第二話 幼なじみは朝から騒がしい
2026/07/02に投稿した『起きてください、しろさん』の続きです
感想などぜひお願いします
リビングでは、柱時計が七時二十分を知らせている。その柱時計を見ながら、湊は食卓でしろとともにトーストを頬張っていた。
「……ご主人。」
紅茶を一口飲んで、しろが口を開いた。
「はい?」
「……ジャム、取っていただけますか。」
「あ、はい」
テーブルの端にあった瓶を手渡す。しろが厳選した無添加のおいしいジャムだ。
「ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
静寂。この沈黙を、湊は嫌いではなかった。言葉がなくても落ち着ける。そんな朝の時間だった。
――ピンポーン。
その静けさを壊すように、インターホンが鳴った。湊は時計を見る。
「……この時間に?」
来客の予定はない。宅配にしては少し早い。というかそもそも頼んだ覚えはない。首を傾げながら立ち上がろうとすると、
「……私が出ます。」
しろが静かに席を立った。
「お願いします」
コツコツ、と廊下を歩く足音が遠ざかる。
数秒後。
玄関の方から、聞き慣れた元気な声が響いた。
「あ!しろさん! おはようございます!」
その瞬間、湊は「ああ」と苦笑する。ドタドタと廊下を駆ける足音。そして勢いよくリビングの扉が開いた。
「湊ー!」
「ひまり。おはよう」
「おはよう!」
九条ひまり。
湊の幼なじみであり、家もすぐ近所。朝から(いい意味で)鬱陶しいくらい元気いっぱいの少女だ。肩の位置で切りそろえた茶色の髪を揺らしながら、制服姿のままリビングへ飛び込んでくる。
「もう! またギリギリまで寝てたでしょ?」
「寝てないよ」
「ほんとかなぁ?」
「今日はちゃんと起きてた。」
「今日、は?」
ひまりが目を細める。
「つまり?昨日までは?寝坊してたってことですかぁ?」
「う」
「図星だー!」
湊は視線を逸らした。確かに昨日は、しろを起こすのに手間取って、自分も少し準備が遅れた。その様子を見ていたしろが、小さく口を開く。
「……僭越ながらご主人は悪くありません。」
「え?」
「……私があと五分と言いました。」
「言いましたね」
「……反省しています。」
「本当ですか?」
「……たぶん。」
「『たぶん』なんですねぇ。」
湊が肩を落とすと、ひまりは思わず吹き出した。
「あははっ!」
「しろさん、ほんっと面白い!」
「……そうでしょうか。」
「うん!」
ひまりは遠慮なく食卓へ近寄る。
「ねぇねぇ、今日は何食べてるの?」
「……トースト、です。」
「いいなぁ!」
テーブルを覗き込んだひまりの目が丸くなる。
「えっ、豪華!」
ホテルの朝食のような食卓。
綺麗に盛り付けられたサラダ。
焼き加減が完璧なベーコン。
湯気を立てるスクランブルエッグ。
そして香り高い紅茶。
「毎日これなの?」
「いや知ってるだろ」
「ずるい!」
「ずるくないよ」
「ずるいよ!」
ひまりは頬を膨らませる。
「うちなんて今朝、食パン焼いただけだもん!」
「一緒じゃん」
「一緒じゃなーい!!!」
すると。
しろが静かに立ち上がった。
「……ひまりさま。」
「ん?」
「……トーストでしたら、もう一枚あります。」
「えっ?」
「……よろしければ食べられますか。」
ひまりは目を輝かせた。
「いいの!?」
「はい」
「ホントに?」
「はい」
「やったー!」
湊は苦笑する。
「ひまり……もう朝ご飯食べたんじゃないの?」
「食べたよ!」
「じゃあなんで」
「別腹!」
「まじかよ」
元気よく親指を立てるひまり。その勢いに、湊は笑うしかなかった。一方、しろは追加のトーストを皿へ乗せながら、小さく呟く。
「……育ち盛りですね。」
「現役JK舐めてもらっちゃ困るよ!」
ひまりは満面の笑みで頷いた。静かだった朝の食卓は、いつの間にか笑い声でいっぱいになっていた。湊はそんな光景をふと眺めながら思う。
賑やかな朝も、悪くない。
そう思えるようになったのは、きっとこの幼なじみと――。そして、目を輝かせているひまりの前にお皿を置く、少し変わったメイドのおかげなのだろう。こんがりと焼き上がったトーストが、おいしそうに湯気を立てている。
「……どうぞ。」
「ありがとうございます!」
ひまりは満面の笑みで手を合わせた。
「いただきまーす!」
一口かじる。
サクッという軽い音とともに、バターの香りがふわりと広がる。
「ん~~!」
思わず頬を押さえる。
