4 森での生活
森での生活は、二週間ほど続いていた。
続いてしまった、と言う方が近いかもしれない。
最初は、どこを見ても同じ森にしか見えなかった。
けれど、今は少しだけ違う。
滑りやすい土を避けて歩くことも、枝を踏まない場所を選ぶことも、水場へ戻る目印になる曲がった木を探すことも、いつの間にか覚えていた。
覚えたくて覚えたわけではない。
ただ、覚えないと困る。
水場から離れすぎれば戻れなくなる。
暗くなってから寝場所を探せば、前よりもっと悪い場所で丸まることになる。
だから、仕方なく覚えた。
「……慣れたくなかった」
小さく呟きながら、私は木の枝を避けて歩く。
手には、服の裾を少し持ち上げて作っただけの、頼りない入れ物がある。
その中には、さっき拾った木の実がいくつか入っていた。
前は、どれが食べられるものなのかも分からなかった。
今でも、森のことを分かっているとは言えない。
それでも、何度か口にしたものと似た木の実くらいは、選べるようになっている。
おいしいかどうかは、別の話だけど。
私は裾の中の木の実を見る。
今日拾ったものも、たぶんおいしくない。
硬くて、青臭くて、食事というには頼りない。
「……ご飯としては、足りない」
それでも、何もないよりはいい。
前の世界なら、こんなものを食事とは呼ばなかったと思う。
けれど、この森では、腹に入るだけでありがたい。
ありがたい、はずなのに。
そう思うたびに、少しだけ気分が沈む。
森の中で過ごすうちに、分かったことはいくつかある。
水は、石の間から出ているところの方が飲みやすい。
寝るなら、根が盛り上がりすぎている場所より、少しだけ土が乾いている場所の方がまし。
それから、角はどう寝ても邪魔。
最後の一つは、分かったところでどうにもならなかった。
「……本当に邪魔」
頭の横に手をやって、指先で角に触れる。
慣れたとは言えない。
ただ、ぶつけない姿勢を少し覚えただけだ。
寝る場所も、歩く場所も、最初よりは少しだけ選べるようになった。
柔らかい場所は少ない。
安全な場所は、もっと少ない。
それでも、どこに身を寄せれば少しは隠れられるのか、どの音が近づいてくる獣のものなのかくらいは、前より分かるようになっていた。
獣の気配がしたとき、すぐ逃げるより先に隠れた方がいいことも、何度か怖い思いをして覚えた。
そして、もう一つ。
危ない獣が近くに来たとき、強く願う。
寝て。
そう思えば、獣は眠る。
最初は、何が起きているのか分からなかった。
二度目も、たまたまかもしれないと思った。
けれど、何度も繰り返せば、さすがに偶然とは思えなくなる。
理屈は分からない。
でも、身体の動かし方を覚えるみたいに、その感覚だけは少しずつ分かってきた。
怖いと思ったら、身を縮める。
転びそうになったら、手をつく。
それと同じくらい自然に、危ない獣を前にすると、頭の中でその言葉が浮かぶようになっていた。
寝て。
すると、獣は眠る。
だから、私はそのことを覚えてしまった。
望んだわけではないことばかり、増えていく。
眠った獣の周りに浮く、薄いもやのようなものもそうだった。
最初は、口にするだけで気味が悪かった。
今でも、普通だとは思っていない。
けれど、お腹が空いたまま動けなくなるよりはましだった。
あれを少し食べると、腹の奥の空っぽな感じが落ち着く。
それに、時々、知らない景色が頭の奥をかすめる。
夢みたいな、つながりのない景色。
低い場所から見上げる木々。
突然変わる暗い森。
追っているのか、逃げているのかも分からない感覚。
私のものではない。
それは分かる。
でも、何なのかは分からない。
「……考えても、分からない」
私は息を吐いて、裾の中の木の実を落とさないように持ち直した。
分からないことは増えた。
それでも、眠らないと身体はもたないし、食べなければ動けない。
この森では、気味が悪いからやめる、なんて言っていられなかった。
