33 ★描くんだ、俺の命の形を
――極限まで圧縮した時間の中。
「……ぁ……」
突き飛ばされたシエルが、深淵のように暗い瞳の奥で、空中に鮮血を撒き散らす俺の姿を捉える。
半身を丸ごと抉り取られ、スローモーションのように宙へ散っていく血飛沫と臓物。
「……あ……ゆむ……?」
――ピシリ、と。
虚無に沈んでいた彼女の瞳にヒビが入り、確かな理性の光が戻った。
半身を失い、まさに絶命しようとしている俺の姿。
自分が庇われたこと、そしてその代償を理解した瞬間――。
「あゆむーーーーーーーーッ!!!!!!」
悲痛な絶叫が、獅子宮に響き渡った。
力なく虚空へと落下しはじめた俺の身体を、シエルが一条の光となって追いすがり、その腕で強く、きつく抱きとめた。
「死なすものかッ!!」
シエルの全身から、黄金のエーテルが激しく噴き上がる。
彼女は俺を抱きしめたまま、自身の高密度なエーテルを、えぐり取られた俺の左半身の断面へと強引にねじ込んだ。
噴出する血と千切れた血管を極薄のエーテルの膜で塞ぎ、こぼれ落ちる命を力業で『一時停止』させる。
それは、落下しながらの刹那で行われた、執念の応急処置だった。
だが、それがほんの僅かな時間稼ぎにしかならないことは、シエル自身が一番痛感していた。
それは怒り。それは悲しみ。
シエルの全身から噴き上がる黄金のエーテルが、臨界点すらも突破して暴走を始める。
周囲の空間が悲鳴を上げるように歪み、重力異常を起こしたマグマの海が滝のように天へと逆流していく。
「ああああああぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーッ!!!!!」
魂の底からの慟哭。
シエルから放たれた黄金の衝撃波は、もはや魔法の枠組みを超えた『純粋な破壊の奔流』だった。
ズガァァァァァァァァァァンーーーッ!!!!
空間そのものを捩じ伏せるような奔流が、魔王の巨体を直撃する。
絶対的な存在であったはずの魔王――その漆黒の外殻が砕け散った。
そのまま巨体は大きく吹き飛ばされ、溶岩の大地を激しく抉りながら後方へと叩き伏せられた。
やがて、土煙を払うようにして魔王がゆっくりと立ち上がった。
己の砕けた肉体に視線を落とした絶対者は、怒り狂うどころか、修羅のごときオーラを纏うシエルに魅入られたようにその巨体を静止させる。
その瞳に浮かんでいたのは、紛れもない歓喜の色だった。
『……そこに、いたか』
シエルを深く見据えると、魔王は何かに満足したように静かに背を向けた。
そして自らの腕で空間を引き裂くと、黄金の亀裂の奥へと姿を消していった。
――脅威は去った。
だが、シエルにとってそんなことはどうでもよかった。
彼女は俺を抱えたまま溶岩の大地へ降り立つと、崩れ落ちるように膝をつき、血に染まった俺の身体へとすがりついた。
「あゆむ! あゆむッ!!」
シエルが何かを叫んでいる。――けれど、もう何も聞こえない。
俺の意識はすでに遠のき、思考を重い暗黒が覆ってゆく。
ごめん……母さん……。約束守れなかった……。
「死なせん……! わしを置いて逝くなど、絶対に許さんぞッ!!」
シエルは躊躇することなく、俺の抉り取られた左胸の空洞に、両手を突っ込んだ。
そして、自らの高密度な黄金のエーテルを、俺の体内に直接流し込み始めた。
先ほどの応急処置では足りない。千切れた血管をエーテルで強引に繋ぎ、シエル自身の手と魔力をポンプ代わりにして、失われた心臓の代わりに血液を強制的に循環させるのだ。
それは、こぼれ落ちる命を彼女の全霊で塞ぎ止めるような、常軌を逸した生命維持だった。
「……カハッ……! ぁ……」
脳に血が巡り、俺はわずかに意識を取り戻した。
「聞け、あゆむ! わしのエーテルで無理やり血を回しておるが、この状態を維持できるのはもって『数分』じゃ! それ以上はぬしの肉体が耐えられん!」
「……シ……エル……」
「描け!! ぬしの右腕はまだ残っておろうが! 己の『心臓』を描くのじゃ!!」
心臓を、描く……?
