宝物
扉の近くで足音が聞こえる。
袋を手に持った唯が部屋に入ってきた。
「お母さん。頼まれてた物、買ってきたよ」
「ありがとう。唯」
茜は優しく笑うと彼女から袋を受け取る。
中から取り出したのは、緑茶のペットボトル。
「そういえば緑茶、好きだったよね」
「うん。あ、そうそう。唯に言っておかないといけないことがあったの」
唯は首を傾げる。
「前から申請してた自宅療養の許可が下りたわ。今日から家で過ごしていいそうよ」
その言葉に彼女は嬉々とした声を上げた。
「本当?じゃあ、また一緒に暮らせるんだね!」
なぜか茜は辛そうな顔をする。
優香は心に微かな波が立つのを感じながらも口を開くことはなかった。
しばらく二人の談笑を見守っていると声をかけられる。
「あの、優香さん。よかったら家にいらしてください」
「え?でも、初めて会った時に家に入れてもらったし。それに親子水入らずの邪魔はできないよ」
茜は首を横に振った。
「気なんて使わなくて大丈夫。だって、唯には別の意図があるのよね?」
「もう、言い方が悪いよ。私はただ、昔のお母さんの話が聞きたいの。あまり昔の話してくれないし。優香さんは高校まで母と一緒だったから……」
彼女が頬を膨らませたのを見て、優香は微笑んだ。
「そういうことなら、お言葉に甘えようかな」
「本当?ありがとうございます!」
唯は頭を下げた。
「じゃあ、手続きしてこないと。ごめん。待合室で待ってもらってもいいかな?」
「わかった」
優香はそう言うと病室を出ていく。
二人だけになった部屋で茜は真剣な顔をした。
「唯。大事な話があるの」
「何?改まって」
彼女は娘の顔を見るとぎゅっと手を握り口を開く。
その言葉に唯は目を大きく見開くと涙を流した。
病院の待合室で優香は二人が来るのを待っている。
しばらくすると大きな鞄を持った、親子が歩いてきた。
「優香さん。お待たせしました」
「大丈夫。あれ?」
彼女は唯の目元を見て首を傾げた。
「目。どうしたの?充血してるけど……」
「さっき目にゴミが入って。つい擦ってしまったんです。痛くはないので大丈夫ですよ。もうすぐ日も暮れてきます。急ぎましょう」
人が変わったように先を急ぐ唯に優香は戸惑う。
「そ、そうだね。じゃあ、行こうか」
三人は病院を出るとタクシーを捕まえて茜の家に向かった。
車内でもなぜか重たい空気が漂っている。
優香は口を開くこともできずにしばらく体を縮こまらせていた。
そんな様子を感じ取ったのか茜が声を上げる。
「優香。家に着いたら見せたいものがあるの。手紙に書いてあったでしょ?昔、話したあの場所って」
「あ、うん」
彼女は唯の顔色を窺いながら返事をする。
「あれは私の家にあるビニールハウスのことなの」
「ビニールハウス?果樹園にあるやつだね」
茜は視線を窓の外に向けた。
「颯太が亡くなってからずっと花や植物の研究に明け暮れてたの。けど、後悔はしてないよ」
「そっか」
二人が会話を続けていると車が止まる。
「着いたよ」
唯が扉を開けてこちらに声をかけた。
車から降りると日が沈みかけていた。
優香はぼんやりと空を見つめる。
ビルばかりの地元では見れない光景だ。
そんな姿に茜は優しく笑うと肩を軽く叩いた。
「優香。行こう」
彼女は頷くと二人の後を追った。
「お邪魔します」
扉を開けるとそう言って家の中に向かう。
茜の後に続いてリビングに入ると、唯がコップをふたつ持って現れた。
「どうぞ」
「ありがとう」
優香は椅子に座ると、目の前のテーブルに置かれたコップを手に取る。
中で揺れているお茶を見ると、のどが乾く。
車内の重たい空気でのどはカラカラだった。
「それ、飲んだらついてきてくれる?見せたいものがあるの」
「タクシーで言ってた場所だよね。わかった」
彼女はコップに入ったお茶を飲み干すと立ち上がる。
「ついてきて」
茜はそう言うと部屋を出ていく。
優香はなぜか浮かない顔をしている唯を一瞬だけ見つめて、その後に続いた。
