番外 騎士団長と鯵のなめろう 4
取り敢えず、最初はビール!
それは俺と茜との間で、自然に出来たお決まりの流れだ。
いつも大体、何杯かビールを飲んでから、他の酒に雪崩れ込む。俺も、茜も酒に関しては決して弱くはないから、この流れを楽しんでいる感じがあって良い。
謎の硬直から復活したものの、どこかしょんぼりした表情のマルタが、俺のグラスにビールを注ぐ。
この世界のもの比べると透明度が比べ物にならないそのグラスに、金色のビールが注がれる様は、見ていて気分がいい。
「ふふふ。これはずうっと大事にとっておいた、秋限定のエールビールなんですよ! せっかくの秋ですからね、秋らしいものを飲まないと〜。エールビールは普段飲んでいるラガービールとは酵母が違うんですよ。香りがいつもよりも強いはずです」
秋限定……確かにマルタが手にした缶は、紅葉した山のように、色鮮やかな暖色で彩られていた。
ふとビールの缶を手にとって眺める。相変わらず、異界のこういった何気ないラベルや装飾の精度は素晴らしい。
ふと缶から視線を外すと、マルタのグラスがまだ空なのに気がついた。
「おう、マルタ。ほれ、グラス持て」
「え、あ。はい……」
俺がそう言うと、マルタはビクリと体を強張らせ、少し震える手でグラスを持った。
……うーん。どうしたものか。
心の中でそう思いつつも、マルタのグラスにビールを注いでやる。
すると、しゅわしゅわと泡が弾ける軽快な音がして、まるで空に浮かぶ雲の様にもくもくと泡が盛り上がってきた。
……まあ、今はいいか。とにかく酒だ!
俺は自分のグラスを持ち上げると、茜とマルタと乾杯した。
白い泡が一際膨れ上がっている部分に、ちゅっと吸い付く。
すると、途端に華やかな香りが鼻をくすぐった。
「……!」
それは今まで飲んだビールからは感じられなかった強い香り。……今日のこのビールは何か違う。
そう思った俺は、ビールの表面に広がる泡の海を掻き分け、唇がグラスにたどり着いた瞬間、ぐいっと一気に金色の液体を飲み込んだ。
途端、鼻から肺の中まで、まるで果実のような爽やかで優しい香りが抜けていった。
その香りは飲みなれたビールの香りとはまったく別物だった。
「……うう! なんだこれ。うめえな!」
「でしょう? エールビールはいつものビールとはひと味違うでしょう? キンキンに冷えたビールを一気に呷るのもいいですけど、こういうビールも美味しいと思いませんか」
「だな。いつものも美味いが、これはこれでいいな……酒を味わっている感があって」
「流石、ダージルさん。わかってますねえ」
エールビールは、飲みなれているビールとは香りもそうだが、味も全く違った。
ビールと言えば、苦味やコク、キレ。喉越し――そういったものを楽しむものだと思っていた。種類によって印象は変わるが、味もどこか根本では似通っている。そういうものだと思っていた。
けれど、このエールビールはどうだろう。この酒は、今まで飲んだビールとはひと味もふた味も違った。
どちらかと言うと優しい味のエールビールは、果実感溢れる香りと相まって、舌の上に広がる味はどこか甘味すら感じる。その甘味は決して強い甘味ではない。僅かに感じる程度だ。そして、どうしようもなく優しい甘味。その甘味が、ひとくち飲むごとに口の中を優しく包みこみ、飲んでも飲んでも飽きが来ない。
ごくごくと一気に呷るのは何処かもったいない。大事に一杯を味わいたい。同じビールと名のつく酒であっても、そういう風に思わせる、そんな酒だ。
