聖女が遺したものと、魚介トマト鍋 3
マユ、という少女は、前髪を眉毛の上辺りで切り揃え、そして、長い黒髪を持った少女だった。
黒目がちな瞳を僅かに伏せ、異世界風のドレスを身に纏っている。その表情は肖像画だからか、特に感情を表してはいなかったけれど、それでも何処か物憂げで生気というものが感じられなかった。
壁に飾られた先代聖女の肖像画を眺めていると、案内をしてくれた兵士が、宝石や金で彩られた豪奢な宝箱を持ってきた。そして、それの中身を台の上に丁寧に並べていく。
それは、嘗て先代聖女が所有していたもの。
学生証に、学校の教科書に筆箱。学生鞄――マユと言う少女は、登校中にこの世界に来てしまったのだろうか。
そして、その中にはシンプルなデザインの皮の手帳があった。
「……これは、見てもいいのでしょうか」
「どうぞご覧になってください。保存の魔法がかかっておりますので、大分古いものではありますが、崩れたりすることはありません」
手袋を貸してもらい、その手帳を手に持つ。
なんの変哲もない、普通の手帳だ。パラパラとめくっていくと、カレンダー部分にはぽつりぽつりと予定が書き込んであった。……そして、カレンダーの後にあったフリースペースの部分。どうやら先代聖女は、そこを日記代わりに利用していたらしい。その部分に目が止まって、内容を理解した瞬間――私は、思わず手帳を閉じた。
「……茜、なんて書いてあるの」
「ユエ。駄目。これは、駄目です」
「どうして。僕は知りたい。マユが何を考えていたのか。何を見ていたのか。……そのために、ここに来たんだ」
「……」
私が躊躇していると、ジェイドさんが私の手から手帳を取った。そして、パラパラと中身を見て、彼も不快そうに眉をしかめた。
「……これは」
「ジェイドさん、読めるんですか?」
「ヴァンテさんのところで、翻訳作業を手伝っているだろう? だから、少しは読める……けど。なあ、茜。ユエが知りたいのなら、要約して話せばいい。そのまま、すべてを伝えるには時間が足りないし――もう亡くなっているとは言え、故人も知られたくないこともあるだろう」
「……そうですね」
ユエはじっと私が話すのを待っている。
正直、この手帳の中身をユエに話していいものか――自信がないけれど、それでも友人のことをもっと知りたいというユエを、納得させるだけの都合のいい言い訳も思いつかなかった。
「では、こちらをご利用ください」
兵士さんは、テーブルと椅子を用意してくれた。そこに、三人で掛けてゆっくりと手帳の内容を話していった。先代聖女が何を思って、どういう想いでこの世界で過ごしたかを。
「――この手帳には、この世界に来る前のマユさんの記録も残っています」
「来る前?」
「どうやら……マユさんは、親御さんに虐待をされていたようですね。その辛い日々を、記録として手帳に書き記していたようです。日付と合わせて事細かに書かれています。……正直言って、あまり口に出したくないような、そんな酷い目に合っていたようです」
先代聖女がどういう理由で、受けていた虐待を書き記していたのかわからないけれど――もしかしたら、未成年の彼女が、親御さんの下から離れる為に、誰かからアドバイスをもらっていたのかもしれない。……けれど、その内容は普通の感覚の人間であれば、見るに耐えない程の内容で、到底ユエに話せるような内容ではなかった。
ユエは目を見開くと、くしゃりと顔を歪めて、とても悲しそうな顔をした。けれど、拳を強く握りしめると、続きを促すように私を見た。
先代聖女は、どうやらあまり裕福な家庭ではなかったようだ。仕事がうまくいかない父親に、暴力を振るわれる日々。学校でも上手く馴染めず、沈んだ日々を過ごしていた。死にたい、と思うほどには彼女は追い詰められていたようだ。
けれど、クリスマス・イブ。学校から帰宅した直後、いつものように酒に酔った父親に殴られていた――まさにその瞬間、この異世界に召喚された。
「――マユさんは、初めて出会ったフェルファイトス王子に、全身の傷を魔法で癒やしてもらったみたいですね。とても感謝していたみたいです」
