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ヴァイオラは、アマデウスのおもちゃとして、実に優秀だった。
眉目秀麗、才色兼備、社交界に咲き誇る大輪の花。
そう揶揄されるにふさわしい彼女と話すのは建設的であったし、何より、彼女は時折、何事も基本的に『想定内』で済ませるアマデウスの『想定』の右斜め上を行く爆弾をぶん投げてきた。
たとえば、アマデウスのこの口調。
皇国の地方のなまりであり、幼いころに生母である妃とともに過ごしたなごりだ。
皇国においてもこの国においても舐められる口調について、ヴァイオラは常々思うところがあったらしく、事あるごとに「そろそろ矯正なさいな」と口を出してきた。
彼女はかわいく面白いおもちゃであったけれど、そういうところだけはつくづく面倒臭くて、アマデウスはいつも適当に笑ってごまかしていた。
そんなある日のことだ。
「その口調、今日こそ矯正させていただきますわ! 学生の身分ならばともかく、卒業後にいざ本格的に社交界に出られたときに、いらぬ苦労を背負う羽目になりましてよ」
「別にかまへんよぉ。男爵令息なんてもとより舐められてなんぼやろ」
だからもうほかしといて、というこちらの辟易とした本音に、彼女はやはり気付いていないようだった。
おもちゃとして有能な彼女だけれど、これ以上このやり取りが続くようならば、捨てることもやぶさかではないと思い始めていたころのことだ。
めんどくさ、と、眼鏡の奥の瞳をすがめたこちらに気付かず、ヴァイオラはふんすと気合いたっぷりに書物を開いた。
「舐められるからこそ、いざというときの公用語で相手のみぞおちに一発ぶち込むのが効果的ですわ。別に常に公用語を使いこなす必要性なんてありませんの。その口調は相手の油断を誘う手段として必ず残しておくべきでしてよ。そしてだからこそ、公用語でトドメを刺して黙らせてこそ上等ですわ」
ふふふ、と苛烈な美貌に毒を潜ませて微笑んだヴァイオラのその姿は確かに『棘まみれの毒花』にふさわしく、恐ろしいほど美しかった。
思わず言葉を失ったのは、本当に不覚だった。
そんな自分に、今度は彼女はいたずらげに愛らしく、菫のように可憐に笑ったのだ。
「あたくし自身としてはテオ様のそのおしゃべり、好ましく思っておりますわ。故郷を大切になさっているのが伝わってきますもの。そしてだからこそ、その口調を舐められるのがとっっっっっても面白くありませんの。はっきり言って不愉快ですわ。テオ様を嘲笑う者達のことも、それを当たり前だと思っていらっしゃるテオ様のことも」
おわかり? と小首を傾げて、愛用の扇をこちらの顎に突き付けてきた彼女に、それでもまだ言葉が見つからなかった。
初めて言われた台詞だった。
聞いたことのない台詞だった。
この国のみならず、本国においてすら、誰もが嘲るこの口調を、ヴァイオラは当たり前のように肯定するのだ。
「ビビちゃ……」
「テオ様。あなたは、ご自分に誇りをお持ちになって。あなたはあたくしの……このヴァイオラ・エヴァランスの、その、あの、お、お友達なのですから!」
おわかり!? とまたしても繰り返して、気恥ずかしさに顔を彼女は赤らめた。
その薔薇色の頬の美しさこそ、青天の霹靂だった。
あれほど美しい薔薇色を、アマデウスは知らない。
花の美しさなどに興味はなかった。
それなのに、目の前の菫が、どんな大輪の花よりもよほど美しく咲き誇っていることに気付かされた瞬間の驚きは、筆舌に尽くしがたかった。
「ビビちゃんは」
「何かしら。文句でもあって?」
「そうやなくて。ビビちゃんは、優しいなぁ」
「……嫌味ですの?」
「んにゃ、本音や」
そう、滅多に口にしない本音がこぼれた。
しかも相手のことを『優しい』だなど当てこすりでも嫌味でもなく表したのは、きっと、人生で初めてだった。
彼女はツンと澄まし顔で「ならよろしくてよ」と言い放ってくれたけれど、その耳まで赤くなった顔を、どうしても忘れることができないでいる。
