本当は、ただ気に入られたかっただけ①
降りしきる雨を割くように駆け抜ける。
すでに身体は濡れきっている。着ている衣類が、水を吸って重く肌に張り付く感触がなんとも気持ち悪るさを加速させている。
地面は突然の大雨でぬかるんでいて、何度も足を取られそうになる。
転ばないように注意しつつ、後ろから迫って来る足音も意識しながら、必死に足を前に進める。
木々を避け、雑草を踏み抜き、ただひたすらに走り続ける。
加村は雨に濡れることも、はねた泥で汚れることも気にしない。もっと恐ろしい、気にするべきことがあるからだ。
最近は、部活動でもこんなに本気で走り続けたことはない。すでに息は上がってきていて、胸が痛い。それでも走るのだけは、止めるわけにはいかない。
追って来る村人が怖いから、もちろんそれもある。けれど、加村が逃げ続けなければならない理由は別にあった。
周りを囲んでいた村人たちに凶器を向けられた時、加村は一歩も動くことが出来なかった。
あの優しかった店主のおじさんが、笑いながら猟銃を持っている。本来なら、農作業で活躍するであろう文明の利器たちが、何故か加村たちの身体を耕そうとしている。
そのあまりにも現実味のない光景に、何も考えられなくなったのだ。
思考が飛ぶというのは、ああいうことなのかもしれない。
ただ、呆けていた加村に向けられている鋭い刃物と、それを持っている村人たちの、狂気に満ちた瞳を見れば、否が応でもこの光景が現実であると、そう実感するしかなかった。
あの時、加村には何も出来なかった。
ただ、立ち尽くすだけ、怒りをぶつけようにも、凶器を周りから突きつけられただけで、黙るしかなくなる。か弱い女の子には、殴りかかったくせにだ。
加村が殴り飛ばした女の子、アヤノは、まだその場から起き上がることが出来ていなかった。
当然だ。何せ、加村の拳をガードしようとした左腕は、何の意味もなさず、無様に折れて、殴られた衝撃に耐えきれなかった、とても高校生には見えない華奢な身体は、数メートル吹き飛んだ。
加村自身が怒りに我を忘れてした事とは言え、あまりにも衝撃的な光景だった。
人体の構造上、曲がるはずのない方向に曲がってしまい、折れた骨がはっきりとわかるほど、皮膚を突き破りそうになっている。
人間とは、ああも簡単に壊れていくのだと、そう実感するには充分だった。
一瞬で後悔に陥った加村を、それでもアヤノは鋭い視線で睨みつけてきた。
身体中が泥で汚れ、傷だらけになりながらも、強い意志のこもった目をしていた。
きっと、嫌われただろう。いや、そんなものじゃないかもしれない。生理的な嫌悪感、増悪、アヤノとの間には、もう修復不可能な傷が出来てしまったと、そう理解するには充分すぎる視線だった。
加村は自分を殺してやりたい衝動に駆られた。
自分を殺して、もう一度生まれた時からやり直しす。そうすれば、今度こそ上手くやる。そんな非現実的な状況を、心の底から本気で願った。それくらい、もうアヤノは仲良くしてくれないだろうと、本気で思っていた。
だから、アヤノが凶器を持った大人の男たちに、ひるむことなく攻撃し、隙を作りだし、あまつさえ大怪我をさせた自分まで助け出してくれるとは、加村は微塵も考えてはいなかった。
『走って!』
その声にはじかれたように、固まっていた加村の身体が動き出す。
そのまま指示に従って森に向かう。
加村は走りながら驚愕していた。
頭のおかしな連中に囲まれて、刃物を向けられる恐怖。それを実際に味わった加村は、小指の先も動かすことが出来なかった。
自分の心を簡単に覆いつくすほどの恐怖に負けて、まったく抵抗しようとすることが出来なかった。
それなのに、アヤノは、ボロボロで傷だらけの、平均よりずっと小柄な少女は、その状況に臆することなく、自分の血を目くらましにして、狂気を持った大人たちの隙をついた。
絶体絶命だったあの状況を、一瞬とは言え崩したのだ。
どうしてあんな事が出来るのだろうかと、そう考えていた加村はさらに驚くことになる。
アヤノが付いてきていない。
森に向かうように指示を出したのに、アヤノは社殿の方へぎこちない動きで走って行く。
いったいどうして、森に向かうとういのは、加村にも最適解だと思えた。
何もない所で姿を見せながら逃げたところで、捕捉されてしまう。
その点、遮蔽物の多い森なら、相手がこちらを見失ってくれる可能性が高まるからだ。
それを考えてアヤノも森に向かう指示を出したのだろう。
なのに何故?