私は木々の間から、水場の方を確認する。
まだ戻れる距離にいる。
暗くなるまでも、少しだけ時間がある。
今日の分の木の実を集めて、寝られそうな場所を探す。
それだけのことをするために、私はまた森の中を歩き出した。
少し歩いたところで、私は木の根元に腰を下ろした。
地面は乾いている。
少なくとも、湿った土の上に座るよりはましだった。
私は裾を広げて、拾ってきた木の実を一つ手に取る。
指先で軽くこすって、表面についた土を落とす。
薄い皮を爪で剥くと、中から小さな実が出てきた。
「……小さい」
食べる前から、あまり期待はできなかった。
私はその実を口に入れて、奥歯で噛む。
硬い。
少し青臭い味が、舌の上に広がる。
甘くはない。
おいしくもない。
でも、食べられないほどではない。
この森での食事は、だいたいそんなものだった。
「……前より、判断が雑になってる気がする」
おいしいかどうかではなく、食べられるかどうか。
満足できるかどうかではなく、これで少しでも動けるかどうか。
考え方が、少しずつ森に寄っていく。
嫌だな、と思う。
でも、口の中の木の実を吐き出す気にはならなかった。
私はゆっくり噛んで、飲み込む。
腹に何かが入った感じはある。
空腹の尖ったところが、ほんの少しだけ丸くなる。
けれど、それだけだった。
これだけで元気になるわけではない。
歩き回った足の重さも、身体の奥に残る空っぽな感じも、ほとんど変わらない。
私はもう一つ木の実を取った。
木の実は、ないよりはずっといい。
水とこれだけでも、何もしないよりは身体が動く。
けれど、森で一日過ごすには頼りない。
だから私は、もう別のものを知ってしまっていた。
眠った獣の周りに浮く、薄いもや。
あれを口にしたときの方が、腹の奥は静かになる。
木の実とは違う。
水とも違う。
噛むものも、飲み込むものもないのに、身体の内側へ染み込むように落ちていく。
最初にそう感じたときは、気味が悪かった。
今も、普通だとは思っていない。
けれど。
私は手の中の小さな実を見つめる。
これだけで足りるかと言われたら、足りない。
水を飲んで、木の実を食べて、少し眠る。
それだけでは、どうしても身体が軽くならない。
もやを少し食べると、空腹が遠のく。
歩くのも、考えるのも、少しだけ楽になる。
そう知ってしまった。
「……知らない方が、よかったかも」
呟いてから、私は首を横に振る。
知らなかったら、たぶんもっと困っていた。
気味が悪くても、変でも、よく分からなくても。
それで動けるなら、森では使うしかない。
この二週間で、それも覚えた。
私は木の実をもう一つ口に入れた。
硬い。
青臭い。
やっぱり、ご飯としては頼りない。
噛みながら、私は眠った獣の周りに出るもやのことを考える。
あれを食べたとき、時々、知らない景色が見える。
低い場所から見上げる木々。
湿った土の匂い。
自分の足ではない何かで、森の中を進んでいるような感覚。
でも、それは長く続かない。
景色はすぐに別の場所へ飛ぶ。
走っていたはずなのに、次の瞬間には水場のそばにいる。
何かを追っていた気もするし、何かから逃げていた気もする。
前と後ろが、ちゃんとつながっていない。
夢みたいだ、と思う。
そしてたぶん、本当に夢なのだと思う。
眠っている獣の周りに出るもや。
それを食べたときだけ見える、知らない景色。
なら、あれは眠っている獣が見ているものなのかもしれない。
まだ、はっきり分かっているわけではない。
でも、自分の記憶ではないことだけは分かる。
見たことのある景色でもないし、自分の身体で動いている感じでもない。
「……夢、なのかな」
小さく呟いても、答えは返ってこない。
分からないことは多い。
それでも、何度も同じことが起きれば、少しずつ慣れてしまう。
眠った獣の周りには、もやが出る。
もやを食べると、お腹が少し楽になる。
そのとき、知らない夢のような景色が見えることがある。
