第十七話 覇王丸③
「他にもあるにはありますが……」
幽幻はタンスの中の服を残らず取り出す。
しかし他はどれもコスプレ服の様なものばかりだった。色味やデザインも派手だし、言伝屋の店の雰囲気にもそぐわない。澪は観念し、とうとう首を縦に振った。
「分かった、着物でいいよ。でも、これどうやって着たらいいのか、分からないんだけど……」
帯や長襦袢など、一式を手渡されたが、それらをどの順でどう身に着けていいのか全く分からなかった。
「私で良ければ、教えましょうか?」
幽幻は澪を見上げる。「丈が合うかどうか、確認する必要もありますし」
「う……うん」
頷いてから、制服の上着を脱いで、ブラウスとスカートだけになる。
すると、何故だか急に顔が火照ってきて赤くなってしまった。
幽幻はそんな澪の様子にはお構いなしで、手際よく着物を着せていく。幽幻のすらりとした手がブラウス越しに触れるたび、何だか背筋を鋭利なもので突かれているみたいで、ドキドキする。
しかし、幽幻は澪の変化を特に気にした様子は無かった。単に表情に出していないだけかもしれないし、本当に気づいていないのかもしれない。
どちらにしろ、良かった、と内心でほっとする。変にぎくしゃくしたりしたら、恥ずかしくていたたまれなくなりそうだ。この人が表情の分からない人で、こういう時は本当に良かったと、そう思いながら幽幻に言われた通りに着物に袖を通していく。
「このような順ですが……一人でできそうですか?」
「う……うん、やってみる……」
その後、取り敢えず一人で着付けを行ってみたが、説明されたからと言ってすぐにできるほど、澪も器用ではない。結局、幽幻に手伝ってもらい、帯を締めなおしてもらったのだった。
(今度から、毎日これを着こなさなきゃいけないのか……)
それを考えると、かなり憂鬱だった。一瞬、まだコスプレ服の方がましだろうかとすら考えてしまう。けれど、澪の着物姿に対する幽幻と覇王丸の反応は、意外にも好評だった。
「いいじゃねえか、良く似合うぜ!」
「そうですね。とても落ち着いて見えますよ」
「そ、そっかな……」
現金なもので、そう言われると着物でもいいかという気がしてくる。
着付けも確かに今は下手だが、毎日続けていたら上達するかもしれない。
部活のテニスも最初は下手だったが、毎日続けているうちにフォームも様になって来たし、サーブもなんとか入るようになってきた。
だから、これもきっと何とかなるだろうと、澪はそう楽観的に構えることにしたのだった。
そして、《言伝屋》での生活が本格的に始まった。
朝早く起き、身支度をして、幽幻らと共に朝食をとる。そして、店の掃除をして開店準備。それが終わった後、幽幻が暖簾を店に掲げて、いよいよ営業開始だ。
ただ、《言伝屋》の仕事といっても、接客は主に幽幻の担当なので、澪の仕事はもっぱら店の片づけや掃除が中心だ。当然と言うべきか掃除機は無いので、箒やはたき、雑巾を使う。
これがまた、結構大変だ。全部手作業なので、体力も必要とされる。おまけに、《言伝屋》は店舗スペースだけでもけっこう広い。澪は初日から腕が筋肉痛になってしまった。
「幽さんはよく今まで、一人でこれを全部やってこれたね。すごいよ……」
澪はテーブルに突っ伏して、ぐったりとしてしまった。ところが、同じ作業をしているはずの幽幻はけろりとした表情だ。一人で黙々とカウンターの片づけに精を出している。
「まあ、師匠もいましたし……覇王丸の他にも同居人がいたので」
「お師匠さんや覇王丸の他にも、誰かいたの!?」
そんなこと、聞いてなかった。がばっと上半身を起こすと、幽幻はグラスを拭きながら何食わぬ顔で答える。
「ええ。他に三人ほどいました」
「あいつらも、今頃どこで何をやってんだろうなあ?」
澪と幽幻の会話を聞いていたのか、母屋から顔を出した覇王丸がしみじみとそう言った。澪たちが《言伝屋》に立っている間、覇王丸は家屋の修理をしたり、中庭に併設された畑をいじったりと、のんびりやっている。
元もと、幽幻と覇王丸の間では、仕事の分担をはっきりと決めているわけではないようだ。それでも、覇王丸はあまり接客をしない。そちらは完全に幽幻に任せているようだった。
