1-2 三回と八回
授業を終えた生徒たちが、波のように実習室から流れ出していく。
昼食の包みを抱えて中庭へ急ぐ者。
友人を呼び止めながら食堂へ向かう者。
先ほどまで薬草の香りに満ちていた室内は、いつの間にか楽しげな話し声で賑わっていた。
「中庭、空いてるうちに行きましょ」
「うん」
フローレンはエリナと並び、その人波に混じって実習室をあとにした。
春の陽射しが降り注ぐ中庭は、昼休みを過ごす生徒たちで賑わっている。
青々とした芝生の上で昼食を広げる者もいれば、噴水の縁に腰かけて楽しげに談笑する者もいる。大きな木が落とす柔らかな木陰では、一人静かに本を広げる姿もあった。
フローレンたちは噴水の近くに場所を見つけると、芝生の上に薄手の布を広げ、並んで腰を下ろした。
「午後は魔法史だったわね」
「最初、小テストだったよね?」
昼食の包みを開いていたエリナの手が、ピタリと止まる。
「……範囲、どこまでだったかしら」
フローレンは手元のバゲットへバターを塗る手を止めることなく、さらりと答えた。
「王国魔術改革から術式規制まで。教科書なら百二十六ページから百五十一ページ。百三十八ページの『魔力循環の第二法則』は『重要です』って三回言ってたし、『属性干渉率』は『必ず覚えておきなさい』って八回繰り返してたから、その辺は出ると思う」
「……」
「どうしたの?」
「相変わらずね。私は助かるから良いんだけど」
「どういうこと?」
フローレンは不思議そうに小首を傾げた。
エリナはそんな彼女を見て、ふふ、と小さく笑った。
「私は『範囲は百二十何ページから』くらいしか覚えてないわ」
「そうなんだ」
「そうなの」
エリナはバゲットを小さくちぎって口へ運ぶと、ふと何かを思い出したように「あ」と声をこぼした。
「もうひとついい?」
「?」
「明日の確認テストで出そうなところも教えてほしいの」
「いいよ」
「ありがとう、助かるわ」
エリナはぱっと表情を明るくし、胸元で両手を合わせた。
「フローレンの出題予測、ほとんど外れないもの」
「先生が何度も繰り返していたところを言ってるだけだよ」
「それが分からないの」
「そうかな」
「そうよ。先生が何回同じことを言ったかなんて、普通は数えてないもの」
フローレンは少し困ったように微笑んだ。
「私は、覚えることくらいしかできないから」
「またそんなこと言う」
エリナは笑った。
「それだけ覚えられたら十分すごいわよ」
フローレンは曖昧に微笑み、小さく首を振った。
彼女たちの座った場所からそう遠くない木陰で、一人の少年が昼食を取りながら静かに本を読んでいた。
赤い長髪をゆるく一本に編んだ、特進クラスの少年である。
木々の隙間からこぼれる春の陽射しが、本の上でまだらに揺れていた。穏やかな風に頁の端がふわりと浮き、ぱら、と一枚だけめくれる。
少年は読みかけの本を閉じようと、表紙へ指をかけた。
そのとき、ふと聞き覚えのある声が耳に届いた。
『最初、小テストだったよね?』
表紙へかけた指が止まる。
午前中の授業で耳にした声だと気づくまで、そう時間はかからなかった。
『……範囲、どこまでだったかしら』
『王国魔術改革から――』
(…………)
少年は木陰から噴水のほうへ視線を向けた。
きらきらと陽射しを弾く水飛沫の向こうで、二人の少女が昼食を広げている。
そのうちの一人には見覚えがあった。
午前中の合同授業で、教科書を持たないまま《ルミナ草》について淀みなく答えていた少女。
頁の隅に添えられた小さな注釈まで、そっくりそのまま口にしていた少女だった。
今は友人と笑い合い、手にしたパンを口元へ運んでいる。
少年は読みかけの本へ視線を戻した。
教師が何を話したのか覚えている。それだけなら、別段おかしなことではない。
授業を真面目に聞いていれば、大切だと念を押された箇所くらい覚えていても不思議ではなかった。
けれど。
三回。
八回。
(うーん。さすがに俺も、回数までは覚えてないなあ)
少年はしばらく本の表紙を指先でなぞっていたが、やがて何事もなかったように再び頁を開いた。
木漏れ日が本の上で淡く揺れ、春風が梢を静かに鳴らしている。
少年が次の頁をめくるまで、ほんの少し間があった。