「おいしい!おいしすぎる!」
「……ありがとうございます。」
しろは相変わらず表情を変えない。けれど、その声はほんの少しだけ柔らかかった。湊はその様子を見て、小さく笑う。しろは褒められることに慣れていない。「ありがとうございます」と返すだけだが、料理を褒められると少しだけ機嫌が良くなることを、湊は知っていた。
「しろさん!」
ひまりは興奮した様子で身を乗り出す。
「これ、本当にお店開けますよ!」
「……面倒なので開くつもりはございません。」
「即答!?」
「……早起きも、しないといけませんし。」
「やっぱりそこなんだ!」
湊が吹き出す。
「料理じゃなくて営業したくないのが理由なんですね。」
「……朝は眠いので。」
「毎日言ってますしね。」
「……毎日眠いので。」
「説得力があるような、ないような……」
「ないでしょ」
三人の間に笑いが広がる。
そんな何気ない時間が、朝比奈家では当たり前になっていた。
◇
「そういえばさ。」
トーストを食べ終えたひまりが、紅茶を飲みながら思い出したように言った。
「今日って数学の小テストあったよね?」
「あるね」
「ですよね!やばい!」
「昨日ちゃんと勉強したか?」
「してない!」
堂々と。
「だって忘れてたんだもん!」
湊は呆れたように息をつく。
「昨日、『帰ったら勉強する』って言ってたよね」
「……ハイ。」
「……なのにしてないの?」
「気付いたら寝てた!」
「しろさんみたいなこと言わないで」
その一言に、しろが静かに視線を上げた。
「……私は毎日でございます。」
「誇らしげに言わないでください。」
「……事実ですので。」
ひまりは笑いを堪えきれず、テーブルに突っ伏した。
「あはははっ!」
「もう、この家ほんっと好き!」
しろは首をかしげる。
「……そうなのですか?」
「うん!」
「来るたび楽しいもん!」
「……ありがとうございます。」
淡々と返事をしながらも、しろは空になった皿を重ねていく。その手際は相変わらず見事だった。食器同士がぶつかる音すらほとんどしない。
「ほんと器用だよねぇ~」
ひまりが感心したように言う。
「料理も掃除も洗濯も全部できるし。お嫁さんにほしい!」
「……僭越ながら。」
「勝手に連れて行くな。」
しかし湊もしろには感心しているようで。
「昨日なんて、学校から帰ったら庭まで全部手入れ終わってたからな。」
「えっ!」
ひまりは驚いてしろを見る。
「朝やったんですか?」
「……はい。」
「何時間くらい?」
「……一時間ほど、です。」
「えぇっ!?」
ひまりの目が丸くなる。
「こんな広い屋敷を!?」
「……はい。」
「『……はい。』じゃないよ!」
「プロでもそんなに早く終わらないって!」
しろは少しだけ考え込む。
「……慣れていますので。」
それだけ言って、何事もなかったようにティーカップを洗い始めた。湊は苦笑する。これがしろだ。自分にとって当たり前のことは、どれだけ凄くても「普通」と言ってしまう。昔から変わらない。
◇
食事を終え、湊は時計を見た。
「そろそろ行こうか」
「そうだね」
ひまりも勢いよく立ち上がる。当然通学路は一緒だ。二人で登校するのも、昔からの日課だった。玄関へ向かう途中、しろも後ろからついてくる。重厚な玄関扉を開けると、春風が頬を撫でた。庭の花々が朝日に照らされ、鮮やかに色づいている。ひまりは大きく背伸びをした。
「いい天気!」
「そうだな」
靴を履いた湊が振り返る。
「しろさん。」
「……はい。」
「家をお願いします。あと、今日も休みながらでいいですから無理はしないでくださいね。」
「……承知しました。」
「あと」
湊はじっとしろを見る。
「ソファじゃなくて寝るならベッドで寝てください。」
一瞬の沈黙。
「……努力します。」
「昨日も聞きました」
「……善処します。」
「後退してるじゃないですか」
「……難しいです。」
「難しくないですよ」
ひまりが思わず笑い出す。
「もー夫婦みたい!」
「ブフッ!」
湊が盛大にむせた。
「な、何言って……!?」
「だって毎朝こんな会話してるしー」
「してるけども!」
「夫婦じゃない!」
慌てる湊とは対照的に、しろは首をかしげるだけだった。
「……夫婦、ですか。」
「違いますよ!」
湊とひまりの声がきれいに重なる。しろは数秒考えたあと、小さく頷いた。
「……失礼しました。」
その表情はいつも通り無表情。本当に分かったのかどうかは、誰にも分からなかった。
「それじゃ、行ってきます!」