澪は慣れない着物にもたつきながらも、覇王丸と幽幻を交互に手伝っていた。
「その……どうして他の三人はいなくなっちゃったの? やっぱり、行方不明?」
尋ねてみると、覇王丸は彼にしては珍しく、曖昧に笑う。
「まあ……変わった奴らだからな。いろいろあるんだろうよ」
それを聞いた澪は、「……そうなんだ」と答えつつも、少しだけ戸惑った。
(何か……隠し事されてるみたいな……気のせいかな)
この幻朧街は奇妙な街で、あり得ないことも当然のように起こる。今更、何が起こってもいちいち驚かない。でもそれとは別に、幽幻や覇王丸も未だ謎が多い。例えば、幽幻はいつどのようにして幻朧街にやって来たのか。或いは、生者にとって危険の多いこの街で、どうして覇王丸だけは自由に歩き回ることができるのか。
(分からないことはまだ多いけど……きっといつかは説明してくれるよね。あたしはまだ、この街に来たばかりなんだし)
覇王丸は澪に対して好意的だし、幽幻とも、最初の頃に比べると随分打ち解けてきた。だからきっと、時が来れば彼らの方から話してくれるだろう。いろいろ気になることはあるけれど、今は《言伝屋》の仕事に慣れる事が一番だ。
母屋での作業もまた、役割分担は、はっきりと確定していないが、料理だけは幽幻の担当と決まっているようだった。
確かに幽幻の作る料理は絶品だ。覇王丸もそれはよく心得ているらしく、いつも朝晩の食事を楽しみにしている。
ただ一つ難を言えば、幽幻の作る料理は和食のみだという事だ。それが本人の好みなのか、それともこの幻朧街では食材や調味料が他に手に入らないからなのか、理由は分からない。
でも、贅沢とは分かっていても、たまには洋食や中華が食べたいと思ってしまう。
その日の夜も、牛蒡や人参、厚揚げ豆腐の煮物や水菜の煮びたし、焼いた鯵などが並んだ。どれもこれも美味しくて、次々と箸が進んでしまう。覇王丸も顔を上機嫌で綻ばせ、
「う~~ん、やっぱ労働の後の幽のメシは最高だな!」
などと言いながら、ふっくらと焼きあがった鯵をつついている。
「はあ。そうですか」
ところが、幽幻の返答は素っ気ない。いつものように無表情で冷気を撒き散らしている。
覇王丸は不服そうに顔を顰めた。
「何だよ、えらくリアクション薄いじゃねえか」
「覇王丸に飯が最高と言われても。いつものと同じものを作っているだけですし」
「アホ! そういう話じゃねえんだよ。そんなだと絶対女にはモテねえぞ」
「私は別にそれでも結構です」
「かーーっ、これだよ。な? こいつ、こういう奴なんだよ。変人もいいとこだ」
しかし覇王丸に指差されても、幽幻はけろりとしている。いつもの視線――氷結光線を浴びせただけだ。どうやら覇王丸に対しても幽幻の態度はこうであるらしい。もっとも、澪に対する時とは違い、覇王丸にはわざと殊更に冷ややかに応じている節もある。気安い関係だからこそなのだろう。
そして、その幽幻の冷ややかな視線を浴びても、微塵もダメージを受けた様子の無い覇王丸も、なかなかの猛者だ。
澪は笑いながら二人のやり取りを聞いていたが、ふと思いついて幽幻に尋ねた。
「幽幻さんて、覇王丸さんに幽って呼ばれてるの?」
「ええ、まあ」
「私も……幽さんて呼んでいい? その方が呼びやすいし」
思わず上目遣いになる。それを聞いて、覇王丸は破顔した。
「いいじゃねえか、なあ?」
「構いませんよ。呼びやすい方でどうぞ」
拒まれるかも、とも思ったが、幽幻はあっさりと頷いた。
「俺の事は覇王丸でいいぜ。さん付けはどうも慣れねえ。背中がむず痒くなっちまう」
「じゃあ、私の事も澪って呼んで。友達とかにもみなそういう風に呼ばれてたし」
覇王丸は賑やかな性質らしく、一人で三人分は騒がしい。幽幻とは対照的だ。一人っ子で食事も大勢で取ることの少なかった澪は目を白黒させた。でも、不思議と不愉快ではない。
「この奈良漬け、美味しい!」
「そうですか。良かった。師匠がそういった類のものが好きだったのですよ」
「もしかして……和食が多いのも、お師匠さんが好きだったから?」