それだけは、もう覚えた。
私は残りの木の実を裾の中に戻した。
全部食べても、今の空腹はきっと消えない。
それなら、少し残しておいた方がいい。
後で何も見つからなかったとき、ないよりはましだ。
私は立ち上がろうとして、手を木の根についた。
そのとき、少し離れた茂みの奥で、枝が揺れた。
風ではない。
枝の揺れ方が、重かった。
私は動きを止める。
裾の中の木の実が、かすかに転がった。
もう一度、茂みが揺れる。
何かがいる。
私は息を浅くして、ゆっくり木の根の陰に身を寄せた。
茂みの奥で、低い影が動いた。
私は木の根の陰に身を寄せたまま、裾を押さえる。
中の木の実が転がれば、余計な音が出る。
前なら、この時点で頭の中が真っ白になっていたと思う。
逃げるのか、隠れるのか。
どうすればいいのかも分からないまま、身体だけが固まっていた。
でも、今は少し違う。
怖くないわけではない。
むしろ、怖い。
それでも、やることは分かっている。
動かないように息を浅くして、音を立てないまま、相手の姿を確かめる。
私は茂みの方を見つめた。
枝がもう一度揺れた。
葉の隙間から、黒っぽい鼻先が見える。
次に、地面を踏む太い前足が見えた。
小さくはない。
少なくとも、私よりはずっと大きい。
獣は茂みから半分だけ身体を出し、鼻先を地面に近づけた。
何かを探すように、湿った土の上をゆっくり嗅いでいる。
私は、膝の上に置いた手を静かに握った。
二週間も森にいれば、こういうことは何度もあった。
一度目は何も分からなかった。
二度目は、偶然かもしれないと思った。
三度目からは、少しずつ順番を覚えた。
見つかる前に隠れる。
近づきすぎる前に、相手を見る。
それから、眠らせる。
言葉にすると、やっぱり変だと思う。
でも、今の私にとっては、もう変なだけのことではなかった。
転びそうになったら手をつく。
熱いものに触れたら手を引く。
それと同じくらい自然に、危ない獣を前にすると、頭の奥で感覚が動く。
私は獣から目を逸らさない。
寝て。
声には出さない。
ただ、頭の中でそう思う。
獣の耳が、ぴくりと動いた。
鼻先が少し上がる。
こちらの気配を探るように、顔がゆっくり向きかける。
でも、それ以上は近づいてこなかった。
獣の動きが、少しずつ重くなる。
前足に入っていた力が抜け、鼻先が下がる。
まぶたが落ちるように細くなり、頭がゆっくり揺れた。
私はまだ動かない。
眠るまでの間に、獣が一歩だけ近づいてくることもある。
眠ったように見えて、すぐには倒れないこともある。
だから、待つ。
獣は、こちらを向きかけた姿勢のまま、足を止めた。
重そうな身体が、ゆっくり傾く。
倒れる、と思った瞬間、獣は地面に伏せた。
湿った土と葉が押しつぶされる音が、近くで低く鳴る。
私は反射的に肩を震わせたけれど、獣は起き上がらなかった。
その大きな身体は、木の根の向こうで横たわっている。
腹のあたりが、ゆっくり上下していた。
眠っている。
私はすぐには近づかなかった。
しばらく待って、寝息のような音を確認する。
足が動かないことも、頭が上がらないことも見る。
大丈夫そうだ。
そう判断して、私はようやく肩の力を抜いた。
「……よし」
小さく呟く。
何が起きているのかは、今でも分からない。
けれど、私はこれで何度も獣を眠らせてきた。
危ない獣が来ても、先に眠らせればいい。
そう思えるだけで、森で動くのは少し楽になる。
だから、もう偶然だとは思っていない。
私は木の根の陰から、眠った獣を見る。
怖いものは怖い。
近づきたいわけでもない。
それでも、目の前の獣はもう襲ってこない。
眠っているから。
そして、その身体の周りに、薄いもやのようなものがゆっくりと浮かび始めていた。
薄いもやは、眠った獣の身体からゆっくり浮かんでいた。
白いような、灰色のような。
煙に似ているけれど、煙とは違う。
風が吹いても流されない。
火の匂いもしない。
