番外 騎士団長と鯵のなめろう 5
……よし。
俺は、床を見つめてしまったマルタに、常々思っていたことを聞いてみることにした。このまま、もやもやしたものを腹に抱え続けているのは、俺の性には合わない。そう思ったからだ。
「なあ、マルタ。お前、俺のことが嫌いか……それでなきゃあ、苦手か?」
「は!?」
俺がそう聞くと、マルタはぱっと顔を上げて、驚愕の表情を浮かべて俺を見つめた。
「だって、お前。俺と一緒にいると、すぐに俯くだろ?」
「そ、それは」
「視線も滅多なことじゃ合わせねえ。まあ、嫌々かもしれねえが、一緒に酒はこうやって飲んでくれているから――まあ、決定的に嫌われてはいないとは思うんだが、それでもいつも茜たちと一緒にいるときとは態度が違うだろ?」
「うう……!?」
「まあ、俺が騎士団長だからってのもあるかもしれねえが……。まあ、普通緊張するよなあ」
貴族ではない平民のマルタが、騎士団長であり高位貴族である自分に気後れするのは当たり前のことだろう。
俺は美味いなめろうをまたひとくち食べ、酒を呷る。
その味をしみじみ噛み締めながら、話を続けた。
「この間、ドラッドを食べた後、飯に誘ったのも悪かったな。まあ、身分が高くて、歳の離れたおっさんとなんて、気を使うだけでつまらないだろうし。一緒になんていたくねえよなあ。すまんな。俺は昔から、死んだ女房にも女心がわからねえって叱られっぱなしでなあ。悪いことをしたと思ってる」
俺がそう言うと、急にマルタが下を向いてふるふると震え始めた。
マルタは唇を噛み締め、眉を顰めて、拳を握りしめている。それは体の内から湧き上がる怒りを堪えているように見えた。
「ま、マルタ……?」
俺はマルタの予想外の反応に、恐る恐る声をかけた。
すると、マルタは日本酒の一升瓶を思い切り掴むと――直接口をつけて、一気に飲み始めた。
「お、お前! 何してるんだ!」
マルタの細い喉が、日本酒を飲み下すたびに、こくりこくりと上下している。
口元からは透明な酒が零れ、褐色の肌は一気に赤く染まった。
俺は慌ててマルタのそばに近寄ると、手から一升瓶を奪い取った。
一升瓶の中身は、その時点で半分ほどまで減ってしまっていた。
「はあ……はあ……はあ……」
マルタは暫く肩で息をして俯いていたが、背中を擦ってやると、勢い良く顔を上げて俺を見つめた。
うっすらと汗を掻き、頬を赤く染めて、潤んだ瞳で俺を見つめているマルタの表情に、思わずドキリとする。
赤い唇は酒で濡れて、照明の光を反射して艶めいていた。ぽってりとした肉厚な唇を、何度か開閉していたマルタは、ごくりと唾を飲み込むと、漸く口を開いた。
「誤解です」
そう言った瞬間、丸い瞳はあっという間に涙で一杯になり、途端に緑色の瞳が輝きを増した。
思いの外長い睫毛を、涙の粒が一粒ぽろりと滑り落ちる。切なげに歪められたその顔は――なんとも色っぽい。
「嫌いなんかじゃあ、ありません。苦手でも……ありません」
マルタは華奢な手を俺にそっと伸ばした。
普段目にすることが多い、騎士たちのゴツゴツとした手と比べると、格段に小さくて華奢な指が――俺に触れるか触れないかまで近づいた瞬間。
その手はぴたりと動きを止めて、少しの間、宙を彷徨った後――ゆっくりと降ろされた。
……なんだ。
「……ッ!」
俺はその瞬間、自分が落胆したことに気がついて、思わず手で口を覆った。
――ちょっと待て……。何だ今のは!
