その9 運命の日
2016年1月15日
『明日 俺は生まれ変わる』
10年日記にそう記した。
その言葉だけを記して、真っ暗な部屋のベッドに倒れこんだ。
記憶をなくすというのは、
こんな風に真っ暗な世界に入り込んでしまうってことだろうか。
目を開けていても、
目を閉じていても、
そこには暗闇しかない。
とてつもなく、怖かった。
怖くて、怖くて堪らない。
「......」
それならば、
今ならまだ引き返せるんだろうに、
いや、
引き返せばいいのに。
それでもまだ、
------ソアンが記憶を消していた。
その事実が重くヨンファの上に伸し掛っていた。
仰向けになったまま、ぎゅっと強く唇を噛む。
カイジと過ごした時間だけでなく、
そこに付随したヨンファとの日々も、それすらも一緒に消し去っていたのだ。
「いらない.....ってこと、か」
事実を知ってからというもの、毎日、毎晩、
その言葉が頭を過ぎった。
-----必要なかったんだ
あの偶然の出会いも、
カフェの裏で待ち伏せして、ドライブに行った日のことも、
一枚の毛布にくるまって星を見上げた時間も、
カイジを通じてお互いを紹介された日の気まずさも、
あの涙も、
何もかも、-------必要、なかった。
「はぁ」
ベッドに伸ばしていた両腕。
そっと両手で顔を覆った。
「明日になれば」
自身の声が掠れてくぐもっている。
そう。
明日になれば、生まれ変わる。
たった今の声のようにずっと内に押しとどめていた思いも、記憶と一緒に消し去ってしまえばいい。
大丈夫。
大丈夫だ。
きっとうまくいく。
目の奥がどんどん熱くなる。
そうして、一滴、
浮かんだ雫がこぼれ落ちた。
ツツ----------------っ と流れる熱。
それは音もなくシーツに吸い取られて消えていった。まるで、ヨンファの記憶のように。
・・・・・
「ヨンファさん、昨夜はぐっすり眠れましたか?」
「....正直言えば、それほどぐっすりとは」
「まぁ、そうでしょうね。安全だとは言われても、いざとなれば不安を感じないわけはない」
「はい」
翌日、例の会社から施術を行う博士とその助手がヨンファの自宅を訪れた。
記憶操作はクライエントの住まいで行うのが基本なのだという。
「消してしまった過去の記憶とのつじつまが合わないと、クライエントさま自身が辛い思いをすることになりますからね。そのためにも、事前確認が必要なんです」
-----事前確認
ふとこみ上げる熱いもの。
「ヨンファさん?」
「あ、はい。.....前に言われたとおり、すべて昨日のうちに処分しておきました」
「すべて?」
「はい。すべて」
そう。
ソアンに関するそのすべてを。
アルバムにあった写真も、スマホの中のデータも、誕生日にもらったスニーカーも。
「文章に残っているものなど、ありませんね?」
「はい」
去年ソアンと出会ってからの日記はすべて破り捨てた。
そこに「ソアン」の文字はなかったにせよ、自分の気持ちをごまかしながら過ごしてきた苦悩が綴られていて。
それがまたソアンを思い出すきかっけになってしまっては困る。
だからこそ、
全部、そのページを全部破り捨てた。
「では、気持ちを落ち着けるために、このお薬を飲んでいただきます」
「.....」
助手だという男性から手渡されたのは、白い小さなカプセルだった。
キッチンへ行き、コップに水を注ぐとそのカプセルを喉に流し込む。
その姿を目にして、博士が一度頷いた。
「10分もすれば、落ち着いた気分になって少し眠くなるでしょう。では、予定とおり、ベッドに横になっていただけますか?」
「はい」
眠っている間に、過去の記憶が消されていくのだ。
「思い出すんでしたよね?」
ベッドがギシっと軋んだ。
両足を伸ばしてくつろぐような姿勢になったまま、ヨンファが枕元の博士に問う。
博士は小さなテーブルに置かれた機材を操作しながら、こう答えた。
「えぇ、思い出す、というか。
そうですね、走馬灯のように駆け巡る、と言えばいいでしょうか」
「駆け巡る?」
「現在の最も新しい記憶から、どんどん過去へと遡っていくんですよ。
ヨンファさんは眠っていますから、夢を見ている感じですね。
ただ、その時間の流れにそって、流れに乗るようにして夢を見ていたらいいんです」
「目が覚めたら」
「.......全部終わっています」
-----全部終わっています。
そう言って笑顔を見せた博士の顔を、じっと見つめながら。
ヨンファは一度頷いた。
「では、始めますよ」
「はい」
「目を閉じて、リラックスして。一度深呼吸しましょうか」
「.....」
あっという間に、
体がグンっとどこかへ落ちていく気がして。
眠りについたのだと思う。
けれども、不思議と、枕元で話しをしている博士と助手の声は耳に届いていた。
そうして、次にヨンファの前に現れたのは、
「ソアン?」
「ヨンファ.....もうダメかもしれない。カイジの態度、おかしいの」
あぁ、そうか。
いよいよ始まったんだ。
この一瞬が、「運命の日」の始まりだった。