「いいから走って!」
その一言で理解した。
おとりになるつもりなのだと。
自分の身を犠牲にしてでも、こちらを逃がそうとしてくれているのだと、瞬時に理解できた。
普通なら、男である加村に、守られる立場を享受してもいいはずのアヤノが、逆に加村を身を挺して守ろうとしてくれていた。
ただでさえ驚愕していた加村は、雷鳴に打たれたような衝撃を受けた。
だから、加村はここで捕まる訳にはいかないのだ。
自分の愚かな行いで、失ってしまったと思った関係が、実はまだ残っていて、それが、何よりも大切だったからこそ、今度こそ間違わないように、丁重に扱おうと加村は決意したのだ。
追って来る村人の視線を切るようにして、ジグザグに走りながら、アヤノのことを考える。
おそらく、アヤノはあの後、捕まってしまったのだろう。
小柄なあの身体で素早く動くことは出来たとしても、それを持続させる体力はないはずだ。
相手は大人の男たち、スピード、体力ともに、どちらもアヤノでは対抗できそうにない。
ましてあの怪我だ。
左腕はまったく使えないようで、走るときも右手で庇うようにしていた。
あれでは満足に走ることもできない。
あとは身を隠すしか方法はないが、アヤノが進んだルートでは、森に入るまでにかなりの距離があった。その前に追いつかれるのがオチだろう。
どう考えてみても、加村にはアヤノが逃げ切っているところが想像出来なかった。
アヤノは村人たちの手の中にある。
今頃、あの狂った男たちは、華奢で可憐なあの少女にどんなことをしているのか、非道で下劣な想像が加村の脳裏を過るが、すぐに無理やりかき消す。
自分の脳が勝手にした想像とはいえ、加村の中で、村人にたいして凄まじい怒りがこみ上げてくる。
まるで、自分の大切にしていた宝物をかってに触られて、壊された時のような喪失感と、コントロールできないほどの激情。
加村は、アヤノのことを、もはや自分の女だと、そう独善的に考えている節があった。
加村が初めてアヤノを知ったのは、高校一年生の時だった。
入学した学校で、たまたま同じクラスにいた小柄な女の子、それがアヤノだった。
二つ年上の姉がいた加村は、当時から世間の女性が、本当はどんな姿をしていて、人前では隠しているような言動も、本当は平気ですることを知っていた。
だから、どんなに綺麗に着飾って、どんなに男好みに可愛い子ぶった女性にも、裏の姿を考えると、どうしても距離を置きたくなっていた。
そんな時に出会ったアヤノは、とくに派手な化粧をすることもなく、自ら男によって行くこともなく、常に女友達と行動をともにしていて、男女関係に興味が無さそうな様子だった。
小柄なアヤノの姿は、素のままの姿で庇護欲をそそられたし、この年頃の子供としては珍しく、自分と同じで異性を自ら求めない。その姿勢に共感と好意を抱いた加村は、それとなくアヤノに接近しようとしていた。
しかし、これまで、その目論見が上手くいくことはなかった。
アヤノの隣には、常に一人の女がいて、加村がアヤノと話しをしようとするのを邪魔してきたからだ。
そう、桑野スミレだ。
アヤノとは違い、女性らしい体つき、身長もあって気が強そうな面もあるが、社交的で友達の輪は広く、クラスでも一目置かれる側の存在。加村は自分の嫌いな表だけを取り繕っているタイプの女子の筆頭として、スミレを苦手としていた。
そのスミレがどうしてか、目立たない側にいるアヤノに常について回っていた。
お昼休みや放課後はもちろん。少ししかない休み時間も、かかさずスミレはアヤノの元にやってくる。
