自分の無力さを感じました
真夏に締め切った部屋の中で、生魚を何日間もそのまま放置したような臭いだった。
野外にもかかわらず凝縮されたその臭いに、息をするのも苦しくなり、自然に嗚咽が出てむせ込んでしまう。
上がって来た胃液だけを吐き出して、涙で霞むアヤノの視界に何かが映った。
境内の外、鳥居から見える向こう側。
海に面している堤防から、突き出てくる手のようなものが見えた。
その手は堤防をがしりと掴むと、力を入れて身体を持ち上げる。
堤防のしたから出てきたのは、暗くて輪郭しか見えないが、人に見えた。
だが、人であるはずがなかった。
集落に着いたばかりの頃、アヤノはあの堤防が三、四メートルあり、梯子やとっかかりもなく、反りかえっていることを確認している。とても人間に登れるものではないし、こんな夜中に人間が海から上がってくることなど、常識で考えればあり得ない。
とすると、今堤防から上がってきたのは、、人のように見える別の何かということになる。
人ではないと考えるアヤノの推理を正しいと伝えるかのように、すぐに別の人影が堤防から上がってきた。
すぐにもう一体、また一体と影はどんどんと増えていく。
堤防から上がってきた影は、少し猫背で、ぎこちなく歩き回っている。
まるで、水死体が自ら陸に戻ってきて、歩き回っているかのような光景だった。
これが神様なのだろうか、アヤノがまだ冷静に考えていると、おかしなことに気が付いた。
人影たちは、少し歩き回っていはいるが、あまり海からは離れなていないようだった。いつまで経っても堤防のあたりでウロウロしている。生贄であるアヤノがいる境内にも、集落の方にも行っていない。
そして、海からは、今だに視線を感じるのだ。
訝しんで堤防を見つめるアヤノの視界の中、また堤防の下から手が伸びてきたのが見えた。
否、今度は手ではないようだった。
太いヒモのような物が、ニョロニョロと蛇のように動きながら上がって来る。
それも一本や二本ではない。
途中から数えることが出来ないほど、絡み合ったままどんどんと海から上がって来る。
先に上がっていた人影たちは、道を開けるようにして左右にわかれ、沢山の蛇が上陸してくるのを見ているようだった。
蠢くその姿はおぞましく、神々しさとはまったくの別物だったが、アヤノはこちらが神様だと直感的に理解した。それほどまでに漂ってくる気配が異質だったのだ。
絡まり合った蛇たちは、それぞれが独立しているように、バラバラの方向に動き出す。
伸びるようにして進む蛇たち、その尻尾の方は、まだ堤防の下にあるようで、今だに全体像が見えてこない。まるで無限に続いているかのように堤防の下から伸びてくる。
そのうち、何匹かの蛇が鳥居をくぐり、階段を上って境内に入って来た。
充分に近づいてきた蛇を、ただ座って見ていたアヤノは、すぐにこれが蛇ではないことに気が付いた。
顔があるべき場所に、付いていなかったのだ。
先っぽはただ尖っているだけで、顔がない。
その代わり、蛇の胴体に、沢山の粒粒が並んでいて、まるで吸盤がついた大きなタコの触手に見える。
アヤノが蛇から触手に認識を改めたところで、吸盤のようなものがはっきりと見えた。
一つ一つが人間の顔だった。
女の顔。
男の顔。
老人の顔。
子供の顔。
青ざめた顔。
笑っている顔。
目を見開いている顔。
半分が潰れている顔。
とにかくたくさんの顔が吸盤の代わりについていた。
その顔一つ一つが、境内に放置されたアヤノを捉え、一斉に凝視してきた。
よく見ると、何かを話そうとしているのか、しきりに口を動かしている顔もある。
その表情は必死の一言。何かを言っているような顔は他にもいくつかあるようだった。
アヤノは、その光景を見ながら、これは確かに見てはいけない類のものだと理解した。店主が言っていた。死ぬより恐ろしい目にあって、その後気が狂って死ぬというのも納得だった。
そして思う。そう考えている自分は、まだ正気なのだろうかと、それともすでに正気ではなくなり、自分でも気が付かないうちに、よだれを垂れ流して笑っているのかもしれない。
あるいは、もう死んでいるのか……。
いくつもの触手がアヤノの目の前にやってきた。
触手についた沢山の顔と目が合う。
先ほどまで様々な表情をしていた顔たちが、今はすべて嬉しそうに笑っている。
そのまま近づいてくる触手に、アヤノは覚悟を決めて目を閉じた。
「こっちよ! こっちに来い、この野郎!!」
視界を閉ざしていた分、鋭くなっていたアヤノの耳がその声を捉えた。
