6-1 共通試験
共通試験の開始を告げる鐘が鳴った。
澄んだ音が教室の隅々まで渡り、最後の余韻が消えるころには、先ほどまで残っていた小さな話し声もすっかり途絶えていた。
窓から差し込む朝の光だけが、等間隔に並んだ机の上を静かに照らしている。
「始めなさい」
教師の声とともに、教室のあちこちで伏せられていた試験用紙が一斉に表を向いた。
ぱさり、と乾いた音が重なる。フローレンも手元の紙を返し、最初の頁へ視線を落とした。
どんな問題が出るのかは、まだ知らない。それなのに胸の奥には、試験前とは思えないほど軽やかなものがあった。
少し前まで、試験は覚えているものを正確に書き出す場所だった。知識を問われれば迷わない。
けれど応用問題になると、見覚えのある言葉をいくつ見つけても、その先へ進む道が分からなかった。
今は、見たことのない問題に出会うことを少し楽しみにしている。
まだ考えたことのない形を前にして、自分がどこまで行けるのか試してみたかった。
最初の頁には、年代や人物名を答える短い設問が並んでいた。
視線を滑らせるたびに、答えはほとんど間を置かずに浮かぶ。羽根ペンがさらさらと紙の上を走り、一問、また一問と欄を埋めていった。
以前なら、このあたりで少し安心していたかもしれない。覚えているものを、そのまま正しく取り出せている。それだけで試験の大半はどうにかなったからだ。
けれど今日は、頁をめくる指の方が先を急いでいた。
やがて、大きな論述欄の前で手が止まる。
ある時期、王都東部に集まっていた小規模な魔術工房が急速に減少した。その主な理由を、示された複数の資料から考えて説明する問題だった。
交易路の変更。
術式規制。
魔術師組合の再編。
触媒の流通量。
どれも授業で扱ったことはある。けれど、この組み合わせで問われるのは初めてだった。
フローレンの視線が、問題文の上でぴたりと止まる。
見たことのない問題だった。
ほんの一瞬だけ息を止める。けれど次の瞬間には、胸の奥へ小さな熱が差していた。
問われているのは、工房の数が減少した主な理由だ。知っていることをすべて書く必要はない。
フローレンは並べられた資料へもう一度目を落とした。
交易路、術式規制、組合の再編、触媒の流通量。ひとつずつ確かめるうちに、それぞれに関する授業の内容が記憶の中から鮮やかに浮かび上がってくる。
王国魔術改革後に行われた術式規制の見直し。
登録制度が変更された時期。
魔術師組合が統合されるまでの経緯。
東部へ運び込まれていた触媒の種類と、その主要な輸送経路。
どの頁に何が書かれていたかまで、いつもと変わらない鮮明さで残っている。けれどフローレンは、それらを端から答案へ移そうとはしなかった。
今回使うものは、どれだろう。
視線が術式規制の資料で止まった。
新しい基準が導入されれば、小さな工房ほど対応は難しくなる。基準に合わせるには設備も人手も必要になる。
そこへ魔術師組合の再編に関する資料が重なった。独立していた工房の一部が、より大きな組織へ吸収されていった記録が残っている。
二つを繋げれば、理由として筋が通る。
フローレンは羽根ペンを紙へ下ろした。術式規制の見直しによって新たな基準への対応が必要となり、小規模工房の負担が増した。その後の魔術師組合の再編も重なって、独立した工房が減少した――。
数行を書き進めたところで、一度だけ手が止まる。
資料には、まだ交易路の変更と触媒の流通量が残っていた。
東部へ続いていた主要交易路が変更され、その翌年には触媒の流通量も大きく落ち込んでいる。工房数も、それを追うように減少していた。
フローレンの眉がわずかに寄る。
交易路の変更も、工房に影響したのかもしれない。
けれど、問われているのは主な理由だ。術式規制と組合の再編の方が、工房そのものへ直接関係しているように思えた。