何気なく尋ねると、幽幻は急に不機嫌そうになって両目を細めた。
「師匠は大変な酒豪で、いくら私が料理を作っても酒ばかり飲んでいました」
「二人とも、いっつもそれで喧嘩してたよな?」
覇王丸もその時のことを思い出したのか、可笑しそうに笑う。
「ですから、何とかして食べさせてやろうと思って、ひたすら腕を磨いたのです」
「すごい執念……」
澪は思わず苦笑してしまう。幽幻の料理の腕は相当なものだ。これが全て師匠である空穂のためであるならば、よほど彼女の健康を案じていたのだろうと、想像できる。
「ところで、澪はあっちで何食べてたんだ?」
覇王丸に問われ、澪は考え込んだ。
「いろいろだよ。でも、和食よりは洋食や中華が多かったかな。ハンバーグとか、パスタとか、餃子とか麻婆豆腐とか……」
「今度、作ってみましょうか」
不意に幽幻がそう言ったので、澪はびっくりした。
「え、良いの? っていうか、作れるの!?」
「レシピはある程度、知っていますよ。あとは材料次第ですが……どれも何とかなるでしょう」
「ありがとう、すっごい楽しみ!」
もちろん、いつもの料理にも文句はない。洋食や中華が食べられるという事も確かに嬉しかったが、幽幻が澪のためにわざわざ用意すると言ってくれたことが何より嬉しかった。
食事が終わると、幽幻は急須と湯呑を取り出し、人数分の茶を淹れた。それで一息ついてから、澪は全員分の食器を抱えて立ち上がった。
「ごちそーさま。あたし、食器洗うね」
そして食器を提げたまま、廊下を出て向かいにある台所へと向かった。澪の家の台所よりかなり旧式だが、シンクもあるし、蛇口をひねれば水も出る。どこで手に入れてくるのかは分からないが、食器用洗剤やスポンジまであった。
幽幻は先日、現世のものが時おり幻朧街に流れ着くのだと説明してくれた。どうやらそういう物を取引して回る業者のような存在までいるらしい。
(でも……だったら、洗剤とかそんなに簡単には手に入らないのかな)
スポンジも随分使い込まれているようだった。この街では、消耗したらすぐにスーパーやコンビニで、という訳にはいかないからだろう。現世でも、特にものを粗末にしたことは無いのだが、ここの生活はさらに物資が限られるという事を十分に留意した上で行動しなければならない。
(大切にしなきゃ)
澪は丁寧にスポンジを取り出して洗剤を含ませると、蛇口を捻った。
◇♦◇♦◇◇♦◇◇♦◇◇♦◇♦◇♦◇
「……それにしてもお前な、少しは愛想良くしろよ。まさか澪が初めてここに来た時もずっとその調子だったんじゃねえだろな」
澪が台所へ立ってから暫くして、居間に残った覇王丸が小声で幽幻に囁いてきた。
「そうですが。それが何か?」
無表情でそう返すと、覇王丸は大袈裟な仕草で頭を抱えて見せる。
「おまっ……! はあ、早めに戻ってきて良かったぜ……」
覇王丸の言う事も分からないではないが、仕方ないではないか、と幽幻は思う。
幽幻の同居人たちは師匠を始めみな主張が強く、勝手気ままで、能天気且つバカ騒ぎが大好きという、お祭り人間ばかりだった。面白おかしく盛り上がる才には長けていても、他人に遠慮するなどという芸当はあまり身についていない者たちばかりだったのだ。
もちろん、覇王丸も含めて、の話だが。
そんな中で幽幻の果たしてきた役割と言えば、盛り上がったバカ騒ぎをひたすらクールダウンさせることだった。そうでなかったら、《言伝屋》はとうの昔に崩壊し、店仕舞いせねばならなかっただろう。
幼少の頃よりそんな環境で育ってきたせいか、どうも雰囲気を和ませることなどよりも、実務的な事柄に目が行ってしまう。
ただ、それを覇王丸に言っても、「お前は昔からそうだな、この朴念仁め!」などと返されるのは分かっているから、敢えて口には出さずに置いた。幽幻は代わりに、別の話題を切り出した。
「……覇王丸。師匠はもう、幻朧街にはいないのかもしれませんね」
「幽……」
「あなたがこれだけ探しても見つからないという事は……そうだと考えた方が自然です」
「澪に仕事を手伝わせることにしたのはやっぱそれが原因か」
「………」
幽幻は中指で眼鏡の柄を押し上げつつ視線を落とす。
