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手をつなぐ理由  作者: リンダ


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それぞれの朝


 第18話


それぞれの朝


 朝は、残酷なくらい同じ形で来る。


 前の日に何があったとしても、目覚ましは同じ音で鳴るし、カーテンの隙間から差す光も大きくは変わらない。

 台所では湯が沸き、ニュースでは似たような天気予報が流れ、駅前のロータリーにはいつもの時間にバスが入ってくる。


 でも、人の内側だけは前の日のままではいられない。


 昨日、謝った者。

 昨日、怒鳴った者。

 昨日、声を上げた者。

 昨日、かばわれた者。


 みんな違う朝を迎えていた。



1.黒川大河の朝


 黒川大河は、目覚ましが鳴る前に起きていた。


 暗い天井を見上げながら、布団の中でしばらく動けなかった。

 眠れていなかったわけではない。何度か目が覚めたが、最終的には少し寝たはずだ。けれど、頭の中だけがずっと昨日の教室にいた。


 本当に申し訳なかった。


 自分がそう言った時の、三浦隆の顔。

 “うん”とだけ返ってきた声。

 赦されたとも、拒絶されたとも取れない、あの短い返事。


 それが今も胸の中に残っている。


 謝った。

 それは逃げずに言えたと思う。

 でも、だから何だという気持ちもある。


 謝ったからといって、自分がやっていたことが軽くなるわけじゃない。

 言葉は口から出た瞬間に、もう相手の中へ入ってしまっている。


 しかも、相原とのやり取りも頭から離れなかった。


 最初お前だって笑ってただろ。


 それは本当だった。

 黒川はそれを否定できない。


 最初から悪意だけだったわけじゃない。

 でも、“悪意だけじゃなかった”ことは、免罪符にならない。


 むしろ、その軽さこそが怖いのだと、天庄屋の講話と、白石ひなたの言葉と、三浦の顔が、全部別々の角度から突きつけてくる。


 階段の下から母親の声がした。


「大河、起きてる?」


「……起きてる」


 声が少し掠れた。


 起き上がって、顔を洗う。

 鏡を見る。


 昨日までと同じ顔なのに、どこか違う。

 いや、違うのは顔じゃなく、自分の見方の方なのかもしれなかった。


 食卓に着くと、父親が新聞を読んでいた。

 母親は味噌汁を置きながら、何気ないふうに聞いた。


「眠かった?」


「まあ」


「なんか、顔疲れてるよ」


「別に」


 そう答えたものの、母親は少しだけ眉を寄せた。

 だが、それ以上は聞かなかった。


 黒川は、ご飯を口に運びながら、思う。


 もし今、母親に「学校でどんなことしてるの」と聞かれたら、自分は昨日のことを胸を張って言えるだろうか。


 答えは、たぶん出ない。


 白石ひなたの言葉は、朝の食卓にまでついてきていた。


 自分の子どもに、今やってることを胸張って言える?


 それが、冗談ではなく本当に問いとして残っている。

 だから黒川は、その朝、食べ終わるまで一度も目を上げられなかった。



2.相原圭吾の朝


 相原圭吾の朝は、もっとひどかった。


 ほとんど眠れなかった。

 母親が言ったことが、頭の中で何度も繰り返されたからだ。


 昔、自殺未遂したことがある。

 いじめがつらくて。


 それはあまりに現実感がなかった。


 母親が。

 あの、いつも当たり前に台所にいて、学校のプリントに目を通して、夕飯の時にくだらない話をしてくる母親が。


 自殺未遂。


 昨夜は、にわかには信じられなかった。

 でも、その“信じられなさ”自体が、どこかで本当だと分かっている時の感覚でもあった。


 朝、目が覚めると同時にスマホを手に取っていた。


 検索窓に、しばらく何を入れればいいのか分からなかった。

 でも、指が勝手に打っていた。


 いじめ 被害者 体験談


 検索結果が並ぶ。


 ニュース記事。

 支援団体のページ。

 保護者の手記。

 裁判記録のまとめ。

 学校対応の遅れに関する特集。

 個人ブログ。

 掲示板の書き込み。


 相原は最初、ほんの少しだけ見るつもりだった。

 母親に言われたことを確認したかっただけだ。

 でも、一つ開いた体験談のページから目が離せなくなった。


 「娘を失った母親として」

 そういう題の文章。


 最初の数行を読んだだけで、胃のあたりがざわついた。


 そこには、何気ない陰口から始まり、無視、SNSでのからかい、教科書への落書き、相談しても「様子を見ましょう」で終わった学校の対応、家庭で食欲を失っていく様子が書かれていた。


