0 恋に落ちた瞬間
花粉症気味なので、この時期のポケットティッシュは助かる。
——そんな軽い気持ちで受け取ったが最後、しつこく引き留めて来る目の前の女性に対して、私は困り果てていた。
場所は駅前のロータリー。
人通りは多いのに、なるほど誰もティッシュを受け取っていなかったわけだ。
「お使いのプランより、絶対に当社のプランの方がお得です!」
どうやらスマホの通信会社の営業だったらしく、大丈夫です、と言って立ち去ろうとしても、追いかけて来て隣に並び、乗り換えを提案してくる。
立ち去ろうとしているのに、ついてくる人は初めてだ。
ぎこちない笑みを浮かべながら、もう一度断りの文句を口にしようとした時、ふいに背後から声を掛けられた。
「……姉ちゃん、何してんの?」
くるりと振り返れば、近くの中学の学ランを着た背の高い少年が、怪訝そうな目で私たちを見下ろしていた。
私は一人っ子なので、無論、知らない子だ。
人違いかな。
そう思った瞬間、少年はポケットに突っ込んでいた右手を出して、私の手首を掴んだ。
「え?」
驚いて、思わず間抜けな声が出る。
「早く帰ろう」
少年は私の反応を気にする様子もなくそう言うと、そのまま私の手を引いてずんずんと歩き出した。
戸惑いながらも腕を引かれるままに歩きながら、そっと背後を振り返る。さっきまであんなにしつこかった女性が、すんなりと諦めて立ち去って行くのが見えた。
そのまま数メートル進み、女性から離れたところで、私は少年の背中におずおずと声を掛けた。
「あの。——私、あなたのお姉さんじゃない、です、よ?」
「分かってますよ」
立ち止まった少年は、私の手首を離して振り返った。
切れ長の涼やかな瞳が、じっと私を見下ろしてくる。その瞳に少し呆れが浮かんでいるように見えるのは、多分気のせいではないのだろう。
考えてみれば当然だった。
普通は、身内と他人を見間違えたりはしない。
——と言うことは、もしかして弟のふりをして助けてくれたということ?
鈍い私はやっとそう思い至って、慌てて頭を下げた。
「もしかして、助けてくれた、の? ありがとうございます」
なんてしっかりした中学生なんだろう……と感心しながら見上げていると、少年はほんの少しだけ呆れを含んだ声音で言った。
「ああいうしつこいセールスは、まともに相手しないで無視した方がいいですよ」
「そ、そうですよね」
確かに、どうせ契約するつもりがないのなら、無視してしまった方が相手にとっても良かったのかもしれない。
私はぺこぺこと頭を下げる。
「すみません」
「いや、俺に謝る必要は無いですけど……」
彼はちょっと困惑したようにそう言って、それからちらりと私の右手に握られたポケットティッシュに視線を遣った。
もしかして、彼も花粉症だったりする?