「ふふふ、実はビールというのはたっくさん種類があるものなんですよ。今まで飲んだのは、ほんの一部。このエールビールだって、味わい、香り、色……ところ変われば品変わる。地ビールっていう、地域ごとの特色を活かしたビールすらあるんです! めくるめくビールの世界はどこまでも広がっているんですよ……!」
「うおお。くっそ、なんだそれ。深いな! 異界じゃなけりゃあなあ。世界中を回って、あらゆるビールを飲み尽くしてやるのに」
俺が本気で悔しがっていると、それを見ていた茜とマルタが可笑しそうにくすくすと笑った。
俺は、ついさっきまで見えなかったマルタの笑顔に、嬉しくなって目を細めた。
――やはり酒は良いものだ。美味い酒を飲むと、雰囲気が良くなる。
俺はグラスを置くと、揉み手をしながら目の前の料理を眺めた。
「よっしゃ、食うぞ〜」
ビールを飲んだら、途端に腹が減った。俺は取り皿に焼き枝豆を鷲掴みにして放り込む。そして、焼けて水分が飛んで皺が寄った、若干の焦げのある枝豆をひとつ摘むと、口の中に豆を押し出した。
ぷりん、と豆が鞘から滑り出して俺の口に飛び込んでくる。
こり、といい歯ごたえがするその豆は、途端に舌の上に自身の甘さを伝えてきた。
塩茹でよりも、塩加減が控えめなせいもあるのだろうか。豆の本来の味をしっかりと感じることが出来る。なんとも優しいその味に、思わず頬が緩んだ。
「おお! 焼いたのも美味いな。それに豆の味が濃い気がする」
「ふふふ、水分が程よく飛んで凝縮されてるんですかね? 塩茹でのしょっぱいのをもりもり食べるのもいいんですけど、豆の味を堪能するには焼いた方が美味しい気がします。それにしても、ビールがすすむー! マルタ、どう?」
「うーん! 頑張った甲斐があったかも。美味しい……。もう、大変だったもの。鞘の両端切り落とすの。報われた感じ……」
「うんうん! 枝豆は、地味な作業が多くてしんどいよねえ」
皿に乗った枝豆を見ると、確かに両端が切り取られている。茜の話だと、茹でるよりも塩が効きにくいので、両端を切り落としたあと、しっかりと塩水に浸しておく必要性があるのだそうだ。
「やらなきゃやらなくてもいいんですけどね。でも、手間暇掛けたほうが、美味しいものが食べられるんですから、そこは手を抜かない方がいいと思うんです」
「確かに、豆に塩っ気が染みてて美味いな」
ちゃぶ台の上の皿に乗った枝豆はこんもりと山のようになっている。
それをひとつひとつ丁寧に処理するのは骨が折れそうだ。
俺は感心して、うつむき加減で枝豆を食べているマルタに声を掛けた。
「マルタ、頑張ったなあ」
俺がそう言うと、マルタは普段から丸っこい瞳を更にまんまるにして――頬を染め、照れくさそうにふんにゃりと笑み崩れた。
焼き枝豆のお陰で、どんどん酒が進む。
エールビールを堪能した後は、きりっとした辛口の日本酒だ。
今日は冷。小さめのグラスに透明の日本酒を注ぐ。とくとく、とグラスに注がれる酒の音は、その先に待ち構える酒の味を予感させて、耳に心地いい。グラスの縁限界まで注いだ酒が零れないように気をつけながら、指先でグラスを摘むようにしてぐい、と飲むと、喉の奥を嫌味のない辛味が刺激する。鼻を抜ける華やかな香り。そして飲んだ瞬間にふわりと体に広がる、心地よい酩酊感。絶え間なく五感を刺激してくるこの酒は、飲めば飲むほど癖になる。
マルタが作ったという『秋茄子の揚げ浸し』も、この辛口の日本酒を飲みながらつまむには最高の出来だった。
一旦油で揚げてから、つゆに漬け込んだというその秋茄子は、舌に乗せて噛み締めると、途端にとろりと口の中で蕩けた。夏ごろの固い皮の茄子と違って、秋茄子は皮が柔らかいのが特徴だ。