家を出て薄暗い外をしばらく歩くと、ビニールに覆われた巨大な建物が目に入る。
「ここだよ。ずっと、優香に見せたかったの」
茜はガラスで作られた扉を開ける。
彼女はゆっくりとその中に足を踏み入れた。
「綺麗……」
辺り一面に黄色い朝顔が咲き誇っているその光景はまさに颯太の描いた絵のようだった。
今まで生きてきた中でも一番と呼べる絶景だ。
「どうぞ。座って」
茜が白い椅子を置く。
「ありがとう」
優香はその椅子に座る。
「これで少しは私の未練も減ったかな」
「え?」
彼女は目を瞬かせた。
「ごめん。唯には先に伝えたんだけど。私、実は一年も生きられないの」
「どういうこと?」
茜は目を伏せると深呼吸をする。
「家での療養の許可が下りたって言ったでしょ。あれはもう長く生きられないから先生が提案してくれたの。癌の進行が予想以上に早くて後、一週間生きれるかわからないんだって」
「そんな……」
優香はふと、唯の行動を思い出した。
充血した目、先を急ぐ様子。
あれは、母親と少しでも一緒に過ごしたいから自然に出た行動だった。
彼女は拳をぎゅっと握ると立ち上がる。
「残りの時間が少ないなら、私なんかより唯さんと過ごした方がいいよ!ほら、早く戻ろう!」
そう言って出ていこうとする、優香の腕を茜が掴んだ。
「優香。違うの。私がここに来たのはあなたにこの景色を見て欲しかっただけじゃない。お願いをしにきたの」
「お願い?」
彼女はもう一度椅子に座る。
「私はずっといろんなものを犠牲にして、花や植物の研究に没頭してきた。自分の時間、夫。けど、たったひとつあの子だけは大切にしてきた」
「娘の唯さんだね」
茜は大きく頷くと言葉を続けた。
「唯は私にとって宝物みたいな存在なの。親バカだけど目に入れても痛くないほどにね。この世を去るのは辛いけど苦しくはないの。ただ、心残りは娘の唯のこと」
「茜……」
優香はどう声をかけていいのかわからない。
「あの子は人に弱いところを見せられない。だから、いつも気丈に振る舞ってる。私の前以外ではね。けど、そんな私はもうすぐいなくなる。そしたら誰があの子に寄り添ってあげられるの?」
「確かに唯さんは気丈に振る舞ってるよ。初めて会った時からずっと何かを必死に堪えてるみたいだったし」
茜は沈んだ顔をする。
「わかってる。だから、優香。あなたに唯のことを頼みたいの」
「私に?でも、唯さんは私に気を許してないと思うけど」
彼女は優香の手を握った。
「最初は心を開いてないかもしれない。けど、二人が話す姿を見てて思ったの。あなたならきっと唯も心を開いてくれるって。だから、お願い。私が亡くなった後にたまにでいい。唯に会ってあげて」
必死にそう懇願する茜に彼女は真剣な顔をする。
「わかった。ただ、心を開いてくれる自信はないけどね。時間があるときは唯さんに会うようにするよ」
「ありがとう」
しばらく会話を続けていると、優香は廃校で会った少女のことを思い出した。
「そうだ。茜、これ返すよ。預かってたの」
年季の入った図鑑を彼女に手渡す。
「これ。もしかして大塚要さんの?」
「うん。後、朝顔も保管してもらってる」
茜は目元を綻ばせる。
「懐かしいな。朝顔は大塚さんにあげるよ。私がもらっても世話できないから。また、連絡するね」
「してあげて。茜のこと気にしてたみたいだから」
優香は図鑑を見つめながら、初めて茜に会った時を思い出していた。
「その図鑑ずっと持っててくれたんだね。私が昔、貸した図鑑」
「うん。やっと、返せるよ」
彼女は図鑑を優香に渡す。
その図鑑を見つめながらふわりと笑う。
茜は目を微かに見開いた。
「よかった。もう、笑えるんだね」
「茜のおかげだよ。あの手紙からいろんな人に会って、いろいろな景色を見て。仕事に追われてた日々が嘘みたい」
優香は真っ直ぐに彼女を見つめる。
「本当にありがとう。茜。唯さんのことは心配しないで。絶対、会いに行くから」
「うん。ありがとう。優香」
それが茜と優香が交わした最期の会話だった。