それからだ。
アマデウスが、とっくの昔に皇国で修めた言語学を、何も知らないヴァイオラと共に真面目に取り組むようになったのは。
その中で自然とヴァイオラの口数も増え、高飛車な口調も徐々に柔らかくなり、あれやそれやの愚痴まで聞かせてくれるようになった。
彼女の語る『愚痴』はアマデウスの退屈を潤し、満足へと導いてくれた。
特に楽しみだったのは、彼女の婚約と、その破棄についての愚痴だ。
ヴァイオラにとっては十一度目になるのだという婚約破棄について散々愚痴った挙句、彼女は震える拳をテーブルに叩きつけて怒鳴った。
「そもそも! 恋だの愛だのの前に、誠実あってこその婚約であり婚姻でしょう!?」
つい先日、ヴァイオラにとっての十一度目の婚約破棄を突き付けてきた相手は、貴族籍ではないがこの国では有数の財力を誇る豪商の子息であったという。
婚約相手のネタが尽きつつあるエヴァランス家と、貴族としての青き血を求める商家の、どこからどう見てもれっきとした政略結婚だ。
公爵家が豪商とはいえ平民と婚姻を結ぶなどまずありえないが、今回は特例としてその財力が認められ、ヴァイオラとの婚姻を期に王家より叙爵されることが内定していたのだという。
それが婚約破棄である。
理由は割愛するが、一言で言えばこれまた『真実の愛』だ。
「もとより愛し合う幼馴染のお嬢さんがいたとのことですけれど、ええ、それは結構なことですけれど、でしたら婚約を結ぶ前に関係を清算なさるか、そもそも婚約の話を蹴ってくださるべきではなくて!? 結局あたくしがまた当て馬になっただけですわ!!」
とうとう自分で当て馬と言い出していたあたり、ヴァイオラもあのときは相当腹に据えかねていたのだろう。
そんな彼女をにこにこと見つめながら、アマデウスは「今日もビビちゃんは元気やなぁ。今夜のワインはおいしく飲めるわぁ」などとヴァイオラ本人が聞けばそのワイングラスをひっくり返されそうなことを思ったものだ。
恋だの愛だのの前に誠実を、と彼女は言った。
なるほど、“菫”の名を持つ彼女らしい考えだ。
だからこそ、ふむん、と、わざと意地悪をしてやりたくなった。
「そうは言うてもなぁ、ビビちゃん。その誠実に裏切られたらどうするん? 真実の愛よかよっぽど難しいもんやろ、誠実なんざ」
嘘を、偽りを、裏切りを。
アマデウスは、それらを浴びながら、自らそれらを振り撒いてきた人生を歩んできた。
恋よりも愛よりもよほど得ることが難しいそれを求めるなど、真実の愛を盾にしてヴァイオラを裏切り続ける奴らよりももっとずっと夢見がちではないか。
そう揶揄を込めたアマデウスの意地の悪い発言の意図に、彼女は気付いているのかいないのか、「あら」と心外そうに瞳を瞬かせた。
美しい紫の瞳がきらりと光って、彼女は薄紅に色づく唇に弧を描く。
「裏切りなんて大いに結構ですわ。貴族とはそういうものでしょう。その上であたくしは、裏切りを隠しておくこともまた誠実だと思っておりますの」
「……んん? 裏切られてもええってこと?」
「ええ、それを隠しておいてくださる限りは、少なくとも。それができないような無能な殿方なんてあたくしの夫の座に据えておくには役者不足ですわ。そのときはさっさと離縁してまた新たな国益を求めるのが、あたくしが国に捧げる誠実でしてよ」
何の気負いもなくそう続ける姿に、素直に驚いた。
そして、感動すら覚えた。
こんな国でやがて枯れて散るには惜しい花が、目の前で今こそ咲き誇っていることに、めまいすら覚えるような衝撃を受けた。
「……テオ様、どうなさいまして?」
「…………んん? なんやて?」
「何がって……。ふふ、今のお顔。鳩が豆鉄砲を食ったよう、なんて、そういうお顔のことを言うのでしょうね」
くすくすと鈴を転がすように笑う彼女のどこが、『棘まみれの毒花』なのだろう。
可憐に、愛らしく。それでいて誰よりも強く凛々しく咲き誇る菫。