覇王丸の指摘は間違ってはいない。どれだけ空穂の事が心配だろうが、《言伝屋》の仕事はこなさなければならないからだ。
空穂が戻らないのであれば――まだ、そう認めたくはないが、仮にそうであるなら、一刻も早く澪に仕事を覚えてもらわねばならない。
「気長に待つしかねえな。こればっかりはなあ……。案外、ある日何でもない顔してひょっこり戻って来るってこともあるかもしれん。空穂にはいかにもありそうな話じゃねえか。……なあ?」
しかし、そう言う覇王丸も、腕組みをして難しい表情をしていた。一度幻朧街からいなくなった人間が戻って来ることは殆ど無い、という事を、彼もよく知っているからだ。
部屋に重苦しい沈黙が降りた。台所から聞こえる澪が食器を洗う音と、古びた柱時計の乾いた音が、空しく響く。
幽幻はぼんやりと、空穂がいなくなった日の事を思い出していた。
あの日の事は、今でもよく覚えている。母屋の庭先に植わっている紅葉の葉が、ほんのりと赤く色づき始めた頃だった。同様に幻朧街のあちこちで落葉樹が赤や黄に染まり、その葉で路地の石畳に色鮮やかな絨毯ができていた。
午後になって幽幻が店の前を箒で履いていると、突然、空穂が店の中からひょっこり顔を出したのだ。
「幽、ちょっと出かけて来るよ。後、よろしくね」
空穂はそう言って、店を出て行った。幻朧街での生活が長い彼女が、そうやってふらりと街へ出かけるのは珍しい事ではなかったので、幽幻はあまり気に留めなかった。
どうせいつもの様に、どこかで今晩の酒を調達してくるのだろう。そう思っていた。
ただ一言、「あまり遅くならないでくださいね」と声をかけただけだ。
空穂は確かに生者だったが、この街の事を熟知していた。何が危険で何がそうでないかを判断できる知識があった。何せ、何も知らなかった幽幻にこの街の事を教えてくれたのは、他ならぬ彼女なのだ。
おまけに、我流のまじないで、身を守る術も持ち合わせていた。
空穂に限っては大丈夫だろう。そう信じて疑わなかった。実際、空穂はたびたび一人で外出していたしていたが、その都度、ちゃんと戻ってきた。
ところがその日に限って、空穂は戻らなかった。
そして彼女が幽幻の前に姿を現すことは二度となかったのだ。
今では空穂を一人で街に行かせたことを、心の底から後悔している。あの時、彼女を呼び止めておけばよかった。もしくは、自分が一緒についていけば良かったのかもしれない。いつものことだからと油断せずに、そばにいて彼女を守るべきだった。
しかし、どんなに心配や後悔を重ねても、空穂は戻って来なかった。
幽幻は昔、空穂に教えられた事がある。幻朧街に生きる生者は、ふらりと出ていったまま戻らない事がある。そして、そうやって姿を消した者は、二度と戻って来る事はない、と。探しても追っても、決して戻っては来ないのだ。
それは死者であろうと生者であろうと、同じように横たわる、この幻朧街の厳然とした《理》なのだ――、と。
空穂が生者である以上、いつかはその日が来ると分かってはいた。でも、それがあの日だとは思いもしなかった。
空穂のいない毎日は、まるで夢でも見ているかのようにフワフワとして現実感がなかった。体のどこかが欠けたまま、びゅうびゅうと隙間風が吹いている、そういう気妙で寒々しい感覚。
幽幻にとっての日常は、あの日からぶつりと途切れたままになっているのだ。
しかし―――
空穂は二度とこの店には戻らない。頭では理解していても、どうしても受け入れることができなかったが、そろそろその前提で、全てを切り替えていかねばならないのかもしれない。
「私も……決断しなければなりませんね………」
あれほど帰りたいと泣き叫んでいた澪は、今ではそんなことなどなかったかのように明るく気丈に振舞っている。
少なくとも、幽幻の前では落ち込んだ素振りなど、一切見せない。
最初は子供のようだと思っていたが、彼女は幽幻が思っていたよりも、ずっと芯の強い部分も持ち合わせている。
(私も……しっかりと現実を受け入れなければならない)
幽幻は胸の内でそう呟くと、両手の中にあった湯呑をテーブルにことりと置いたのだった。