「……行ってらっしゃいませ、ご主人。」
「ひまりさまも、行ってらっしゃいませ。」
「行ってきます」
「行ってきまーす!」
二人の高校生が並んで坂道を下り始める。その背中が見えなくなるまで、しろは玄関先で静かに見送っていた。やがて姿が見えなくなると、小さく息をつく。誰もいなくなった屋敷は、また静けさを取り戻す。しろは屋敷の中へ戻り、エプロンをゆっくりと、しかしながらしっかりと、締め直した。
「……さて、仕事終わらせるか」
◇
まず向かったのはリビングだった。
朝食の食器はすでに洗い終えている。テーブルクロスに小さなパンくずが落ちているのを見つけると、指先でつまみ、クロスを外して新しいものへ取り替える。ソファのクッションを軽く叩き、形を整える。
「ご主人、教科書忘れてんな……?」
昨夜、宿題をしたまま忘れていたのだろうか、テーブルの端には無機質な文字で『数学ⅡBC』と書かれた教科書が一つ。しろは表紙を軽く払うと、湊の部屋へ持っていくことにした。
「帰ってきて探すかも」
二階へ上がる。湊の部屋はきちんと整理されている。ベッドは整えられ、本棚も几帳面に並んでいる。
「相変わらず真面目だなぁ」
机の上へ教科書を置き、窓を開ける。春の風がカーテンを揺らした。布団を軽く持ち上げ、湿気を逃がす。
「今日は干せそう」
そう決めると、シーツを外して一階へ降りた。
◇
洗濯機を回している間に掃除を進める。広い廊下をモップで磨き上げる。窓ガラスを一枚一枚拭く。朝日を浴びたガラスは、まるで何も介していないかのように透き通っていた。
「……よし。」
廊下の角。ほんの少しだけ埃が溜まっている。しゃがみ込み、細いブラシで丁寧に掻き出す。普段なら誰も気付かない場所。けれど、しろは見逃さない。元いた屋敷では、そういう場所まで完璧にするのが当たり前だった。
……いや。
当たり前に"させられていた"。
一瞬だけ手が止まる。
「……余計なこと考えるな~」
小さく首を振る。昔のことは昔のこと。今は今だ。
掃除を終えたリビングには、朝日が気持ちよく差し込んでいる。満足げに頷いた。
◇
洗濯が終わる。大きな籠を抱え、庭へ出る。春の日差しは暖かく、洗濯日和だった。シーツを広げる。シャツを伸ばす。制服はしわにならないよう丁寧に。靴下は大きさ、色ごとに揃える。
「ご主人、また……」
くすり、と笑う。
ぱん、とシーツを一度大きく振る。風を受け、真っ白な布が大きく膨らんだ。
「今日はよく乾きそう」
庭を見渡す。花壇のパンジーが少し元気をなくしている。
「水足りなかったかな……?」
ホースを持ち、水をやる。乾いた土がゆっくりと色を変えていく。花びらについた水滴が朝日に反射してきらりと光った。伸びすぎた枝を少しだけ剪定して、雑草を抜き、落ち葉を集める。庭まで終えても、時計はまだ九時半を指していた。
「……まだ早いなぁ」
しろは大あくびをひとつ。
◇
屋敷の中へ戻り、エプロンのポケットから小さなメモ帳を取り出した。冷蔵庫を開け、中身を確認する。
「牛乳は……あとちょっと。」
「卵も少ない。」
「玉ねぎも買っとこうかな。」
さらさらとメモを書き込んでいく。今日の夕飯は何にしようか。湊はハンバーグが好きだった。でも昨日は肉料理。
「今日は魚かなぁ」
冷凍庫を見る。
「……鮭ある」
献立はすぐに決まった。
鮭のムニエル。
コンソメスープ。
ポテトサラダ。
季節の野菜。
「これでいいか」
昼のうちに下ごしらえだけ済ませておこう。玉ねぎを刻み、じゃがいもを茹でる。鮭には軽く塩を振って冷蔵庫へ。ここまでやっておけば、夕方にはすぐ完成する。時計を見る。
十時二十分。
「……終わった。」
広い屋敷を見回す。廊下は磨かれ、窓は光り、洗濯物は風に揺れ、夕飯の下準備まで済んでいる。やるべきことは、もう何もない。
「我ながら頑張ったな」
誰に言うでもなく呟く。そして、そのままリビングへ戻った。ソファの前で立ち止まり、数秒考える。
「……寝よ。」
毛布を引き寄せ、クッションを抱える。ふかふかのソファへ身体を預けた。
「ご主人に言われたけど……ま、いっか」
目を閉じる。
春風がカーテンを揺らし、暖かな陽射しが部屋を包む。
「…………」
三十秒も経たないうちに、小さな寝息が聞こえ始めた。広い朝比奈家は、また静かな時間を取り戻す。
だがその頃。
学校へ向かった湊たちの周りでは、今日もまた賑やかな一日が始まっていた。
これから不定期で更新していこうと思います。よろしくお願いします。