ささやかな花がこんなにも美しいだなんて、アマデウスはちっとも知らなかったし、知ろうともしなかった。
そしてだからこそ、試してみようと思ったのだ。
ヴァイオラの言う、『誠実』の是非を、彼女自身に問おうと思った。
それはその後再び結ばれたヴァイオラの、十二度目の婚約について。
相手はとうとう、王家ゆかりの公爵家において、引く手あまたであるという公爵令息だった。
既に成人し、この国においては数少ない外交官を務めており、ヴァイオラの父であるエヴァランス侯爵とも交流があるのだという、願ってもないお相手サマだ。
王家としては彼のことは、ヴァイオラではなく、もっと条件のいい令嬢にあてがいたかったのだろう。
それは、彼女の度重なる婚約破棄の上に形作られた瑕疵の令嬢ではなく、品行方正な傷一つない真白き令嬢を、という意味合いではない。
親諸外国派筆頭たるエヴァランス侯爵家の令嬢ではなく、諸外国からの干渉を排斥する神殿の傀儡となった王家にとって都合のいい令嬢、という意味合いで、だ。
だがしかし、エヴァランス家にも我慢の限界があることを、流石の王家も幸か不幸か理解していたらしい。
出し惜しみすれば次はない。
エヴァランス侯爵は、“あの”ヴァイオラ・エヴァランスの父だ。やるときは徹底的にやらかすタイプである。
かくしてヴァイオラの十二度目の婚約は結ばれた。
これ以上ないほどの好物件のお相手サマに、ヴァイオラ本人も安堵していたようだった。少なくともアマデウスの目にはそう見えた。
「雨降って地固まる、災い転じて福となす、人生万事塞翁が馬――――つまるところの結果オーライですわね」とティーカップを片手にほうと吐き出された溜息は穏やかで、「せやなぁ」とアマデウスは実ににこやかに頷き返したものだ。
……何故かそれ以降しばらく、自分の前に現れる駒達がやけに顔を青ざめさせていて、何か言いかけては口を噤み、こちらがちらりと視線をくれてやるたびに震え上がっていたけれど、まあとにもかくにも、『結果オーライ』だったのである。
――そう、ビビちゃんにとっては、そのはずやったんやけどなぁ。
諸外国とつながりのある外交官たる役目を背負う、王家にゆかりある十二番目の婚約者。
最高の好物件だ。
彼が自国の機密情報を他国に流す売国奴であることにさえ目をつむれば、何一つ文句のつけようのない最高のお相手サマである。
それなのに。
「あれぇ、ビビちゃん、どないしはったん?」
ようやく婚約者問題が片付いた彼女は、なんだかんだで重くのしかかっていた肩の荷から解放されてからというもの、すこぶるご機嫌だったはずだ。
だがしかし、その日、いつものように旧図書館の片隅のデスクに集合した彼女は、すっかりうつむいていて、肩を落としていた。
長く伸ばされた、黄金をそのまま紡いだかのような豊かな髪に隠されて、その表情はうかがい知れない。
「ええっとぉ、ビビちゃん?」
彼女の肩は震えていた。
もしや泣いているのだろうかと思ったら、何故だかぎくりと肩が強張った。
彼女のその震える肩に手を伸ばしたのは、無意識だった。
だが、こちらの手が触れる寸前で、ヴァイオラは。
「ふふっ、ふふふふっ、おーほほほほほほほほほほほほ!!」
ガターン!!!! とそれはもうとんでもない勢いで椅子をひっくり返った。
エッなんやのどないしたの。そう硬直するこちらのことなど何のその、ヴァイオラは旧図書館のしじまをぶち壊す高笑いをひとしきり続けた後、グッッッッッ! と拳を天高くつき上げた。
「やってやりましたわ!! ざまあみさらせでしてよ、あの無能!!」
渾身の、そして会心の、さらに満面の、これ以上ないほどの笑顔だった。
きらきらと輝くその笑顔に目を奪われて呆然とするこちらの様子に、やっと気付いてくれた彼女は、そうして落ち着きを取り戻して、シレッとした様子で椅子を立て直し、そこに座った。
そして気付けば身を乗り出して腰を浮かせていたアマデウスに「お座りになられたら?」と席を促した。
