23.
「こんにちは」
引き戸を開けて敷居を跨ぐ前に、その人は穏やかな声で挨拶した。
目が合った天愛はすぐに返事を返すこともできずに、数秒の間愛想の良い青年の姿を眺めていたが、慌てた様に立ち上がると思わず頭を下げた。
「こんにちは」
本来ならば店員として「いらっしゃいませ」と言うのが正解なのだろうが、青年がご近所の挨拶の様な気軽な様子で言うものだからついつられ、同じ様に返してしまった後で少し後悔した。
「今日は狐の店主はいらっしゃいますか」
「え、あの……すみません。店の者は今、全員出払ってまして……」
天愛は言いながら自分でもその状況を思い出し、少し青褪めた。希少なお客の対応の仕方など、殆ど全くと言って良いほど分からない。幸い目の前の青年は以前も来たことがある人だったので、合わない辻褄を口で合わせてしまう東雲がいなくとも、何とかなりそうといえば何とかなりそうだが、心許ない。以前は染野がいて、対応は殆ど彼女がしてくれたのだ。
そんな天愛の心情をなんとなく察したかの様に、青年は「そうですか」とあっさりと言うと、店内を物色し始めた。天愛はその様子を眺めつつ、内心ほっとしながらも小首を傾げる。
希少なお客は、何らかの目的や本人が気付かないめぐり合わせにより、違う時間の戸を開くのだという。だとすれば、青年の目的とは何だろうか。
前回は若干の違和感はあるもののスーツ姿だったため現代人の様にも見えたが、着物の上に二重回しを羽織り、カンカン帽を被った今日のその姿はよく言えばレトロ、見る人によってはコスプレと捉えるかもしれない。彼のその格好を見た天愛はやはり希少なお客だったのだと改めて納得した。
以前彼が来店した翌日に八十彦に伝えたのだが、すでに染野が伝えた後だったらしい。「また来られると思うけど、丁重にね」とだけ言われ、天愛が質問する暇もなく居間に引っ込んでしまったのだ。それ以来、中々タイミングが合わず、結局この客人のことは訊けずじまいだった。こうなるのなら、居間に上がりこんででも訊いておくべきだったと後悔が過ぎったが、後の祭りだ。仕方がない。
腰を曲げて硝子戸棚の中に陳列された商品を眺めていた青年に、天愛は勇気を出して「あの」と声を掛けた。青年は顔を上げて天愛と目が合うと、人の良さそうな笑みを浮かべてみせた。その様子に天愛は少し肩の力を抜いた。
「ツヅラハラさん、先日来られた時にお渡し頂いたこれって、何ですか?」
なんとか名前を思い出して、天愛は訊いた。手にしたのは、黒葛原に渡された薄水色のビー玉だった。
黒葛原は彼女の細い指先に摘ままれたそれを目を細めて見つめ、小首を傾げると数秒後には合点がいった様に「ああ」と小さな声を上げた。
「貴方は私に会われたことがあるのですね」
彼が口にしたのは、なんとも可笑しな言葉であった。天愛は既視感で思わず眉を寄せ、目を細めた。彼も日埜の様に双子だとでも言うのだろうか。しかしそれにしても可笑しな言い方である。
「私が、貴女にその硝子玉を?」
「……はい。何が何だか分からずに受け取ったんですけど」
天愛は出来る限り慎重に答える。彼が希少なお客である限り、余り多く話さない方が得策だろう。自分から話しかけておいて、彼女はそう思った。東雲と染野の対応をなんとか思い出しても、彼らも当たりさわりのないことを言っていた気がしたのだ。
「申し訳ありません、今の私には何故私が貴女にそれをお渡ししたのか分かりかねます」
黒葛原青年は申し訳なさそうにそう言うと、店内をぐるりと見渡した。天愛もそれに釣られて同じように見渡すが、特に変わったことはない。
「やはり、この店は一筋縄にはいきませんね。女主人の想いが強すぎる」
天愛はぎょっとして、持っていたビー玉を式板の上に落とした。それは勢い良く転がり、土間へ落ちると黒葛原の足元で止まった。彼はそれを摘まみ上げると、目の前に持ち硝子越しに天愛を見た。
「女主人の想いだけではない。元は持ち主が違う古い物が数ある分、めちゃくちゃな場所になっている」