スミレの声だと、アヤノは瞬時に理解した。
「逃げてアヤノ! 私もどうせ殺される! 貴方だけでも逃げて!」
どうやったのか猿ぐつわを外したらしいスミレが叫ぶ。
アヤノがマズイと思った時には、スミレの悲鳴が聞こえて静かになった。
おそらくは村人たちに黙らされたのだろう。
だが、それでも充分に遅すぎた。
境内に入ってきていた何本もの触手のうち、いくつかが社殿に向かって伸びていく。
周りから中を覗き込むようにしていた触手たちは、少しすると社殿のドアを叩き始めた。
結界が貼ってあるにも関わらず、触手は凄まじい力で容赦なく壁を叩く。
すぐに社殿が軋みはじめ、中からは小さな悲鳴が聞こえてきた。
あのままでは壊れてしまうのは時間の問題に見えた。
「スミレちゃん!」
アヤノは縛られたままの手足で、器用に立ち上がる。
それでもきつく縛られたままの足では歩くことが出来ず、なかなか前に進めない。
それでも前だけを見据えて、スミレの元に駆けつけようとしていたアヤノを、後ろから衝撃が襲った。
何かで殴りつけられたような衝撃。
足に食らったようで、感覚がなくなり、一瞬宙に浮いた。
アヤノは、そのままなすすべなく地面に倒れ込んだ。
盛大に顔を地面にぶつけた。
おそらく鼻血が流れて来たが、気にはしていられない。
先ほどの要領で、なんとかまた立ち上がろうとしたアヤノは、そこでおかしなことに気が付く。
足の感覚がまだない。
訝しんで視線を向ける。
そこには、あるはずのモノがなくなっていた。
ショートパンツの先に伸びているはずの、気持ち悪いほど白い脚。
その脚が、膝の上太ももの途中から、引きちぎられたようになくなっていた。
断面からは血が流れ出て、地面を赤く染めている。
自分の足がどこに行ってしまったのか探すアヤノの目に、触手についていた顔のが何かを咥えているのが見えた。
それは、どう見ても自分の足だった。
触手がからめとるように持った足を届く範囲についている顔が噛み千切っては咀嚼している。
本当にふざけた光景だった。
しかし、絶望はまだ終わらない。
あまりの光景に呆けていることしか出来なかったアヤノの耳に、何かが壊れる音と、沢山の悲鳴が聞こえた。
社殿が半壊し、村人が一人触手に捕まっていた。
その村人は、そのまま至る所を食いちぎられている。
他の村人たちもなぜか逃げる様子もない。
黙って食われている村人を見ている者。
金切声を上げて倒れる者。
自分の首を鎌で切りつける者や、隣にいる人に切りかかる者までいた。
阿鼻叫喚の地獄とは、ここにあったのだと、見る者全てに思わせるような光景だった。
おそらくは皆、本当の意味で狂ってしまったのだ。
店主が言っていたように、これまでの狂気は恐怖に支配された故のものだったのだろう。
恐怖に耐えながらも必死に自我を保とうと、まともな部分を削りながら、なんとかやってきた。それが今、真の恐怖を間近に見て、最後の一線を越えてしまったのだ。
ああなっては、もう元には戻ることはない。
そうして狂ってしまった村人たちも、アヤノにはたいして重要ではなかった。
アヤノの目は今、スミレだけを探していた。
逃げ惑う村人たちの中から、必死になってスミレを探す。
けれど、血を流しすぎたせいか目が霞んでよく見えない。
少しでも近づこうと、身体を縛られた腕だけで引きずって前に進む。
そこにあるのは執念のみ。
今は脚が無くなった衝撃より、スミレの無事が気になった。
他の何がどうなろうと、自分自身がどうなろうと、スミレだけは助けようとする執念がアヤノを突き動かす。
どうか無事で、スミレだけは無事にいてと、本気で神に願った。
しかし、神はそこにいるのだ。
村人から神と呼ばれていたおぞましい何かは、狂った村人たちを次々に捕まえていく。
触手に捕まったが最後、その人の命はない。
人間など、いや、他のどんな生き物だって、この神様とやらにはかなわないのだろう。
そうして、いくつもの触手が蠢く中。
一本の触手があるモノを持ち上げる。
その触手が掴んでいるモノを霞んでいるアヤノの目が捉えた。
スミレだった。
アヤノはただスミレが持ち上げられるのを見ているしかなかった。
駆けつけようとしても、脚がない。
触手についた顔たちが、スミレに向かって大口を開く。
その様子をただ無様に這いつくばり、見ていることしか出来ないアヤノ。
何も出来ないことは理解した。
けれど、心はその事実を受け入れない。
だから、アヤノはただ叫んだ。
「スミレちゃん!!」
アヤノが決死の想い叫んだ時、辺りに強風が吹き荒れた。