自分の中に渦巻くよくわからない感情に戸惑っていると、マルタの緑色の瞳と視線がかち合った。
大きな丸い瞳に溜まった涙が、きらりと照明の灯りを反射して煌めいている。うっすら残った涙の跡が、赤く染まった目元が、普段はすぐに逸らされてしまう、緑色の瞳が。彼女の全てが俺を惹きつけ――初めて見る大人びた表情のマルタから、俺は目が離せなくなってしまった。
「一緒に居てつまらないだなんて……団長様は、とっても魅力的です。嫌々だなんて、そんなこと絶対にあり得ません」
マルタの口から熱い吐息と共に発せられたその言葉に、思わず頬が熱くなる。
「な、何言っているんだ。冗談はよせ。おっさんをからかうもんじゃない」
「からかってません。団長様は素敵です」
「こら」
マルタは少し目を細めて、今度は躊躇うことなく、俺の手をとった。
そして、俺の長い騎士生活のなかで傷だらけになってしまった手を、自分の頬に寄せた。
マルタの頬は、火傷しそうなほど熱く、そして俺の手に触れている手もまた熱かった。
体中が燃えるように熱くなっているマルタは、うっとりと瞳を閉じてぽつりぽつりと語り始めた。
「この傷も」
マルタは俺の手に刻まれた傷跡を指でゆっくりとなぞった。
そうしているうちに、はらりと赤毛の三つ編みが背中から零れ、うなじの後れ毛が視界に入ってきた。
「団長様が笑った時に出来る目尻の皺も」
マルタは目を開けて、俺の顔をじっと見つめた。真っ赤な唇の色が、若々しい褐色の肌と赤毛のせいで更に際立って見えた。
「全部。全部素敵です。……年齢なんて、関係ありません」
マルタはそう言うと、ゆっくりと瞼を伏せた。
俺は、激しく鼓動する心臓と、やけに熱くなってきた自分の体に、内心酷く困惑していた。
自分が今どういう状況なのかがまったく理解できない。
どうして、俺の胸がこんなに高鳴っているのか。
どうして、この娘は俺をそんな目でみてくるのか。
――どうして、俺自身も彼女に触れてみたいと思ってしまっているのか。
俺は、マルタが触れていない方の手を動かそうとして――やめた。
この若い娘に、俺のようなものが自分から触れていいとは思えない。
例え、俺の手に愛おしそうに頬を擦り寄せる姿が、目の前にあったとしても。
――触れては駄目だ。
自分の歳を、立場を、考えろ! ダージル!
そう自分に言い聞かせたとき、俺の耳に今まで以上に熱っぽい声が届いた。
「団長様……」
マルタは俺のことをそう呼ぶと、くったりと体を預けてきた。
思わず息を飲む。駄目だ、と俺の中の理性が必死にやめろ、突き放せ! と叫んでいる。
まずい。どうにかして、この娘を俺から引き離さないと、俺は――……。
「ま、マル……」
俺がマルタの名前を呼ぼうとしたとき、マルタは勢い良く顔を上げた。
そして――とんでもないことを言い出した。
「うっ……吐きそう」
「吐く!?」
先ほどとは正反対の顔色になったマルタは、自分の口を手で押さえた。
俺が動揺している間にも、みるみるうちに、マルタの頬がまるで木の実を詰め込んだ栗鼠のように膨れ上がっていく。
「あ!? ちょ、待て……!!」
俺の慌てた声も虚しく、全身を震えさせ、口元を手で押さえたマルタは――苦しそうに顔を歪め、俺の服に思い切りしがみついた。――そして。
「お、おろろろろろろ……」
温かいものが服に染みてくる感覚がして、俺は思わず悲鳴を上げた。
「え!? ダージルさん、どうしたんですか!?」
俺の悲鳴に気づいた茜がやってきたときには、全て手遅れ。その惨状を見た茜が、顔を手で覆って天を仰いだのは、この直後のことだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
アンナと結婚して、二年目の秋。
日がな一日をベッドの上で過ごすアンナに、俺は時間を見つけては寝室へと通い、ふたりでゆっくりとした時間を過ごしていた。
もう、アンナに遺された時間は多くはない。医者にもそう言われていて、俺は出来る限りアンナとの時間を持とうとしていた。
いつものように、俺はアンナの好きなアッシュの枝を、庭の木から切り取って持って行き、それを花瓶に飾った。アンナは、もう殆ど見えないという目でアッシュを眺めると「綺麗ね」と言って笑った。
俺がベッドサイドに置かれた椅子に腰掛け、アンナの手を握る。いつもどおりに林檎を剥こうかと聞くと、アンナは首を振ってゆっくりと話し始めた。
「ダージル。話したいことがあるのよ」
「なんだ? アンナ。何かほしいものでもあるのか?」
俺の言葉にアンナは困ったように眉を下げて、「違うわ」と言うと、俺の手をゆっくりと撫でながら言った。
「ダージル、あなた……。私が死んだら、本当に好きな相手と結婚するのよ」
「何を言っているんだ、アンナ」
予想のつかないことを言い出すことが多いアンナだったが、今回は冗談にしても質が悪い。俺は戸惑いの視線をアンナへと送った。
「あなたは若いし、家柄もいい。だから、きっと私の死後に沢山縁談が来るでしょうね。でも、駄目。家柄が釣り合う相手とか、そう言う相手との婚約は私とで終わりにして」
うっすら笑みを浮かべて言ったアンナの言葉に、俺の中に沸々と怒りが沸いてきた。
……これじゃあ、まるで俺が家のためにアンナと結婚したみたいじゃないか!