硝子越しに心の底まで覗かれている様な居心地の悪さを感じ、天愛は思わず青年から目を逸らした。この時には流石に天愛も、彼が普通の希少なお客ではないのではないかと気付き始めていた。寺島少年の時は、まず東雲の姿に驚き、天愛の姿に眉を顰めたのだ。彼がどの時代から来たのかも定かではないが、その姿からすると、天愛の格好は随分と風変わりではしたないものなのではないだろうか。
それに思い至った天愛は、自身の姿を見下ろすと僅かに顔を赤く染めた。いつもの制服姿は彼女にとっては普通のものだが、もし相手に可笑しな格好だと思われると恥ずかしい。特に、黒葛原の様な若い青年ならば尚更だ。けれど、彼はそんな表情をおくびにも出さなかった。
黒葛原は自分がじっと見ていたせいで天愛が恥ずかしがっていると勘違いしたのか、苦笑すると「失礼」と謝り、自然な仕草で天愛の手のひらを上向かせるとその上にそっとビー玉を返した。
その事に天愛はますます顔を赤くさせた。上向かせられる時に手の甲に添えられた手は大きく、明らかに女のものとは違った。壊れ物に触れる様な優しさで触れたその手はすぐに離れたが、顔に篭った熱は冷める気配がない。
天愛はビー玉をぎゅっと握り締めるとその手を膝の上に置き、その甲をもう片方の手で押さえた。俯き髪で顔を隠すと、じっと自身の手を見つめ熱が冷めるのを待ったが、上がる一方だ。
ふと笑う気配がして恐る恐る顔を上げると、青年と目が合ってしまい、天愛は再び勢い良く俯いた。かなり失礼な態度をとってしまったが、赤くなった顔を見られるのは嫌だった。
「驚かせてすみませんでした。今日は出直します。元々、狐の主人に会う為に訪れたので……何故か次も会える気がしないのですが、そればかりは運次第なのでしょうね」
言われて、天愛は古い机の上に置いてあった小さなカレンダーを見た。常連客に店主がいる日取りを訊かれることがあるので、彼が確実にいる日はそこに印を付けている。しかし、希少なお客に伝えても無駄なことなのだろう。そもそも伝えてしまえば、曜日などで辻褄が合わなくなってしまう。ただ、黒葛原は以前も此処へ来て、結局八十彦に会えていないのだ。
「……三日後なら、確実に店主がいる日なんですけど」
これ位は許されるだろうと、天愛は俯き加減のまま言った。
青年が店を出て僅か数分後に、常連客の家へ行っていた東雲が帰ってきた。良いのか悪いのか分からないそのタイミングに、天愛は思わず溜息を吐いて彼を出迎えた。すると東雲は首を傾げて天愛の顔を覗き込んだ。
「あれ、天愛ちゃん顔赤いよ。知らない人でも来た?」
出会った当初の天愛の赤面症を思い出したのだろう。東雲はそれが彼女の人見知りの為のものだと思いそう言ったのだろうが、事のあらましを聞くとにやにやとした顔で彼女を見た。それが異様に鼻につき、天愛はむっとした顔をした。
「いや、ごめん。だってさあ」
「だって、なんですか?」
温度の無い彼女の声に、東雲はにやにや顔をさっと引き締め、真面目な顔で言った。
「天愛ちゃんって、好きだった男の子、今まで何人くらいいた?」
「は?」
「なんか、薔薇色の予感がしない?」
一体何だその言い回しはと、天愛は冷たい目で東雲を見て今度は盛大に溜息を吐いた。
「別にこれはわたしに免疫がないだけで、そういうのじゃないですよ。だって、東雲さんにだって最初は顔が赤くなった位なんですから」
「なに、その言い方。地味に傷付くなあ……まあ、本当にそうならいいんだけどね。だって、叶わないよ」
彼が何を言いたいのか解らずに、天愛は眉根を寄せた。すると東雲は苦笑して小首を傾げてみせた。
「一応予防線として言っておくけどさ、希少なお客さんは、本当にたまたまそのタイミングでこの店にやってくるだけで一期一会の出会いなんだ。彼らが店を出たら、もう二度と会えないと思っておいた方が良い。だからこそ俺達は時間がどうこうという前に、ただの店員とお客。踏み込まない」
「それは解ってるつもりなんですけど、今日の人はまた来る気がします。なんとなくですけど」
「ふうん。あ、その人の名前って黒葛原だったっけ?」
天愛が頷くと、東雲は式台の上で組んでいた足に肘を乗せて頬杖をついた。何かを思い出す様にぐるりと目だけで上を見ると、下の名前はと訊いた。
「確か……モリエさんだったと思います」