それは獣の呼吸に合わせるように、ふわりと揺れていた。
私は、浮かび上がるもやを見て、小さく息を吐いた。
今回も出ている。
最初に見たときほど、驚きはしない。
慣れた、という言い方はあまりしたくない。
でも、二週間も同じようなものを見ていれば、さすがに毎回固まってはいられない。
もやが出て、それを少し食べると、お腹が少し楽になる。
分かっているのは、それくらい。
それ以上のことは、今でもよく分からない。
私は木の根の陰から、眠った獣を見る。
腹のあたりはゆっくり上下している。
鼻先から、低い寝息のような音も聞こえる。
足は動かない。
頭も上がらない。
大丈夫そうだ。
そう判断してから、私はゆっくり腰を上げた。
すぐ近づきすぎないように、足元を確認しながら歩く。
枯れ葉を踏む音を、できるだけ小さくする。
眠っているとはいえ、相手は私よりずっと大きい。
いきなり起きたら、たぶん困る。
かなり困る。
だから、近づくのは少しだけ。
獣の鼻先から離れたところで、私は膝をついた。
もやは、獣の背中のあたりから薄く浮いている。
手を伸ばせば届きそうだけれど、つかめるものには見えない。
私はそっと息を吸う。
少しだけ。
もやの端が、私の口元へ流れてくる。
煙を吸ったときのような苦さはない。
水を飲んだときのような重さもない。
口の中に入ったそれは、舌に触れた瞬間、ふわりとほどけた。
噛むものはない。
飲み込むものもない。
それなのに、身体の奥へ落ちていく感じだけはある。
腹の奥にあった空っぽな感覚が、少し静かになった。
「……こっちの方が、お腹は楽」
木の実を食べたときより、ずっと分かりやすい。
それが少し嫌で、でも助かる。
私は口元を手の甲で押さえた。
そのとき、景色がにじんだ。
目の前の獣が消えたわけではない。
ただ、意識の奥に、別の景色が薄く重なる。
暗い森の中を進んでいる。
視線は低い。
地面が近く、湿った土の匂いが強い。
木の根を避けたはずなのに、次の瞬間には水場のそばにいた。
水の匂い。
揺れる草。
遠くで何かが動く気配。
追っているのか、逃げているのかは分からない。
ただ、落ち着かない。
森の奥から、何かが近づいてくるような気がする。
そう思ったところで、景色はふっとほどけた。
私は小さく瞬きをする。
目の前には、眠った獣がいる。
その周りに、薄いもやがまだ揺れていた。
「……やっぱり、夢かも」
小さく呟く。
何度も見ているから、前よりは分かる。
これは、私の記憶ではない。
ただの想像でもない。
たぶん、眠っている獣が見ている夢。
そこまでは、何となく分かってきた。
けれど、どうして私がそれを見られるのか。
どうして食べるとお腹が楽になるのか。
そこは、まだ分からない。
獣は、少しだけ鼻を鳴らした。
起きたわけではない。
ただ、夢の中で何かを見ているのか、足先がぴくりと動いただけだった。
私は反射的に身体を引きかけて、それから止まる。
大丈夫。
まだ寝ている。
そう自分に言い聞かせる。
もやはまだ残っていた。
さっき少し食べた分だけ、薄くなったようにも見える。
けれど、獣の背中のあたりには、まだ淡い揺らぎが浮いている。
腹の奥は、少しだけ楽になった。
でも、まだ足りない。
木の実だけでは弱い。
このもやをもう少し食べれば、たぶんもう少し動ける。
私は眠った獣の寝息を確認してから、残っているもやへ目を向けた。
薄い揺らぎは、まだ獣の背中のあたりに残っている。
さっき少し食べたせいか、最初よりは少ない。
それでも、まだ口にできそうだった。
「……もう少しだけ」
私は小さく呟いて、また息を吸う。
もやの端が、ゆっくり口元へ流れてきた。
舌の上でほどけて、身体の奥へ落ちていく。
腹の奥に残っていた空っぽな感じが、また少し遠くなった。
木の実を食べたときとは違う。
腹に物が入る感じではないのに、身体の内側だけが静かになる。
私はもう一度、薄く息を吸う。
その瞬間、さっきの景色がまた重なった。
