エピローグ
囮の運ばれた病院に行くと、ちょうど病室から回さんが出てくるところだった。
「あ、回さん。囮の様子はどうですか」
「あら、カナタ。あの子なら大丈夫そう」
回さんは微かに口角を上げて、静かに微笑んだ。
気まぐれで、掴みどころがないヒトだけれど、意外と感情表現が豊かなヒトだ。決して無表情というわけではない。
「回さんて、意外と感情豊かですよね」
思ったことがつい声に出てしまった。
今日会った少年のことを思い出す。怒りの感情をむき出しにしていた少年を。彼とは違って、常に静かな振る舞いの回さんだって、ちゃんと感情があるんだと、改めて思う。
アタシは、自分の頭や身体能力に対して、決してヒトに劣っているとは感じたことはなかった。けれど、これほど誰もが持っている感情を理解できていないということは、実は誰よりもアタシという人間は劣っているのかもしれない。
いや、回さんに言わせれば、病気、ということだったか。
心が動かなくなる病気。
「カナタ」
会話中にひとりで考え込んでしまっていた。回さんに名前を呼ばれて意識を戻す。
具体的なことを何も言っていないアタシを置いてきぼりにするように、いつも通りの気まぐれなのか、回さんは「龍泉の家はね」と話しだした。
「とても感情的な家系なの。そういうことが遺伝するのかはわからないけれど、そう言われている。だからその感情をコントロールするために、精神の修養として、武術を伝承し続けているの」
「そうだったんですね」
深く考えたことはなかったけれど、そういう具体的な理由があるから、現代では珍しい武術を伝承し続けることができているのかもしれない。
「私も同じように、とても感情的なの」
透き通るような声で、それでいてとても静かに回さんは言う。
「でも昔は、私はそれを表現できなかった」
感情があるけど、表現できなかった。
それは違和感のある状況だ。
感情というのは、表れてしまうものではないのだろうか。
疑問に思いながら、次の言葉を待つ。
「病気なんだ」
と回さんは言った。
いつかアタシに言ったように。今度は自分自身のこととして。
「……病気ですか」
「そう、病気なんだ、私は。あなたは気づいていないと思うけれど」
「全然、知りませんでした」
話の流れがわからなくて、そう答える。
病院に居るせいか、病気という言葉が、奇妙に馴染んで聞こえる。
「例えば、心が動かなくなる病気もあれば、同じように体が動かなくなる病気だってある。私ね、顔の表情をほとんど動かすことができないの……昔は今よりももっと」
「えっ」
つい、回さんの顔を見てしまう。
いつも通りの、自然な表情に見えた。
静かな性格のヒトの、自然な、静かな表情に。
勝手に想像が膨らむ。
例えば、今日会った少年がずっと無表情だったとしたら――あんなに感情的に怒る少年が無表情だったら、周囲にはどんな風に見えるだろう。どんな目で見られるだろう。
アタシにはその状況で、本人がどんな感情を抱くのか想像することができない。
でも、おそらく、辛いことなのではないかと思う。
「自分のことが気持ち悪くて、ずっと家の中で生活していたわ。でもね、ちょっとしたきっかけで外に出るようになったの。その時、表情は変えられなくても、振る舞いは変えることができるから、必死に自分の表情に見合う振る舞いをした」
「それで、今みたいに静かなヒトになったんですか」
「いいえ。全然うまくできなかったの。面白いことがあると、思い切り笑ってしまうんだもの」
「全然想像できないですね、思い切り笑う回さんて……」
アタシとしては、大口を開けてモナリザが笑っている姿くらい想像できない。
「そんな風に最初は失敗してばかりだった。でもその時、ちょっとしたきっかけだったけれど、当時の私なりに勇気を出して家から出たおかげで、叶えられた望みもあったし、娘だってできた。だからわかったの」
一呼吸だけ置いて、静かにはにかむような表情で言葉を紡ぐ。
「別に病気のままでもいいんだな、って」
ここまで来て、やっと回さんが、アタシのためにこの話をしてくれていることがわかった。
病気のアタシのために、病気な自分の話を打ち明けてくれているのだと。
「でも、アタシは回さんとは違いますよ。感情も、望みとかやりたいこともアタシにはないから……」
「別にいいじゃない」
アタシの言葉を遮るように言う。あくまでも静かな声で。
「あなたに望みが無いのならなくたっていいの。そのままの、まるでどこか壊れているみたいにあなたが扱うその性格のままで生きていたっていいってことだよ。感動できない、そんな自分のままでいるのは良くないのだと思っているのかもしれない。でもそんなことないんだよ」
急に手を引かれた。その勢いに身を任せると胸の中に抱きしめられた。
「め、回さん?」
「どう思う?」
「いや、なんとも……」
「囮はね、こうするとすごく嬉しそうにするの」
嬉しいという気持ちは、ない。それがどんな感覚なのかもわからない。
「でも、あなたが、別の誰かと同じになる必要はない。あなたはただ、自分はそういうヒトなんだなって、認めてあげればいいだけ」
「難しいこと言いますね」
「自分を認めるのって、勇気がいるんだ。誰だってヒトと違うから、ヒトと違うことって怖いんだよ」
「勇気もアタシにはわかりません」
「そうね。でもあなたが今の自分のままで生きていこう、って決めることができたら、その感覚が最初の1パーセントだよ。今のカナタはまだまだその勇気が零パーセント」
すぐ近くに、胸の奥に回さんの心臓の音が聞こえる。
きっとアタシのためを思って、こういう話をしてくれているのだと思う。
それなのに、アタシは何も感じていない。
つらい過去の話を聞き、抱きしめられて、優しい言葉をかけられても、何も感じていない。
そんな自分でいることを許容していいのだろうか。
わからない。
言葉が見つからなかった。
「カナタ。あなたは自由だ。好きなように生きればいいだけだよ」
それだけ最後に言うと、回さんの今日の気まぐれは終わったらしい。
やはり、どうしてその話を今しようと思ったのかは、アタシにはわからなかった。
回さんがアタシを離すと、その直後に病室のドアが開いて囮が顔を出した。
「あ! カナタお姉さん!」
彼女はこちらへ向かって手を振る。
とても自然に笑う少女に、手を振り返す。笑顔を作れない回さんと、笑顔が生まれないアタシとで。
いつの間にかに、思い込んでいたのかもしれない。
あんな風に笑うことが、絶対に正しいことなんだと。
「アタシは自由、か」
そよ風に消えそうなくらいの声に出して、その言葉を反芻した。
自分のことを認めることができるのかどうかも、アタシにはわからない。
今日すぐできるのかもしれない。
すごく時間がかかることなのかもしれない。
全然わからない。
けれど、それでいいのかもしれない。生き方にこだわりがあるわけじゃないのだから。
病気のままでも、アタシは生きていける。
とりあえずそのことだけは、覚えておこうと思う。