変わった名前だったので頭に残っていたのだ。
その名前に心当たりがあったのか、東雲は顔を手で覆うと「あーやっぱり」と唸る様に言った。
「確かに。その人、また来るよ」
それは予想などではなく、核心の篭った声だった。天愛が首を傾げると、東雲は指の隙間から天愛を覗き見た。あれ、と天愛は思う。よく見れば今日来た黒葛原青年と東雲の目元はよく似ている。
「だって、その人俺の知り合いだもん」
まさかよりによってその人なんてなあ、と東雲は独り言の様に呟いたが、天愛はそれどころではなかった。知り合いとはどういうことだろうか。元々彼は以前から希少なお客として度々店にやってきていたのだろうか。慣れた様子で店内を見回り、常連客たちが言う様に彼も店主のことを狐のと言った。彼の場合は、八十彦ではなく違う時代の店主を指しているのかもしれないが。何にしてもあの青年は狐のことも、女主人のことも知っていたのである。
「知り合いって……」
「……ちょっと詳しくは言えないんだけど、親戚なんだよ」
天愛は驚きで固まり、東雲の顔を凝視した。
「前にも来た事があったでしょ? その時に八十彦さんから聞いてびっくりしたんだけど、こうも短期間に来るとはなあ。まあ、でも天愛ちゃんの話を聞いた時もしかしてと思ってたんだけどね。狐のことも女主人のことも知っている人なんてある程度限られてるし、その中で希少なお客として来そうな人なんて更に限られてるからさ」
「でも、親戚って……そういえば、東雲さん前におばあさんが初めての希少なお客だったって言ってましたっけ」
「うわあ、よく覚えてたね」
僅かに目を見開いた東雲に、天愛は呆れた顔をした。まさかそんな荒唐無稽な話を早々に忘れられるはずがない。
八十彦は此処にいる人間に縁がある者が引き寄せられてか、時たまやってくることもあると言っていた。それならば東雲の親戚が来ることは疑問に感じることではないのだろう。しかし、なぜ東雲の親戚筋であるだけの青年が狐や女主人のことを知っているのだろうか。仮に黒葛原が夜渡蓮の常連だったとしたら、霊感の様なものがあれば女主人の姿も狐の姿も視ることができるのかもしれない。それでも彼はそれ以上のことを知っているかの様だった。
「……此処は、女主人の想いが強すぎるから一筋縄ではいかないと言ってました」
天愛が言うと、東雲は天井を仰ぎ見てうーんと唸った。黙ってその様子を天愛が眺めていると、彼は暫くして彼女の方を向き、眉根を寄せた。
「もしかしたら気付いてるかもしんないんだけどさ、俺と八十彦さんって、ちょっと血が繋がってるんだよ……なんだっけ? 再従兄弟?」
「え、それってちょっとと言うか、普通に親戚じゃないですか! どうして言ってくれなかったんですか?」
「そういや言ってなかったっけって、今気付いた。ごめん」
悪びれも無く東雲は言う。天愛ががくりと肩を落とすと、東雲は何かを考える様に口元に手を当て彼女から目を逸らした。何かを迷っている様にその視線は泳ぐ。
「中学生の時に初めてここに来たって、前に言ったじゃん? それも親戚だったからで、その時から手伝いとかさせられてたんだけど、高校生になってアルバイトとしてがっつり入る様になったんだ。言い訳するとさ、八十彦さんと初めて会ったのも中学生の時だったし、そんなしょっちゅう会ってた訳じゃないから親戚っていう認識が俺の中でも薄いんだよね。とにかく、親戚皆が皆夜渡蓮の不思議なところを知ってるわけじゃないんだけど、知ってる人は知ってるんだ。だから、その黒葛原さんが知っててもなんにも不思議じゃないわけ……なんにしても、昔の人なんだからあまり意識しない方がいいよ」
「……そんなんじゃないです」
次々と伝えられたことに半ば呆然としながら、天愛は搾り出す様な声でなんとか反論した。そもそも、本当にそんなつもりではなかったのだ。東雲が勝手に想像して、勝手に膨らませただけの話である。そんな風に念を押す様に言われると、変に意識してしまいそうだ。
しかしもう今はいないかもしれない人々に出会うことができるなど、改めて奇跡の様な場所である。天愛はある可能性にふと気付き、しかしそれを否定する様に小さく首を横に振った。