アヤノが一人のタイミングで話しかけようとしても、そんな時間は全くと言っていいほどなかった。
それでも注意深く観察していた加村は、二人が朝はバラバラに登校してきていることに気が付いた。
その後、校門付近で偶然を装いアヤノに声をかけたことがある。
話したことのない相手に、少し困惑している様子のアヤノ。
警戒を解いてもらうために、一緒に教室に向かおうとした加村の計画は、何故か教室から駆けつけてきたスミレの登場によって、お釈迦にされた。
もはや加村のことは眼中に入っていないアヤノを見て、大人しく退散しようとした時、スミレから睨まれていたように感じたのは、流石に気のせいだとは思っている。
それからも、加村がアヤノに近づこうとすると、決まってスミレに邪魔されてきた。
そんなことが続き、段々と、加村の中でスミレの存在は、苦手な相手から、嫌悪の対象になっていた。
そのスミレが、急に転校したときは、心の中で小躍りするほど加村は歓喜していた。
邪魔者がすんなり消えてくれて、これからはアヤノに近づけると思ったからだ。
だから本当は、スミレを見つけることなんて、加村にはどうでもいいことだった。
アヤノに提案して付いてきたのは、単に気に入られたかったから、それだけのこと。
その口実をダシにして、ただアヤノに近づきたかっただけ、スミレのことなんて微塵も心配していなかった。
スミレが転校した事にショックを受け、落ち込んでいるアヤノに声をかけ、スミレに会えるかもしれないと提案する。さらには、二人だけの旅で優しくし、アヤノとの距離を縮める。それが、加村が考えていた計画だった。
スミレについては、見つかっても見つからなくてもどうでもよかった。
会えたとしても、転校はすでにしているわけで、スミレが戻って来ることはない。
むしろ、一度でも会えたのは、提案した加村のおかげだと、アヤノが心を開いてくれるかもしれない。
そんな打算的な考えで加村はアヤノに付いてきたのだった。
すべてはアヤノを自分のものにするための行動だった。
今はこんな状況になってしまっているが、一度逃げ切って、後から捕まっているアヤノを助け出せば、頼りがいのある加村を、アヤノは好きになってくれるはず、そのためにも今は我慢して、必ず逃げ切らなければならない。
加村は自分がヒーローになったような感じがした。
何も知らず、いつものように学校に行って、真面目に生きていれば知らなかったこと。
学校をサボって来た村は、ホラー映画の舞台のような不気味さで、村人たちが自分とヒロインを捕まえようと追って来る。
その魔の手から逃れて、可愛いヒロインをこの手で救出するのだ。
ヒロインの手を引き、村を脱出。最後は朝日を見ながら抱き合って、目を潤ませたヒロインからキスをされる。
そんな経験をする男が自分だと、加村は本気で考えていた。
あのスミレ以外には不愛想なアヤノが、加村に頬を染めて寄り添ってくる。そんな想像がどんどん膨らんできては、加村に主人公のような万能感を与えた。
身体が軽い。
まるで飛んでいるかのように、木々が生い茂る森の中を駆け抜けることが出来る。
神経も研ぎ澄まされていて、村人たちの足音から、どちらに逃げればいいかが瞬時に判断できる。
村人たちは、加村にまったく追いつけない。
加村はこのまま逃げ切って、動揺している村人からアヤノを助け出す。最後に追ってきたボスの店主を打ち倒し、晴れてハッピーエンドを迎える。
エピローグではアヤノとの幸せな生活を送っている。そんな主人公の妄想をしていた加村の目の前が、急に開けた。




