た時はここから集落までは二時間弱歩いた」
「へ~駅なんてあったのね」
「知らなかったの?」
「私、集落から出してもらったことなかったもの。小学生の時は、ただ車に乗ってただけだし、土地勘とかもないわ」
「じゃあ私の方が詳しいね」
集落に来る前に地図アプリを駆使して、経路や、交通機関を調べたと、自慢げに話すアヤノ。その姿がとても愛おしく感じて、スミレは自然とアヤノを撫でていた。
「す、スミレちゃん⁉」
「これくらいいいじゃない。労ってあげてるのよ」
そう言ってやれば、アヤノは借りて来た猫のように大人しくなって、スミレに撫でられるがままになった。しばらくそうして幸せを嚙みしめていたスミレだったが、そろそろ現実的な話しもしなければならないだろう。
和んだ空気を正すように、わざとらしく咳払いをしてみると、アヤノは姿勢を正していた。
「その、大事なことだから聞くけど、逃げてこれた……でいいのよね?」
少し不安をのせたスミレの言葉に、アヤノは何事もないように頷いた。




