その10 消えていく本音
「ソアン?」
少し、いや、正直言えば、
自分のことでもないのに、まるで自分のことのように心配していた。
今、目の前にいる『親友の彼女』のことを。
ソアンの恋人であるカイジが急な転勤を言い渡されたのは、1週間ほど前のことだった。
社内で大きなプロジェクトが動いていたのだが、その主要メンバーであった社員が事故に見舞われ、欠員が出た。
その穴を埋めるべく、白羽の矢がたったのはカイジだったのだ。
もともと企画段階からそのプロジェクトメンバーに入ることを熱望していたカイジ。
彼は迷うことなく異動を受け入れた。
ソアンに何の相談もなく。
表面上は、本社内の部署異動に過ぎないのだが、
プロジェクトは海外部署を巻き込んだものだったため、カイジもいずれ海外赴任を余儀なくされる。
そうなれば、
「遠距離恋愛って言っても、海外なんて」
カラン と、氷が小さな音を立てた。
アイスラテが注がれたグラスの中をぐるぐるかき混ぜながら、ソアンがポツリと呟く。
「何でも一人で決めちゃうヒトだったけど。でも、今回ぐらいは相談してほしかったの」
「.....」
「わかってる。決めるのはカイジだし。だってカイジの仕事のことだもん。私に口出しする権利なんてないってこと。.....でも」
たまたま振替休日で、仕事のなかったこの日。
買い物帰りにソアンが働くカフェの前を通りかかると、偶然仕事を終えたソアンに出くわした。
ちょうど話したいことがあったんだ、と。
どちらからともなくそんな風に言い出して、通りから離れた場所にある古い喫茶店に入った。
テーブル席につき、アイスラテとアイスコーヒーをオーダーする。
それは、ソアンとヨンファ、二人の定番メニューだった。
「お前ら年中アイスかよ。マジ、似てるよな、好みが」
いつだったか、そう言ってカイジが呆れていたっけ。
この喫茶店に入ってから、ソアンはずっとカイジのことを話し続けている。
そんなソアンの話しを聞きながら、ヨンファはカイジから異動話しを打ち明けられた日のことを思い出していた。
上司からの内示を受けたその日の夜、
仕事終わりのヨンファを、飲みに行こうと誘ったのはカイジだった。
酒を酌み交わしながら、異動の話を打ち明けられた。ただしそれは相談ではなく、報告として。
ソアンが言うとおり、これは、カイジ自身が決めることだ。
ただ、あの日、「ソアンにちゃんと伝えろよ」と、そう言ったヨンファに、
「あぁ、わかった」と。
そう返事をしてきたのではなかったか。
-----それにも関わらず、あいつは
「そのぐらいのものなのかなぁ----私って、って。自分でもこれじゃいけないって思うけど、卑屈になっちゃうのよね。こういうことが重なると」
ソアンの顔が、一瞬、くしゃっと歪む。
「ヨンファ.....もう私たち、ダメなのかもしれない。カイジの態度、おかしいの」
「ソアン?」
「今度のことだけじゃないの。なんだかね、ここ最近よそよそしいっていうか。....うまく言えないけど」
「よそよそしい?」
「うん」
「.....」
その言葉にドキリとした。
『な?ヨンファ?前から思ってたけど、お前ソアンに対してやけによそよそしい態度取るだろ。あれって、わざと?』
異動の話しを打ち明けられたあの日、カイジに面と向かってそう突っ込まれたのだ。
あの時はしらばっくれたけれど。
「ね、ヨンファ......聞いてる?」
「え?あ、あぁ、うん」
ふと意識を戻せば、じっと見つめるソアンの瞳とぶつかった。
もどかしそうな色を浮かべたその瞳。
「.....」
ソアンのことは心配ではあるけれど。
同時に、歯がゆいのはこっちも同じなんだ、と。ヨンファは表情には出さずそう思った。
ソアンが今感じているじれったさ。その相手は、俺ではなく、カイジだ。
俺はいつまでこんな風にいい男友達のフリをして、ソアンの相談にのってやるんだろう。
「男の人って、そんなもの?ヨンファも同じ?」
「え?」
-----ソアン?