「……きっとアイツのことだ。甲斐甲斐しく看病をしたんだろうな」
「そうみたいですね。見知らぬ金髪碧眼の王子に看病されて、どうすればいいかわからない、ですって」
ユエはフェルファイトス王子のことを思い出しているのだろう、若干表情を緩めている。
私はその様子を横目で見ながら、話を続けた。……この後は、異世界に来てからの話だ。苦労話はあるけれど、暗い話はなかった。どちらかと言うと、元の世界よりもどんなにかこの世界が素晴らしく、自分にとって心安らげる場所なのか――そういった記述が多い。
勿論、邪気の浄化をするために、大陸中を行脚しなければならないのだ。失敗もあったし、辛いこともあった。けれど、傍には常に王子がいて――自然と、ふたりは恋仲になっていった。
「ふたりは、お互いに魔石を贈りあったんですね。すごく、すごく嬉しかったって。……ほら、スケッチまでしてある」
「ほんとだ。意外に絵がうまい」
「心を通じ合わせたふたりは、やがて将来を誓いあった。浄化を終えた後のことを、とても……楽しみに……していたみたい、です」
王子と一緒に、秘密裏に仕立てた結婚式のドレス。
どれくらいの招待客が来るのか。きっと王子様の結婚式だもの、沢山の人が来るだろう――彼女が描いた幸せな未来図は、かけがえのない心の支えとなっていたのだろう。毎日のように書かれていた。
……そして。
「ツェーブルに来る途中の雪原。黒竜……ユエの記述がある。素直になれなくて、可愛い、子どもの竜ですって。スケッチも。ああ、そっくり。ユエってば、あまり見た目が変わらないですね?」
その先に待ち構える悲劇から目を逸したくて。私は無理に声を弾ませて、ユエを見る。ユエはじっと私の手の中にある手帳を見つめている。何を書いてあるかなんてわからないだろうに、じっと、その金の双眸で手帳に込められた、先代聖女の想いを見透かそうとするが如く。
誤魔化すなんてことは到底無理そうなことを悟った私は、唾でカラカラの喉を無理やり湿らせて、その先へと進んだ。
「…………そして、ツェーブルに辿り着いた一行は、旅支度を整えて、最終決戦に向かいます。この世で最も穢れた島。そこを浄化するために――その日を境に、数日間は、黒く塗りつぶされていて……読めません」
まるで、マユの心の中を現したようなそのページ。見ているだけで、息が詰まりそうになる。
「……茜。続きを」
「でも」
「いいから。その後の……マユが知りたい」
「本当に、いいんですか」
「いいんだ。さあ、早く」
ユエに促されて、次のページを開く。けれど、そこには何も書かれていなかった。
彼女の絶望や恨みつらみが書かれているかとドキドキしていた私は、ほんの少し安堵する。
そしてまた次のページ。次のページと順にめくっていくと――暫くして、ぽつん、と一言だけ記述があった。
「……フェルに会いたい」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
宝物庫から出てきた私たちを、先王様は穏やかな表情で出迎えてくれた。
そして、また「飴を食べなさい」と言って、今度は私やジェイドさんにまで飴玉を押し付けた。
先王様は気に入った子どもに飴玉をくれると兵士は教えてくれた。これは、先王様は私たちも気に入ったということなのだろうか。
すると、先王様は悪戯っぽい笑みを浮かべて、ニコリと笑った。
「ほら、飴玉は綺麗だろう。キラキラ、まるで宝石みたいだ。けれど、宝石よりも素晴らしい。だって、甘くて優しいその味は、泣きそうな子どもだって笑わせるほどの力がある」
どうやら、私たちは随分と泣きそうな顔をしていたらしい。先王様は、それを心配して飴玉をくれたようだ。
「わ、私は子どもでは」
「私から見れば、君も充分に子どもさ。泣きそうな顔は捨てて、笑顔になれるように。老骨のささやかな願いだ」
そう言われても、簡単に笑顔になれるはずもない。それも、先代聖女のことを知った今はなおさら。