 そして最後に、娘が帰らなかった日のこと。


 相原は、ページを閉じかけた。

 でも閉じられなかった。


 別の体験談を開く。


 今度は、息子を亡くした父親の手記だった。

 もっと短く、もっと荒れていた。

 怒りと後悔で文がぶつ切りになっている。


 なぜ守れなかったのか。

 あの日もっと学校へ行っていれば。

 笑っていた連中を許せない。


 その言葉は、昨夜、母親が言った“言葉は人の命を奪う凶器にもなる”という一文を、急に現実のものへ変えた。


 さらに読み進める。


 兄弟姉妹を失った子の文章。

 「お兄ちゃんがいなくなったあと、家の中の音が変わった」という一節があった。

 その文章には、守れなかった苦しみや、加害者への憎悪、恨みがそのまま刻まれていた。


 また別のページでは、裁判の記録が出てきた。


 多額の損害賠償。

 判決。

 加害側の家庭が経済的に追い詰められ、家族が崩壊した事例。

 父親が仕事を辞め、家を手放し、兄弟姉妹まで地域で名前を知られて転校した、そんな記述まであった。


 相原は、スマホを持つ手に汗がにじむのを感じた。


 遊びだった。

 そんなつもりじゃなかった。


 昨日まで、自分の中で何度もそう繰り返していた言葉が、いきなり軽薄で恐ろしいものに見え始める。


 もし、自分たちのやっていたことが、もっと先へ進んでいたら。

 もし、本当に誰かの命を奪うところまで行っていたら。


 その時、自分は何と言っていたのか。


 胸の中で、いろんなものが渦巻く。


 天庄屋の話した言葉。

 結菜が怒りを込めて言った言葉。

 母親の過去。

 検索結果に並ぶ体験談。


 どれも今までの自分の外にあったものなのに、今は全部、自分へ向かってくる。


 怖い。

 見たくない。

 でも、もう見なかったことにはできない。


 母親が部屋の外で声をかけた。


「圭吾、起きてる?」


「……起きてる」


 声がうまく出なかった。


「朝ごはん、少しでいいから食べな」


「……うん」


 食卓に下りると、母親はいつも通りに味噌汁をよそっていた。

 父親は何も言わない。

 でも、昨日までとは違う目で自分を見ているのが分かる。


 母親の顔を見た瞬間、昨夜の言葉がまた胸に刺さる。


 この人は、死の手前まで行ったことがある。

 そして自分は、その人の前で“そんな大げさなことじゃない”に近いことを言おうとしていた。


 にわかには信じられない。

 でも、信じられないままでも、その重さは朝の空気にしっかり残っていた。



3.白石ひなたの朝


 白石ひなたは、目覚ましが鳴る少し前に起きた。


 起きた瞬間に思ったのは、“今日は何を言われるだろう”だった。

 自分が三浦をかばったこと。

 “好きで悪い?”と言ったこと。

 さらに、本名で天庄屋へ投稿したこと。


 自分がしたことを後悔してはいない。

 でも、何も怖くないわけでもない。


 教室へ行けば、また何か空気がある。

 女子の中で距離を取られるかもしれない。

 男子がまだ茶化すかもしれない。


 それでも、今日は昨日より少しだけましだった。

 なぜなら、自分がどちら側に立つのかについて、もう迷っていないからだ。


 迷っている時の方が、朝は苦しい。

 立つと決めたあとの方が、別のしんどさはあっても、足は少し動きやすい。


 朝食の席で、母親が「なんか最近、学校のことで考え事してる?」と聞いてきた。

 ひなたは少し迷ってから、「うん、まあ」とだけ答えた。


 全部は話していない。

 でも、全部隠してもいない。


 そういう中途半端な答え方が、今の自分にはちょうどよかった。


 制服に着替え、鏡を見る。


 目が少し強くなっている気がした。

 勘違いかもしれない。

 でも、昨日までと同じではないのは確かだった。



4.浅井結菜の朝


 結菜は、朝から少し胃が重かった。


 昨日、本気で怒った。

 相原に向かって、クラスメイトから本気で怒ってもらえるうちが花だと思え、と言った。


 あの時の自分は、たしかに本気だった。

 でも、言ったあとで自分でも少し怖くなった。