思わず顔を顰めると、なんでもお見通しと言わんばかりにアンナはふふ、と小さく笑った。
「あら、ごめんなさいね。誤解させちゃったわ。ねえ、ダージル。私、あなたと結婚出来て本当に良かったと思っているの。家柄なんて関係なく、ね。私、今だから言うけどね。あなたのこと、本当に愛していたわ。あなたともっと本当に居たかったわ。あなたの子供が欲しかったわ。多分、あなたもそうだったと思っている。信じている」
アンナの語る言葉は、全て過去形だった。俺は、そのことに気がつくと、なんとも言えない気持ちが沸き上がってきて、気がつくと涙を浮かべてアンナの手を強く握りしめていた。
ベッドに横になったままのアンナも、語りながら静かに涙を零し、天井を真っ直ぐに見上げて、震える唇でゆっくりと話を続けた。
「だから、凄く悔しいのよ。私、死にたくない。あなたともっと一緒にいたい。あなたともっと夫婦らしいことをしたい――けど、それは叶わない夢だわ。そのことは身にしみてわかっているの。だからね、ダージル」
そう言うと、アンナはやせ細ってしまった指で、部屋にある本棚を指差した。
どうやら、そこにある本を取れということらしい。
俺は椅子から立ち上がって、アンナの指し示した本を取った。
その本は、やたら分厚く――そして、古い。
それは子供の頃、アンナが夢中になっていた、呪いの本だった。
ついつい懐かしくなって、その本の表紙を手のひらで軽く撫でると、アンナは俺の後ろ姿に向かって言った。
「私、あなたに呪いをかけるわ」
「――呪い?」
「あなたが本当に好きな相手以外とは結婚できない呪い。好きな相手とは絶対に結ばれる呪い。その人と結ばれたら、必ず幸せになる呪い――」
ゆっくりと振り返ると、アンナは起き上がるのも辛いはずなのに、力を振り絞って体を起こし、ぽろぽろと沢山の涙を零しながら――それでも、優しい笑みを浮かべて言った。
「適当な女が、あなたの隣に収まるなんて許さないわ。私、性格が悪いの。そこらへんの女で妥協してご覧なさい、化けてでるわよ」
アンナはそう言うと、花瓶に生けられたアッシュの木を見た。
「このアッシュの木に誓うわ。どうか、幸せになって。ダージル。本当に好きな人を見つけて」
「……俺は。俺は! 俺の気持ちは……!」
目の前に愛する人が居るのに、次を探せと言われて納得が出来るわけがない。
俺はアンナの下へと走りよると、その薄い体を思い切り抱きしめた。そして、何度もアンナの名を呼んだ。こんな時すら、素直に「好き」だの「愛している」だの言えない自分に失望しながら。
願わくば俺の気持ちが、アンナを愛する気持ちが伝わればいいと。何度も、何度も。
アンナはそんな俺の背中を優しく撫でて、話を続けた。
「あなたと出会えたこと、それ自体が幸運だったの。だから、私はあなたの幸せを望むわ。
私は今までのあなたを貰えた。それだけで充分幸せだった。あなたにはきっとこれから沢山の出会いがあるわ。ずっと独りでいろなんて、私には言えない。あなたはとっても魅力的だもの。きっと沢山の女性が惹かれるはず――」
今でも思い出す。
その時、細くて今にも折れそうなアンナの体が、ふるりと微かに震えたのは、俺の気のせいだったのだろうか。
「アッシュの花言葉を知っている?