つい先日の薬草学で、必要のない知識を外したときの感覚が蘇る。全部を使う必要はない。必要なものだけを選べばいい。
フローレンは交易路の資料から意識を外し、書きかけの答案へ戻った。
新たな基準への対応。
組合の再編。
小規模工房への負担。
自分の中では、きちんと繋がっている。
羽根ペンが再び動き始めた。
最後まで書き終え、答案を読み返す。以前のように、知っている出来事をいくつも詰め込んだ長い文章ではない。
問いに必要だと思ったものを選び、そこから理由を繋げた。紙に残った白い余白を見ても、もう何かを書き漏らしているような気はしなかった。
フローレンは次の頁をめくった。
試験はその後も続いた。
問いの意味を取り違えかけ、最初の一文まで戻った問題もあった。一つの条件を見落とし、途中で気づいて書き直した箇所もある。
一度選んだ知識が違うと思えば、線を引いて消した。
それでも、以前のように羽根ペンが止まったまま時間だけが過ぎていくことはなかった。
どこまでなら分かっているのか。
今いるところから何を見ればいいのか。
考えているうちに、視線は自然と必要な場所へ戻っていく。
向かいから問いを置いてくれる人はいない。
けれどもう、羽根ペンが止まるたびに誰かの声を借りなくてもよかった。
紙の上に、少しずつ新しい答えが増えていく。
いつの間にか窓から差し込む光も、机の端まで移っていた。
初めは試験用紙の中央に落ちていた四角い明るさが、今はフローレンの右手をかすめ、床へ細長く伸びている。
「残り十分」
教師の声が静かな教室へ落ちた。
あちこちで頁をめくる音が少しだけ焦りを含み始める。フローレンは最後の設問を書き終え、一度羽根ペンを置いた。
最初の頁へ戻り、問いと自分の答えを一つずつ照らし合わせていく。
短答を確かめ、途中で書き直した箇所を見直し、やがて先ほどの工房についての論述へ戻った。
最初の一文を読む。
術式規制の見直しによって――。
そこで、なぜか視線が止まった。
間違っているとは思わない。使った知識そのものに誤りはないし、繋げた理由にも自分なりの筋は通っている。
それなのに、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
フローレンはもう一度資料へ目を戻した。
術式規制。
組合の再編。
その隣には、使わなかった交易路の変更がある。さらにその下には、触媒の流通量を示す数字。
先ほどは必要がないと思って外したものだった。
けれど今は、なぜかそこから目が離れない。
羽根ペンを取り直す。
何が違うのだろう。
自分はどこまで正しく考えていて、どこから何かを見落としたのか。
もう一度資料を辿ろうとした、そのとき。
試験終了の鐘が鳴った。
ペン先が紙の上で止まる。
「そこまで。筆記具を置きなさい」
フローレンはゆっくりと羽根ペンを置いた。
前方から試験用紙が集められていく。紙が重なる乾いた音が列を伝い、少しずつ近づいてきた。
やがて、自分の答案も手元を離れる。
最後の論述は気になった。もう少し時間があれば、あの引っかかりの正体まで辿れたかもしれない。
けれど、試験を終えた胸に残っていたのは悔しさばかりではなかった。
初めて見る問題があった。途中で迷ったし、書き直したところもある。最後まで確信を持てないものも残った。
そのたびに、自分で考えた。
問いかけてくれる人も、開ける参考書もない場所で、自分の中にあるものから次に使う一つを探した。
答案のなくなった机へ、フローレンはそっと指先を置いた。
窓から入り込んだ春風がその上をすり抜け、白いカーテンをやわらかく膨らませる。光を含んだ薄布はしばらく揺れたあと、何事もなかったように元の場所へ戻っていった。
点数がどれくらいになるのかは、まだ分からない。
それよりも、見たことのない問題を前にして、自分で考え続けることができた。
その事実が、静かな熱になって胸の奥へ残っていた。