 あんな顔、自分でも初めて見た。

 ひなたみたいに、前から覚悟を持って立っていたわけではない。

 どちらかといえば、怖いから流されてしまう側だったのに。


 でも、だからこそ、あそこで怒らなければ自分が自分をもっと嫌いになる気がした。


 朝の洗面所で歯を磨きながら、鏡越しに自分を見る。


 相原は今日どうするだろう。

 また荒れるのか。

 それとも黙るのか。


 どちらにしても、自分はもう前の位置には戻れない。

 でもそれは、不思議と嫌ではなかった。


 怖い。

 でも、嫌じゃない。


 その感覚は、結菜にとって新しかった。



5.柴田蓮斗の朝


 柴田蓮斗は、前の日の夜、珍しく父親と長く話した。


 「最近、なんか顔つき違うな」と言われて、ぽつりぽつりと学校の空気の話をしたのだ。

 全部ではない。

 でも、“誰かを笑いものにして、見て見ぬふりしてたのが嫌になった”というところだけは言った。


 父親は、しばらく黙ってから言った。


 「それに気づいたなら、もう戻るな」


 その短い一言が、思いのほか残った。


 朝、家を出るとき、柴田はその言葉を思い出していた。


 もう戻るな。

 流される側へ、笑う側へ、都合のいい曖昧さへ。


 それは簡単なようで、実は難しい。

 教室の中では、“戻る”方がずっと楽だからだ。


 でも今日は、結菜の顔が頭に浮かんだ。

 昨日、本気で相原に怒っていた顔。


 あそこまで本気で言える人がいるなら、自分もまた曖昧な側へは戻れないと思った。



6.隆の朝


 隆の朝は、これまでより少しだけ違っていた。


 怖いのは変わらない。

 教室へ入る前の胃の重さも、まだある。

 相原がどういう顔で来るのかも分からない。

 黒川の謝罪をどう受け止めればいいのかも、まだ整理はついていない。


 でも、それでも前と違う。


 天庄屋の講話。

 黒川の謝罪。

 結菜の怒り。

 ひなたや柴田の立ち方。


 全部が、自分の中でまだ整理しきれないまま積み重なっている。

 けれど、その積み重なりは、“怖さしかない教室”を少しだけ別の場所へ変え始めていた。


 実里が、味噌汁を置きながら聞く。


「今日、行けそう?」


 前なら、その問いだけで喉が詰まったかもしれない。

 でも今日は、少し考えてから言えた。


「……怖いけど、行く」


 その返事を聞いて、なぎさがすぐに口を挟む。


「それでいいんだよ」


「お前が言うな」


「言うよ」


 正康が新聞の向こうで、小さく口元を緩めた。


 怖いけど、行く。


 それは立派な決意でもなんでもない。

 でも今の隆にとっては、それだけで十分大きかった。



7.教室へ向かうそれぞれ


 その朝、二年二組へ向かう廊下には、別々の気持ちを抱えた子どもたちが歩いていた。


 黒川は謝ったあと初めての朝を、重い胸のまま歩いている。

 相原は母親の過去と検索で読んだ体験談の重さを抱えている。

 白石は“声を上げた側”として見られることの怖さを知りながら、それでも前を向いている。

 結菜は怒った自分を少し怖がりながらも、その怒りをなかったことにはしたくないと思っている。

 柴田は、もう曖昧な場所へは戻らないと決めている。

 隆は、怖さを抱えたまま、それでも前とは違う朝を歩いている。


 同じ廊下。

 同じ朝。

 でも、だれ一人として昨日までと同じではなかった。


 教室のドアは、相変わらずただの引き戸だった。

 でも、その向こうにはもう、“ただのいつもの一日”は待っていない。


 痛みのあと。

 問いのあと。

 謝罪のあと。

 赦しの前。


 その途中にある教室へ、彼らはそれぞれの足で向かっていく。



 この朝を越えた先で、二年二組はさらに小さな対話と、小さな軋みを重ねていくことになる。

 元には戻らない。

 でも、戻らないまま進む道もある。


 それを、子どもたちはまだうまく言葉にできない。

 けれど、その最初の朝だけは、確かに始まっていた。



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