手の中で輝く、色とりどりの飴玉を見つめて戸惑う私たちに、先王様はこう言った。
「――先代聖女のことを知りたいのだろう? ならば、国の外れにある施設に行くが良い。この国で唯一海を望む場所に建っておる。この国の海は、いつも荒れていて美しいとはいい難いが、それでも何か感じることはあるだろう。行っておいで」
そうして、先王様は、私たち全員を――優しく抱きしめてくれた。
ツェーブルの街を只管北へ、北へと進んで行くと、地下都市の端に行き着く。どうやらそこは、掘り進めているうちに崖の中腹に通じてしまった場所らしく、外の景色を望むことができた。
そこは、荒れ狂う北の海。どんよりと雲が立ち込める空に、鈍色の波が大きくうねっては、凄まじい音を立てて崖に打ち寄せる。潮の香りを含む風も、目が空けられないほど強く吹き荒れ、冬の寒さも相まってその場に留まるのが難しいほどの冷たさだ。
「おお、よくぞいらっしゃいました。どうぞ! 凍えてしまいますよ」
他の建物と同じく、白い石で組まれた正方形の建物の中から、優しげな面持ちをした老齢の女性が私たちを手招きする。
ここまでくるまでに、すっかり冷え込んでしまった私たちは、急いでその中へと逃げ込んだ。
扉が閉まると、外の冷たい空気が一気に遮断されて、暖炉の優しい温かさが全身を包み込んだ。
招き入れてくれた女性にお礼を言うと、その女性はコートを預かってくれ、飲み物を用意するために奥へと消えて行った。
ここは、先代聖女が創設したという、理由があって大人と暮らせない子どもたちが住む施設だ。
入り口から内部を見渡すと、そこは大きな広間になっていて、ぐるりと取り囲むようにして、沢山の扉があった。きっとそこが子どもたちの部屋なのだろう。螺旋階段があり、上を見上げると2階の通路が見える。もしかしたら、2階も同じように沢山の部屋があるのかもしれない。
そして、一番奥には大きな暖炉があり、その辺りだけが一段高くなっている。
その手前には大きく、そして長い食卓があり、沢山の椅子が並んでいた。
「――ええっと」
私とジェイドさんとユエは、入り口の扉から入ったままの状態で、思わず視線を泳がせた。
何故ならば、沢山の子どもたちが、部屋の隅に肩を寄せ合って集まり、私たちを無言で凝視していたからだ。
その視線には、明らかに友好的でないものも含まれており、なんとも居心地が悪い。
ネズミの耳を生やした小さな女の子なんて、私と目があった瞬間、後ろに隠れてしまった。
なんとも居心地の悪い時間を過ごしていると、先程の女性が戻ってきた。
そして、私たちの何とも言えない表情と、子どもたちの様子を眺めて、深い溜息を吐いた。
「……あなたたち。大丈夫よ、この方たちは里親希望の方々じゃあ、ありません」
「えっ」
「そうなの?」
「やだあ! 先に言ってよマザー!」
マザーと呼ばれた女性がそう言うと、子どもたちの雰囲気が一気に柔らかくなった。
そして、バタバタと騒がしい足音をさせて駆け出したかと思うと、好奇心で目を輝かせながら、私たちに群がってきた。
「こんにちはぁ! お客さん? マザーのお客さん? おねえさん、珍しい顔立ちしているねえ」
「ふおおおお! なに、この子。全身に入れ墨があるよー! かっこいい! 触っていい? あ、触っちゃった! うひょお! 俺もいつかこんな入れ墨を……」
「男よ」
「いい見目をしておる……」
「揉みたい」
そのパワーたるや凄まじいもので、私たちは気圧されてしまって、もみくちゃにされるがままになっていた。
すると、食卓にお茶の用意をしていたマザーの怒声が響き渡る。体を跳ねさせた子どもたちは、一瞬静まり返ったけれど、笑いながらまた散っていった。
「ごめんなさいね。この子たちったら……」
「いえいえ。元気いっぱいですね」
椅子に座ると、小さな半鼠人の女の子が膝によじ登ってきた。
頭を優しく撫でてあげると、ふんにゃり蕩けそうな笑みを浮かべて、私の体に体重を預けてくる。
ジェイドさんなんか、女の子の半獣人たちに質問攻めを受けていた。ユエは、その体に刻まれた入れ墨が珍しいらしい男の子たちから、憧れの眼差しを受けながらも、どこか沈んだ様子でぼうっと室内を眺めている。