俺は霞む意識の中で、右手に握られたままの『宇宙色の万年筆』を感じた。
だが……。
「……無、理だ……」
「わしを信じよ! ぬしなら出来る! あゆむなら絶対に描ける!!」
シエルが涙を流しながら叫んでいる。
……こいつでも泣くんだな。
「もう時間がないんじゃ!! はよ描かんかーーーッ!!!!!」
大粒の涙をボロボロと流しながら、悲痛に叫ぶシエルの顔が少しおかしくて。
俺は思わず、笑みをこぼした。
そして、最後の覚悟を決める。
――描くんだ。俺の、命の形を。
残り120秒。
俺は薄れゆく意識の中、最後の精神力を振り絞り、痙攣する右手で宇宙色の万年筆を虚空へと構えた。
もう息はしていない。
俺は意識を集中し、右腕の痙攣を止めた。
この真っ白な世界は、俺だけのものだ。
俺だけの、無限のキャンバスだ。
細部まで丁寧に描き込んでいる時間はない。
筆致が荒くても、魂を込めて。
その一筆に確かな命が宿るように。
動脈。静脈。
右心房。左心房。
右心室。左心室。
肺動脈弁。大動脈弁。
三尖弁。僧帽弁。
複雑な心臓の構造を、俺の持つすべての画力と解剖学の知識を総動員して、刻み込んでいく。
残り30秒。
血が足りない。視界が掠れる。
だが、俺の筆は止まらない。
シエルの両の腕から流れてくるエーテルが、俺に力をくれる。
シエルの流してくれた涙が、俺に勇気をくれる。
残り5秒。
最後の線が繋がり、それは虚空に浮かび上がった。
「――描け……ぜ……」
荒削りながらも力強い魂がこもった、白黒の『心臓』。
「――よくやった。流石はわしのバディじゃ」
涙で頬を濡らしたシエルが、心底誇らしげに微笑んだ。
「これより、わしの『魂の一部』を切り離し、この心臓に定着させる。わしの魂を核として、『真名』を持たせる!」
シエルは血に染まった両手で俺の頬を優しく包み込むと、祈るように自身の額を、俺の額へと静かに重ね合わせた。
『波束を断ち、象を成せ! 我が魂を切り裂き、その空白を埋める鼓動と化せ!』
シエルの身体から黄金の光が溢れ出し、虚空の心臓へと注ぎ込まれていく。
『――収束せよ、我が半身たる魂よッ!!』
霞む視界の中、シエルの涙が俺の顔に零れ落ちてくる。
シエルの命の温度が伝わってくる。
『其が真名は【神格義体】ッ!!!!』
白黒だった心臓が、鮮やかな蒼い色彩と、黄金の脈動を帯びて実体化した。
シエルがそれを両手で包み、俺の左胸の空洞へと迷いなく埋め込んだ。
ドクン……ッ!
――鼓動が、跳ねた。
シエルの魂の一部を宿した新たな心臓が、俺の肉体と繋がり、力強く血液を全身へと送り出し始めた。
ドクンッ! ドクンッ! ドクンッ! ドクンッ!
蒼いエーテルの奔流が光の繭となって、俺の失われた半身を包み込む。
砕け散った骨が光の糸によって紡がれ、失われた内臓と筋肉が、脈動に呼応するように編み上げられてゆく。
それは、死という絶対の理すらも捻じ伏せる、奇跡のような再生だった。
「……ガハッ! ハァッ……! ハァッ……!」
肺に空気が流れ込み、呼吸が戻る。全身の神経が繋がり直したような、強烈な痛みが襲ってくる。
やがて視界がクリアになると、目を真っ赤にしたシエルが、俺の顔を覗き込んでいた。
「……あゆむ……」
口の中の血が乾いており、うまく声が出せない。だが――
「……これからも、一緒だな……シエル」
俺がかすかに微笑みかけると、シエルは顔をくしゃくしゃにして、俺の胸へと泣き崩れた。
その時、俺たちを包み込むように、天空から一筋のまばゆい光が降り注いだ。
魔王が去ったことで、『テリトリー』が解除されたのだ。
マナフレアの転送光が、俺たちを優しく包み込む。
死地からの帰還。
俺の左胸には、シエルと繋がった新しい命が力強く脈打っている。
この鼓動と共に、俺たちは光の彼方――地上へと帰還を果たした。