暗い森。
低い視界。
近い地面。
水場の匂いがする。
獣は、水場のそばにいる。
そう思った。
さっきは分からなかった景色の続きが、少しだけ見えた気がした。
揺れる草の向こうに、別の影がある。
遠くで何かが動いている。
水場へ近づこうとしているのに、影が揺れるたびに足が止まる。
前へ出たはずの視界が、次の瞬間には少し後ろへ下がっている。
近づきたいのか、離れたいのかも分からない。
ただ、落ち着かない感じだけが、ばらばらに流れてくる。
景色ははっきりしているようで、すぐにぼやける。
「……続き?」
私は小さく呟いた。
もやを少しだけ食べたときより、長く見えた。
さっきよりも、夢の中の流れが少しだけ分かる。
もしかすると、たくさん食べれば、その夢をもっと見られるのかもしれない。
そう思った。
でも、同時に、目の前のもやはかなり薄くなっていた。
獣の背中の上で揺れていたものが、細く、すぐに消えそうになっている。
私は、もう一口分だけ吸おうとして、少し迷う。
腹はまだ完全には満たされていない。
このまま全部食べれば、もっと楽になるかもしれない。
夢の続きも、もっと見えるかもしれない。
そう考えたとき、眠っている獣の耳がぴくりと動いた。
私は息を止める。
獣は起きていない。
けれど、寝息がさっきより浅くなっていた。
足先が、土の上を少しだけ掻く。
喉の奥から、低い音が漏れる。
唸り声、というほどはっきりしたものではない。
でも、ただ眠っているだけの音とも違う。
「……ん」
私は口元を押さえたまま、もやを見る。
さっきまで見えていた夢の景色も、急に色が抜けたようにぼやけていた。
水場の匂いも、草の揺れる音も、遠くなっていく。
夢が消えかけている。
そう思った。
たぶん、このもやは夢につながっている。
もやを食べれば、夢が見える。
なら、もやがなくなれば、夢もなくなるのかもしれない。
それが何を意味するのかは分からない。
ただ、目の前の獣は、眠っているはずなのに少し落ち着かなくなっている。
私は残りのもやから、顔を離した。
「……ここまで」
全部食べたらどうなるのか。
それは、少し気になった。
夢の続きも知りたい。
お腹も、たぶんもっと楽になる。
でも、今ここで試すには、相手が悪すぎる。
獣の足先が、もう一度ぴくりと動いた。
私はすぐに、頭の中で短く思う。
寝て。
獣の動きが、少しだけ弱まった。
浅くなっていた寝息が、ゆっくり戻っていく。
耳の動きも止まる。
私はしばらくそのまま見ていた。
完全に安心はできない。
でも、すぐに起き上がる様子はなかった。
残ったもやは、獣の背中のあたりでかすかに揺れている。
私はそれ以上口にせず、ゆっくり後ろへ下がった。
腹の奥は、さっきより楽になっている。
身体も少し動かしやすい。
けれど、夢が薄くなった瞬間に獣の寝息が乱れたことは、頭に残っていた。
夢が削れると、眠り方も変わるのかもしれない。
はっきり分かっているわけではない。
でも、今ここで全部食べきるのはやめた方がいい。
私は木の根の陰まで戻り、裾の中の木の実を確認する。
木の実は、まだ少し残っている。
もやも、少し食べた。
今日動く分としては、たぶん足りる。
「……全部は、あとで考える」
今は考えても分からない。
私は眠ったままの獣を見た。
寝息は戻っている。
けれど、さっき足先が動いたときの落ち着かなさは、まだ少しだけ残っているように見えた。
そういえば最近、こういう獣が増えた気がする。
眠らせる前から妙に落ち着きがなかったり、眠っている途中で体を動かしたりする獣。
前は、ここまで多くなかったと思う。
私は眉を寄せる。
森の中は、静かなようで、どこかざわついていた。
風が強いわけではない。
木の葉が大きく揺れているわけでもない。
それなのに、落ち着かない。
私は眠った獣から少しずつ離れながら、周りの音に耳を澄ませた。
遠くで、低い唸り声のようなものが聞こえる。