ティッシュ、欲しいのかな。
せっかく手に入れた物ではあるけれど、さっきのしつこいセールスから逃げ出せたのは彼のおかげだ。
つまり、戦利品は彼の手に渡って然るべきものかもしれない。
私はそう考えて、そっと両手でティッシュを差し出した。
「あの……、お納め下さい」
おずおずと差し出したティッシュを見下ろして、少年は不思議そうに瞳を瞬いた。
「は? 要りませんけど」
「えっ」
「え?」
ポケットティッシュなんて、全人類が欲しいアイテムのはず。
そんなまさか、と思って聞き返すと、少しだけ眉根を寄せて、わずかに怪訝そうな顔をして問い返される。
なんでそんな不審なものを見るような目で私を見るんだ。
ティッシュを差し出したままの姿勢で戸惑って固まっていると、少年は私の顔を見て、ふっと笑った。
少し冷たい印象を受ける切れ長の瞳が、柔らかく緩められた瞬間、何故だか胸がどきりと高鳴った。
「そんな悲壮な顔して、ティッシュ差し出されても……。いらないんで、自分で使って下さい。じゃあ、俺はこれで」
私の返事も待たずに、彼はそのまま背中を向けて去って行った。
私は——すぐには動き出せなくて、暫くそこに立ち尽くしたまま、彼の後ろ姿を見送っていた。
会話したのは、たったそれだけ。
ほんの数分の出来事だったのに、最後に向けられた笑みが、頭から離れなくて。
心臓の鼓動が、自分でもびっくりするくらいに大きな音を立てていた。
——長渡ひまり、十六歳の春。
恋に落ちる、という感覚を、身をもって知った瞬間だった。
◆
「その中学生のことが好きになっちゃったってこと?」
次の日の休み時間。
誰かに聞いて欲しくてたまらなくて、昨日の話をした私に、未央は胡乱げな視線を向けてきた。
彼女、佐藤未央は私の一番親しい友人だ。高校に入った時に、席が隣だったことをきっかけに仲良くなった。入学と同時に引っ越してきたので知り合いのいなかった私が、未央に一方的に懐いていただけとも言える。
一見とてもクールだけど、実際はとても情に厚くて面倒見の良い未央のことが、私は大好きだ。
「だって、困っていたところに颯爽と現れて、私の腕を掴んで連れ出してくれたんだよ。かっこよくない?」
昨日のことを思い出すと、ついつい顔がニヤけてしまう。でもうっとりと回想する私をよそに、未央はどこか冷めた様子だ。
「困っていたところ、って、ただの携帯会社の営業でしょ? しかも、呼び掛け方『姉ちゃん』って……え、ときめくポイントある? ごめんけど、わからん」
全く共感出来ない、といった様子で、ばっさりと切り捨てられる。
とはいえ、未央は割といつもこんな感じなので、特にめげたりはしない。
一夜明けても未だ興奮は冷めなくて、彼のことを思い出すと心がほわんとあたたかくなってくる。
「咄嗟に知らない名前呼ばれても反応できないだろうと思っての姉ちゃん呼びでしょ? 近くの高校の制服着てるから年上だって瞬時に察して、弟のふりをしてくれる頭の良さも素敵……」
うっとりとそう続ければ、未央ははあ、と気の無い相槌を打った。
「しかも戦利品まで、自分で使って下さいって、私に譲ってくれたんだよ。めっちゃ優しくない?」
「いや別にティッシュ欲しくなかっただけじゃない? ……いやもう駄目だ、何もかも全て恋愛フィルターを通して美化されてる」
ツッコミを投げ出した未央は、でもさあ、と言葉を続けた。
「中学生って。うちら高二だよ? 三年だったとしても二つも下だし、一年だったら四つも下だけど。恋愛対象になる?」
私はうぐ、と言葉に詰まった。
「背も高かったし声も低かったから、一年生ではないと思う」
「仮に三年だったとしてもよ。うちの上の弟と同じ年ってことでしょ? うーーーーん、無い。無いな」
頑張って反論してみたものの、あっさりと一刀両断されて、さすがに私は肩を落とした。未央は五人兄弟の長女だから、余計に年下はありえない、と思うのかもしれない。
ちなみに未央の彼氏は一つ年上で、同じ学校の先輩だったりする。
「そうだよねえ……」
打ちひしがれて机に頬をくっつけるようにして唸る私に、未央が問い掛けてくる。
「そもそも、名前とか連絡先とか聞いたの?」
「聞いてない……」
「じゃあ、もうどうしようもないじゃん」
「仰る通りです……」
未央の言う通りなのだ。
中学生だからどうこう以前に、そもそも連絡先も知らないので、進展のさせようがない。
「まあ、縁があったらまた会えるかもしれないし。一旦忘れな?」
あっさりとした未央の言葉に、私は「うん」と意気消沈しつつ答えた。
未央は、もう会う機会なんて無いと思っているのだろう。正直なところ、私もそう思っていた。
——ところが、彼とは案外すぐに再会することになった。




