Ⅳ・行為、試験、その内容→Ⅳ
そこは暖かな空気で満ちていた。
閣下の部屋という言葉から想像していたような、大袈裟で広い部屋ではなかった。恐らく二十畳もないだろう。大きなシャンデリアがあるわけでもなく、機械に囲まれている訳でもない。地下にあるはずなのに柔らかな光に満ちている。木製の本棚とクローゼット、酒瓶の並ぶ棚と柔らかい絨毯に、執務机が一つ。来客用らしきテーブルと、ソファーが二つ。いずれも落ち着きのある、上品なものだった。
「ようこそ」
その男は言った。僕はその一言だけで身が竦む。
もちろん、顔は知っていた。この国にいて知らない者はいないだろう。しかし、画像や映像で見るのと、実際はこうも違うものなのだろうか。
もう老人だ。だというのに、皴が寄ったその顔は、今なお眉目秀麗と言っていい。眉は釣り上がり、双眸がぎらりとこちらを見ていた。彫りの深い顔に真っ白な髪は、まるで明王像かなにかのようだ。
何をしているわけじゃない。ただそこにいて、静かにいるだけだ。それなのに。
気圧される。まさに、そんな表現が相応しい。
ごくりと喉が鳴った。うまく唾が流れていかない。二度そうすると、軽い痛みが走った。
これが、一代で全てを壊し、全てを再構築した男……。
不意に、リコが僕の手を握った。背中に回してあるから、閣下には見えないはず。
「…………」
目配せをする。大丈夫だと。しっかりしろと。
僕は奥歯で舌の右側を噛んだ。
どれ程のものかは知らない。どうせ何も知らないんだ。
試されてやる。試してやるけどな。
「はじめまして」
僕は平静を装って言った。
「招致に応じました」
「ああ」
閣下は頷いた。
「君は私の大嫌いなものが大好きなようだ」
「え?」
「いいや、なんでもないよ」
閣下は一度、目を伏せると、顔を上げて会長を見た。ふっと笑みをこぼしたようだった。
「久しぶりだな」
「お久しぶり」
二人の間には、妙な雰囲気があった。
「ミズキ、お前の言った通りだな」
「だろう」
肩を震わせてくっくと笑う。その仕種がそっくりで、まるで二人が兄妹であるかのような、そんな錯覚をした。こんなにも年齢が離れた二人だというのに。
閣下は僕らに向き直った。
「質問をしよう。簡単な質問だ。いいかな?」
これはすでに、テストの一環なのだろうか。
いや、どちらにせよ、否があるはずもない。僕はしっかりと頷いた。
「まずは、そうだな……君達は、国とはなんだと考える?」
「え……?」
僕もリコも、呆然としていた。
「国とは、ですか?」
「そう、国だよ。国」
質問の意味を把握するのに手間取る。
国とはなんだ? ……人間の集まり? 民族の集合体? 同一の文化圏を持つ集団? 同じ政府の統治下にあること?
それはどれも正しくて、どれも正解ではない気がする。
「機構です」
そう言った。自然と出てきた言葉だった。
「効率よく生きる為のシステムです」
「ほお」
「それと、虚構です」
そう続けた。
「効率よく生きられるという幻想です」
「なるほどなるほど」
閣下は後ろ手に回した両手を動かした。
「で、それは誰の受け売り?」
「僕の受け売り」
なるたけ不敵に見えるように。
「ははあ」
閣下は笑った。
「なるほど、国は機構で、虚構だと。それでは、人間とは何かな?」
「動物の一種」
「生物としてでなく、概念としてでは?」
「効率を求めること」
「それは、誰の受け売り?」
「あなたの」
「ほうほう! では効率化とはなんだ?」
「最適に近づくこと」
「最適とは?」
「主観的な理想」
「主観とは?」
「我が儘」
「どうして?」
「あくまで自己中心的な解釈だから」
「なるほど。では理想とは?」
「空想」
「空想と理想の違いは?」
「ニアイコール。空想の中の一部分が理想」
「理想と現実の違いはなんだ?」
「感情か、勘定かの違い」
「ほぉ!」
休む間もなく、次々質問された。閣下は目を見張り、会長に言った。
「ミズキ、素晴らしいぞ。こんなにも素晴らしいのは初めてだ」
「そうだね」
会長はいつの間にか部屋の隅にいて、ソファーに腰掛けていた。足を投げ出して、テーブルの上に乗せている。
「まったく、初めてだよ。こんなにも」
二人は顔を見合わせた。
「こんなにも間違っているのは」
二人の声が重なった。
「どういう……ことでしょう」
僕は噫にも出さぬように、平静な振りをして訊いた。
「君は」
会長が膝に乗せたデバイスを叩いて言った。部屋に入る際に没収されたはずだから、あれは元々ここにあるものなのだろう。
「キリスト教とイスラム教が何故争っているか、知っているかい?」
「……一言では言えないかと」
「そう、まあそうなんだがね。元は同じユダヤ教から派生したもの同士の、根本的な対立の原因は?」
「聖書の……救世主とか、解釈の違い」
「まあ、そうだ」
……何が言いたいのか、少しわかった。
「でも、ユダヤ教から派生した宗教を持たない国、それも、宗教を排斥した国に住む我々から見たら、そもそも救世主なんてものは存在しないのだよ。争っている理由がちゃんちゃらおかしいね」
人差し指を立て、ちっちと左右に振る。
「そもそも前提が間違っている、と?」
「それもまた、主観だがね」
会長は片手を頬に添えて笑った。
「私はね、もうじき死ぬのだ」
なんでもないことのように、閣下が言う。僕は驚いて目を見開いた。
病気をしているようには見えない。むしろ、年齢を考えれば元気そうに見えるくらいだ。
この人が……死ぬ? 何故?
「死を受け入れてからというもの、私の柄ではないかもしれないが、間違いを認めることができるようになったのだ。全てではない。私は我を通して生きてきた。間違っていたつもりはない。しかし、いくらかのことは、間違いだと認められるのだ」
ゆっくりと、長い溜め息を吐いて。
「昔、私が発表した文章には、いくらかの修正点がある。丸々削除してしまいたい項もある。君は、それらも丸ごと吸収してしまったのだ」
「…………」
「私に気に入られようとしたのか?」
「違っ……」
「…………」
言いかけた僕も黙ったし、リコは何も答えない。
「清々しい程に間違えているな、君は」
ふふっと笑って、そう言った。
「いや、いいのだ。それでもいい。君のような者が、一人は必要なのだ」
僕は何も訊かない。意味がない。
「質問は以上だ。では、次に進もうか。本番だよ。テストだ」
閣下の言葉に合わせて会長がデバイスを操作すると、キャビネットの一部が競り上がり、モニターが出てきた。映像が出る。それはこの国の、本州の地図だった。
「君達に挑戦してもらうのは、そう」
閣下はニヤリと、悪戯な笑みを見せた。
僕は続く言葉を待つ。
「かくれんぼだ」