再び違うところへ飛びそうになった意識がその一言で舞い戻った。
「ヨンファが彼だったら、違ってた?」
「俺が?」
ソアンが小さく頷いてみせる。
-----俺が、ソアンと付き合っていたら。
「......」
じっとヨンファを見つめるソアンの瞳。
答えを探す間、その瞳を凝視することができず、ヨンファの視線は彷徨った。
綺麗な口元。ストローをつまんだ指先の、切り揃えられた爪。細い首筋。
いつも店では一つにまとめているブラウンの長い髪も、今はソアンが動くたび、ふわりと揺れる。
-----意気地なしな俺。
ソアンの問いに対する答えなんて、探す必要もないのに。
これまでずっと。
ソアンに出会って、感じていた好意が、単なる友情なんて言葉では済まされないものだと気がついてから、ずっと。
その瞳に映るものが、カイジではなくて、俺だったらいいのに、と。
そう思い続けていたくせに。
ヨンファは、無意識のまま手をぎゅっと強く握り締めていた。
「ごめんね、ヨンファ」
「え?」
突然、ソアンのそんな言葉に、顔をあげた。
ソアンの顔が、再びくしゃりと歪む。
「へんなこと質問して......困るよね、こんなこと聞かれても」
「あ......」
またタイミングを逃してしまった。
探す必要もない答えを探しているフリをして、
結局、意気地なしな男は、また、好きな女に気持ちを伝えることができないまま。
こうやって。
ついさっきまでヨンファを見つめていたであろうソアンの瞳。
そこには、もうもどかしげな色は消えて、かわりに諦めの色が濃くなっていた。
口元が小さな笑みを浮かべるのは、ソアンの悪い癖。
寂しいくせに、笑ってごまかそうとする、ソアンのいけない癖だ。
「ソアン?」
「はぁ-----どうしたらいいのかなぁ-----私」
これまでよりも明らかに声を張って。
投げやりにそう呟いたっきり、ぎゅっと唇を噛み締める。
「あのさ、もうすぐクリスマス、だろ?」
そう切り出した自身の声が妙に明るく感じられ、ヨンファは苦く笑った。
「クリスマス?」
「そう」
あぁ、また。
俺は、いいやつのフリをするんだ。こうやって。
「カイジとソアンが出会って、初めてのクリスマスだろ?」
-----そう。
俺と出会って、初めてのクリスマスでもあるんだ。
「.....うん」
テーブルの上を彷徨っていたソアンの瞳が、再びヨンファの顔に戻る。
「カイジに贈るプレゼントは決めた?」
「え?」
「これをきっかけにしてみるって手もあるんじゃかな?」
「そっか」
パチパチと瞬きをするソアンの瞳が、僅かに輝いた気がして、
ヨンファは自身の口元が、自然と笑みを浮かべていることに気がついていた。
そう。
これでいいんだ。これで二人が元に戻れば、.....と。
-------------え?
なんだ、今の。
『そうだよね。二人の初めてのクリスマスだ..........』
ヨンファを見つめていたソアンの顔。
最後に笑ってヨンファに向けて告げた言葉。
その言葉が言い終わるかどうかって時に、
目の前の、テーブルをはさんで座っていたはずのソアンの顔が、
まるで壁に飾ってあったパズルのピースがパラパラと落ちていくように、
まるで砂丘の砂が、風に吹かれて飛んでいくように。
-----ソアンが、消えた?
『あぁ、正常に作動しましたね』
「え?」
その声は、聞きなれない男性の低い声。
一瞬にして消えてしまったソアンを探すためその場に立ちすくんでいたヨンファの耳に、また同じ声が届いた。
『.記憶が今、一つ消えましたね』
-----記憶が、消えた
あぁ、そうだった。
自分が求めたはずのことなのに。
胸に、ポカリと大きな穴があいたような気がしていた。