『あなたを見守っています』……私、空の上からあなたを見守っているから。
だから、幸せになって。ダージル……きっと、天使みたいに可愛い子が、あなたの下に現れるはずよ」
俺は溢れる涙のせいで、その言葉に返事を返す事が出来ずに、強く強くアンナを抱きしめた。
視界の隅で、アッシュの赤い実が、窓から吹き込んできた風に吹かれて揺れていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「今日は馳走になったな」
「いいえ、『味見』ですから。洋服は洗濯して後で届けますね」
「すまんな」
玄関先で茜に挨拶をして、ジェイドに持ってきてもらった服に着替えた俺は、家路につこうとしていた。
マルタは居間に敷いた布団に横になり眠ってしまった。
俺の迂闊な発言のせいで、またマルタが寝込んでしまった。何故か、マルタとこの家に居ると、いつもこういう展開になるから不思議だ。
俺が踵を返そうとすると、茜が声をかけてきた。茜は少しの間、視線を彷徨わせていたが、決意したように顔をこちらに向けると、真っ直ぐに俺を見つめた。
「マルタのこと、ダージルさんはどう思っているんですか?」
「……マルタ?」
途端に、俺の心の奥から何かモヤモヤしたものが沸き上がってきた。
先程のマルタの様子を思い出すと、酷く苦しく感じるのは何故だろう。
俺は心の中に渦巻くものを、茜に悟られないように、なんでもない風を装って当たり障りのないことを言った。
「あいつは、一生懸命でいいやつだよ。なんでも解毒出来るっていう、すげえもんも持っている。きっとこれから先、あいつはこの国にとってなくてはならないやつになるだろうな」
「そうですか……」
茜は俺の言葉を聞くと、表情を曇らせた。
おそらく茜が期待していたような答えじゃなかったんだろう。
俺は挨拶をすると、背中に茜の視線を感じながら、家路についた。
月が青白く照らしている道を、ゆっくりと歩いていく。
ホウ、ホウと何かの鳥が鳴いている。
暗く静まり返った王城には、俺の気を紛らわしてくれるものは見当たらず、体の中を渦巻く正体不明の感情を持て余していた。
思わず通りがかった柱により掛かる。
石の柱はひんやりとしていて、俺の火照った体を程よく冷やしてくれた。
ふと城の中庭を見ると、そこには紅葉したアッシュの木が植えられていて、鈴なりに生った赤い実が、あの日の様に風に揺れていた。
『幸せになる呪いをかけるわ』
居なくなってしまった嘗ての女房の声が、脳裏に響く。
アンナが死んでから、17年だ。アンナの言うとおり、彼女の死後、俺には沢山の縁談が舞い込んできた。けれどもどうしても乗り気になれなくて、適当な理由をつけて断ってきた。家督も弟に譲り、結婚しなくても問題がないように色々と調整してきた。それは、アンナ以上に愛せそうな相手がいなかったからだ。
騎士団長という立場から考えれば、結婚はするべきなのだろう。
けれど、ふと事あるごとに思い出すアンナの呪いの言葉。
『本当に好きな人を見つけて』
そういう意味では、あのアンナの呪いは俺に確実に影響を及ぼしていたのかもしれない。
茜に言った言葉は、その場しのぎの嘘ではない。マルタは本当に、良いやつだ。健気で、気がきいて、いい顔で笑う。俺がちょっと声を掛けるだけで、ちょっと気を使ってやるだけで、本当に嬉しそうに、蕩けそうな笑みを浮かべるのだ。
「……はあ」
自分の胸に手を当てる。どくどくと激しく脈打つそれに気がつくと、みるみるうちに顔が熱くなってきた。どうして、あいつのことを思い出すと、胸が激しく鼓動するのか、まったく理解できない。……いや、したくない。
「だああああああああ! 悪酔いしたんだ! 生魚なんて食ったから、とち狂ったんだ! たまたまだ! 絶対にありえねえ! 畜生!」
俺は自分の中の鬱憤を発散させるように、夜空に向かって叫び、家に帰ったら飲み直すことを心に決めて、ドスドスと乱暴に地面を踏みしめながら家路を急いだ。