一つではない。
少し間を空けて、別の方角からも似た音が返ってきた。
「……また?」
私は足を止める。
前は、こんなに何度も聞こえなかったと思う。
もちろん、最初の頃は何も分かっていなかった。
どの音が危ないのか、どれくらい遠いのか、そもそも森の普通がどんなものなのかも知らなかった。
だから、気づいていなかっただけかもしれない。
でも、そうだとしても。
最近は、獣の気配が前より近くなっている。
水場へ向かう途中でも、寝られそうな場所を探しているときでも、何かが近くを通った跡を見つけることが増えた。
眠らせる前から落ち着きのない獣も、さっきみたいに眠っている途中で身体を動かす獣もいる。
これが私のせいなのかは、分からない。
そもそも、この森が最初からこういう場所だったのかもしれない。
でも、何かがおかしい。
それだけは、分かるようになっていた。
私は裾の中の木の実を抱え直す。
今すぐ動けないほどではない。
木の実もある。
水場の場所も分かる。
危ない獣が来ても、眠らせれば何とかなることが多い。
空腹がつらくなれば、もやを少し食べればいい。
最初より、ずっとできることは増えた。
けれど、それで安心できるかと聞かれたら、答えは違う。
寝床は相変わらず硬い。
角はどこに置いても邪魔。
木の実だけ食事は、どうにも頼りない。
危険な獣は多い。
もやはお腹を満たす分には助かるけれど、全部食べるには少し怖い。
それに、この森は落ち着かない。
私は木の根の間を歩きながら、空を見上げた。
枝と葉に隠れて、空はほとんど見えない。
昼なのか夕方なのかも、森の中にいると分かりにくい。
暗くなる前に寝場所を決めないといけないのに、どこも安全には見えなかった。
「……ここ、快適に寝られる場所じゃない」
小さく呟く。
分かっていたことだった。
ずっと前から分かっていた。
この森で少しでも安全に眠るためのやり方は、少し分かった。
生き延びる方法も、少しだけ覚えた。
でも、それは快適に眠れる場所を見つけたという意味ではない。
ただ、今日をどうにかする方法を覚えただけだ。
私は立ち止まり、木々の間を見る。
水場から離れるのは、正直かなり嫌だった。
水の場所が分かっている。
何度か戻ってきた道も、少しは覚えている。
近くにいれば、少なくとも喉が渇いて困ることは少ない。
でも、その水場の近くにも、最近は獣の気配が増えている。
分かっている場所にいる方が楽だ。
動かない方が、面倒も少ない。
それでも、ここにいたままでは何も変わらない。
水場とは違う方角。
まだあまり進んだことのない、少しだけ木の間隔が広く見える方。
本当に森の外へ続いているのかは分からない。
進んだ先に、もっと危ない獣がいるかもしれない。
今より悪い場所に出るかもしれない。
それでも、このまま同じ場所をぐるぐる回っていても、布団は生えてこない。
「……布団は無理でも」
私は息を吐く。
せめて、壁がほしい。
できれば屋根もほしい。
もっと言えば、獣が来ない場所で横になりたい。
かなり控えめな願いのはずなのに、この森では遠すぎる。
私はもう一度、眠った獣の方を振り返った。
木々の奥で、その身体はまだ動かない。
薄く残ったもやが、呼吸に合わせて揺れているのがかすかに見えた。
今は大丈夫。
たぶん。
私は向き直り、裾の木の実を落とさないように抱える。
ここで一晩を越す方法は、少し覚えた。
でも、このまま森で眠り続けるのは違う気がする。
もっと安全な場所がほしい。
ちゃんと横になれて、角をぶつけずに済んで、眠っている間に獣の気配を気にしなくていい場所。
「……森の外、かな」
口にしてから、少しだけ面倒になった。
外がどっちかも分からない。
でも、探さないと分からない。
私は木々の切れ間がありそうな方へ、ゆっくり歩き出した。
できれば、次に寝る場所は、もう少しだけましなところがいい。
そう思いながら、ざわつく森の中を進んだ。