それを素揚げにすることによって、噛み締める必要がないくらい柔らかになる。
「うおー。このつゆ! しょっぱさが丁度いいな。それに、生姜のお陰でさっぱりだなあ、マルタ」
「あ、揚げてから、つゆに漬けて暫く置いておいたんです。冷蔵庫で……。味、ちゃんと染みてますか?」
「おう、噛むとなあ、じゅわっと中からつゆが染みてくるんだ。こりゃあいい」
「おかわりは……」
「ん、貰おうか」
あっという間に空になった皿をマルタに差し出すと、はにかんだ笑みを浮かべたマルタが新しい秋茄子を乗せてくれた。酒が入ったからか、マルタの俺に対する態度の固さは、幾分か和らいだようだった。
「――茜?」
「ジェイドさん!」
その時、遅れていたジェイドがやってきた。茜の専属護衛騎士であるジェイドは、俺に挨拶をすると、茜を手招きして呼び出した。そして、何の用事がなのかは知らないが、そのまま玄関へと向かったようだった。
途端、居間の中に静寂が訪れた。静まり返っている部屋で、僅かに聞こえる振動音は、異界の道具である冷蔵庫のものだろうか。
茜ひとりが居なくなっただけで、ガラリと変わった空気感に、俺は居心地の悪さを感じて、思わずグラスに入った酒を一気に呷った。
ちらりと隣を覗き見ると、マルタはあからさまに表情を強張らせ、やっと和らいだと思った表情は、また固いものに戻ってしまっていた。
……困ったな。
俺は居心地の悪さを紛らわすために、手付かずの『鯵のなめろう』に手をつけた。
口に入れようとした瞬間、『なめろう』は「生の魚」だということを思い出して戸惑う。茜が美味いというのだから、きっと美味いのだろうが、長年染み付いてきた「生」への忌避感というのはなかなか薄れないものだ。俺は覚悟を決めて、『なめろう』を口の中に入れた。
――その瞬間。
俺は口の中に『なめろう』を含んだまま、動けなくなってしまった。
「……団長様?」
俺の異変に気がついたマルタが、心配そうに声を掛けてくるけれども、正直それどころではない。
俺は口の中の『なめろう』を急いで飲み込むと、箸でもう一度――今度はたっぷりと『なめろう』を掬いあげると、がっつくようにして食べ、咀嚼した。
……ああ! なんだ、これ!!
俺は思わず目を瞑って、口の中に広がるその味に集中した。
『なめろう』の味。それを一言で言い表すならば、旨味の塊。
「生」への忌避感なんてものが吹っ飛ぶくらいのその味は、俺の舌と脳に恐ろしいほどの旨味を伝えてくる。
包丁で叩いたと言っていたその『なめろう』は、非常に滑らかだ。とろり、と舌の上に広がった瞬間、脳がしびれるくらいの旨味と一緒に、混ぜ込まれた薬味が一気に主張しだす。薬味の中で、一番存在感を醸し出しているのは生姜。その爽やかな辛味と刺激――それが鯵の旨味を更に引き立たせ、そして青ネギの風味が全体を纏めている。爽快感のある大葉の風味もなんとも言えず良いし、ふと感じるみょうがの風味も、いいアクセントとなっていて、飽きがこない。
そして、程よく感じる塩気――これは。
「味噌か?」
俺がそう言うと、マルタは無言でこくこくと頷いた。
味噌の塩気、まろやかさ。味噌そのものを野菜につけて食べたこともあるが、その時も味噌の旨味に驚いたものだった。けれど、その味噌が恐ろしいほどの旨味を内包している、鯵の刺し身と混じり合うと――。
「うめえなあ……」
その時、口から零れたのは、心からの言葉。お世辞なんて一切含まない、自然に漏れたその言葉を聞き、俺をじいっと見ていたマルタは、途端に顔を真っ赤にさせて俯いてしまった。
エールビールというと、よ○よ○ビールが美味しいですね……。ちょっと高いですが、飲むと堪らんです。