1-1 フローレン・アストリア
授業の終わりを告げる鐘が鳴った。
静まり返っていた教室に、ほっと息をつくような空気が広がる。
椅子を引く音。教科書を閉じる音。
やわらかく吹き込む春風に、薄絹のカーテンがさらりと揺れた。窓辺に落ちた若葉の影は、生き物のように形を変えながら、日差しの中をゆらゆらと泳いでいる。
教室が再び賑わい始めても、フローレン・アストリアはいまだ開いたノートへ視線を落としていた。
ノートの中央には、どこから手をつければよいのかまるで分からない応用問題がポツンと残されている。
教科書の頁なら、目を閉じても思い出せる。そこに書かれていた基礎問題とその解答は、一言一句違わず書き出すことができる。
この応用問題の文章中にも、見覚えのある用語や術式が散りばめられている。そのひとつひとつがどの頁のどの箇所に記されていたかまで、フローレンは明確に覚えている。
けれど、それらが複雑に組み合わさると途端に分からなくなる。教科書に解法や解答の載っていない『応用問題』となると、いつだってフローレンは立ち止まってしまうのだ。
「また難しい顔してる」
前の席から振り返ったエリナ・メルヴェルが、机へ肘をついて声をかけた。
どうやら鐘の音も周囲の賑わいも耳に入っていなかったらしい。フローレンはハッと顔を上げた。
「……そんな顔、してた?」
「してた。眉間に深ーい皺が寄ってたわ」
反射的に眉間へ指を当て、皺の有無を確かめるように指先でそっとなぞる。フローレンのあまりに素直な仕草に、エリナはふっと目元を和ませた。
「もう、フローレンったら。本当に真面目なんだから」
「そうかなあ」
「そうよ。応用問題なんて、分からなくても死なないわ」
「でも……」
フローレンはわずかに眉尻を下げる。
「先生は、よく考えてみなさいって……」
「大抵の先生はそう言うものよ」
エリナは小さく肩をすくめた。
彼女の机はすでに綺麗に片づいており、いつでも教室を出られる状態だった。
「ほら、次は合同授業。早めに行っておきましょ」
「あっ、うん」
フローレンは慌ててノートを閉じ、教科書と一緒に鞄へしまった。椅子を引く音が重なり、生徒たちは次々と教室をあとにしていく。
その流れに取り残されかけたフローレンは、先に歩き出したエリナの背を小走りで追いかけた。
三年生から新たに始まった合同授業。
今日はその初日である。
広い実習室には、第二クラスと特進クラスの生徒たちが集まっていた。
普段は授業を共にすることのない別クラスの顔ぶれが入り混じり、実習室にはどこか浮き足立つような空気が流れている。
作業スペースを広く取るため、机は壁際へ寄せられていた。その向こうには、薬草や鉱石、魔法生物の標本を収めた棚が整然と並ぶ。乾燥した葉と薬品の香りが、ひんやりとした室内に薄く漂っていた。
白髪混じりの教師は棚の中から一株の植物を手に取り、教室を見渡す。細長い葉の先には、昼間だというのに淡い光が宿っていた。
「では、この《ルミナ草》について――アストリア。説明しなさい」
「はい」
フローレンは静かに返事をし、一歩前へ出た。手には実習用の小さなメモ帳を持っている。
しかしそこへ視線を落とすことなく、教卓の上に置かれた植物を見つめて口を開いた。
「ルミナ草は夜間に微弱な魔力光を放つ多年草で、主に治癒薬の調合に用いられます。根には魔力の流れを安定させる性質があり、採取は開花から三日以内が最も効果的とされています。また、乾燥保存した場合は効力がおよそ三割低下するため、採取後七日以内の使用が望ましいとされます」
フローレンの声は淀みなく続く。
「なお、古代エルディア地方では旅人の携帯薬として利用されていた記録が残っており、当時は『夜灯草』とも呼ばれ――」
「そこまではいい」
「あっ……すみません」
教室に小さな笑いがおき、控えめに広がっていく。それまで少し張りつめていた空気も、心地よいあたたかさを帯びて緩んだようだった。
フローレンはわずかに頬を染め、握っていたメモ帳を胸元へ引き寄せながら一歩下がる。
「もう……また答えすぎ」
隣へ戻ってきたフローレンの脇を、エリナがちょんとこづく。フローレンは気恥ずかしげに小さくはにかんだ。
その様子を、少し離れた場所から見ていた少年がいた。
特進クラスの列に立つ、赤い長髪をゆるく一本に編んだ背の高い少年である。
教師が植物を掲げたとき、彼も周囲の生徒たちと同じように、何気なく教科書を開いていた。
指名された少女は、そこに書かれている内容を一言一句違わず答えていく。本文だけではない。頁の隅へ小さく添えられた注釈まで、そっくりそのまま読み上げようとしていた。
(……はは、そこまで読むんだ)
ずいぶん律儀な子だな。
少しばかり興味が湧いた少年は教科書から少女へ視線を移した。
ふと違和感を覚える。
彼女は教科書を持っていなかった。
まっすぐ教師のほうを見つめ、手にしたメモ帳へ視線を落とすこともなく、ひとつも迷わず淡々と言葉を紡いでいる。
(…………)
少年はゆっくりと教科書を閉じ、もう一度だけ少女を見た。
答え終えた彼女は友人に脇をこづかれ、気恥ずかしそうにはにかんでいる。
ひとしきり教室に広がった笑いも次第にほどけてゆき、教師は何事もなかったように次の説明を始めた。
第二クラスの生徒たちは、いつものことのように次の説明へ意識を戻している。彼女を特別気に留めている様子はなかった。
少年の周りにいる特進クラスの生徒たちも、特に気に留めた様子はない。
ごくありふれた授業のひとこま。
わずかに首を傾げつつも、少年は再び教科書を開く。
けれど、先ほどのわずかな違和感は、しばらく意識の片隅に残ったままだった。