「今日は一段と寒いから、外で遊べなくって体力を持て余しているのよ。だから、劇の練習をしていたのだけれど、お客様が来て練習のことなんて頭から吹っ飛んでしまったみたいね?」
「――劇?」
「そうよ。もうすぐ、聖女様がこの国に来た日を記念するお祭りがあるの。その祭りで、毎年うちの子ども院では催し物をしていて――今年は、劇をする予定なのよ」
マザーの話を聞いていると、私の膝に座った少女が、こちらを見上げているのに気がついた。
「おねえたん、劇、観るー?」
「あら、君も劇に出るの?」
「みんな出るのよ。あたちは、子どもの役なのよ」
「うーん、でもお祭りまではここには居られないから……」
「じゃあ、練習を観ていけばいいよ!」
すると、いつの間にか私の背後に立っていた――多分、猫の半獣人の少女が言った。
「お昼ご飯を食べた後に、練習を再開するんだ。祭りが近いから、通し稽古をするんだよ。あたしは、聖女様役なんだー。主役! すごいでしょ!」
「聖女様……?」
その言葉に、ユエがぴくりと反応する。
猫の半獣人の少女が言うには、先代聖女がこの国に来てから、半獣人の自由を勝ち取るまでの姿を描いた、人気の演目なのだそうだ。
……もしかして、先王様がここに私たちを寄越したのは、その劇を観せるためだったのだろうか。
ジェイドさんやユエもそう思ったのだろう。私たちは視線を交わし合って、その劇の練習を観ていくことに決めた。
すると、子どもの中のひとりが、お腹を擦って情けない声をあげた。
「それよりもお腹すいたあ」
「今日の昼の食事当番は――うわ、猫姉ちゃんか。そしたら、またシチューかよお。飽きるわ、流石に」
「うっさいわね! それしかまともに作れないんだもの! それに、買い出しは明日だから、今日はシチューを作るくらいしか材料ないんだからね!」
ぶうぶう、あちらこちらから不満そうな声が上がる。
それに、半猫人の子は、シャーッと、猫らしい威嚇音を発して怒りを露わにしていた。
喧嘩を始めてしまった子どもたちを眺めていると、「うるさくてごめんなさいね」と、マザーが申し訳なさそうに眉を下げた。
半猫人の子は、もうすぐ結婚して施設を出ていくのだと言う。花嫁修業も兼ねて食事を作る練習をしているのだけれど、なかなか腕前が上がらなくて困っているらしい。
ならばと、私は昼食作りの手伝いを申し出た。
「いえ、あの。お客様にそんなこと――」
「いいんですよ。劇を観させて貰うんですし。それに、ご飯を作るのはいつものことなので」
「おねえさん、手伝ってくれるの? もしかして、料理得意だったりする?」
すると、半猫人の子がキラキラした目で私を見上げてきた。
「じゃあさ、おねえさん、あたしに料理を教えてくれない? あたしにとってのコルデア様になって!」
「コルデア?」
「聖女様を影で支えたっていう、ジルベルタ王国から来た料理人よ。彼が聖女様に、料理の手ほどきをした逸話はとても有名なのよ!」
メルルはそのコルデアとかいう料理人の物語を熱く語っている。彼は、この国では先代聖女に次ぐ、歴史に残る偉人なのだという。
「マザーは目分量で作るタイプだから、教えてもらってもいまいちしっくりこなくって……ね! 頼むよ!」
「これ! メルル! お客様に何を言って――」
慌ててマザーが止めようと立ち上がったけれど、私はそのメルルと呼ばれた、半猫人の少女の表情があまりに真剣だったものだから、ついつい頷いてしまった。
「そんな偉大な人と、一緒にされるのは複雑な気分だけど……。私で良かったら。結婚のお祝いに」
「うわあ! やったあ!」
嬉しさのあまり飛び上がったメルルは、私の手を取って踊りだした。
メルルに振り回されながら、沈んだ表情で座っているユエを視界に捉える。
――美味しい食事を食べれば、少しはユエの気持ちも晴れるだろうか。
そんなことを、頭の片隅で考えていた。
コミカライズは明日、31日からヤングエースUPにて連載開始です!