いやそれビビちゃんが言うん? とは思ったけれど、どうやら彼女は事の次第を説明してくれるらしかったので、大人しくそれに従った。
かくして、ヴァイオラ・エヴァランス曰く。
「怪しいとは思っておりましたの。あちこちがあまりにもきな臭いんですもの、どんなお馬鹿さんでも気付きますわ」
とまあこんな具合である。
本人無意識に王家のことも公爵家のこともそのほかの外交官のこともディスりつつ、十二番目の婚約者が腐り切った売国奴であることを、彼女はとっとと自分の力で調べ上げ、挙句の果てにその証拠を婚約者の生家であるその『お馬鹿さん』以下の公爵家、果ては王家にまで突き付けて、自ら婚約破棄にまで持ち込んだのだという。
なんと十二回目の婚約破棄は、ヴァイオラのほうからだった、という訳だ。
だがしかし。
「よりにもよって王家ゆかりの公爵家令息の不祥事、表沙汰にはできませんもの」
度重なる婚約破棄に悩まされ、涙すら流した乙女とは思えぬ様子で、彼女はけろりとしたものだった。
仕方のないことだと微笑んで、ヴァイオラは「そういえば」と明日の天気でも歌うかのようにぽつりと“世間話”を持ち出した。
「ところで話は変わりますけれど、あの方は外交官としての仕事の間に、とある国にて『真実の愛』を見つけたんですって。その愛を貫くために、身分を捨ててその方のもとに走られたのだとか」
ほう、とうっとりするような溜息を吐くその姿に見惚れるアマデウスに気付くことなく、ヴァイオラはにこにこと続けた。
「真実の愛とは、そういう美しい形もあるものだと、あたくし、感銘を受けましたわ」
すっかり政治家の顔で、ほほほほ、とほくそ笑む彼女は、非常に上機嫌だった。
平たく言えば元公爵令息を国外追放にまで追い込んだ彼女は、対外的には自分が捨てられたことになっているというのに、まったく気にしていないようだった。
「王家と公爵家に大きな貸しが作れましたわ。ふふ、おかげであの無能が担っていた外交利権のすべてをエヴァランス家が引き受けることになりましたの」
ぐっと拳を握り、「これこそまさに結果オーライですわ!」と締めくくったヴァイオラは、トドメに「おーほほほほほほ!」とまた高笑いをキメていた。
その元婚約者が売国奴に成り下がるように仕向けたのがアマデウスであることには、流石に気付いていないようだった。
その事実に、信じられないほど安堵している自分がいたことこそが、青天の霹靂だった。
もしもこの事実がヴァイオラに知られたら?
間違いなく彼女は自分を赦さないだろう。
それは婚約者を奪われたからではなく、国益を損なわれたからこそ、彼女は怒髪天を衝くに違いない。
憤怒に燃える彼女の姿はきっと誰よりも美しいことだろう。
その姿が見てみたくて、けれど見るわけには決していかなくて。
だってその姿を見てしまったら。
――もうあかんやないの。
ああ、そうだ。
見るまでもなく、もう駄目だ。駄目だった。
とっくの昔に、駄目だったのだ。
ずり落ちかけた瓶底眼鏡をかけ直し、笑顔を取り繕って、そうしてアマデウスは、認め、諦め、そして決めた。
眼鏡のレンズに隠された、ただただ面倒事ばかりを招く諸悪の根源、もとい蒼穹眼は、皇国においては何よりも尊ばれる至尊の瞳だ。
すべてを見通すとされ、未来すら手に取るように理解できるという。
アマデウスがその瞳を持つことで、その伝承はより信ぴょう性を増した。
アマデウスは、そういう才覚を持ち合わせていた。
何もかもが基本的に想定内。
あらゆる可能性を網羅するのは瞳ではなく頭脳のほうであるのだけれど、この際そんなことは些末なのだろう。
その『想定内』を逸脱する存在が、ヴァイオラ・エヴァランスだった。
彼女の存在こそが、果てなき青空の下で初めて見つけた、唯一無二の菫の花。
青天の霹靂の象徴だった。
――そないな女の子を、友達だなんて思われへんやろ。
――おもちゃなんぞとんでもないわ。
――ビビちゃんは、ボクの惚れた女の子なんやなぁ。
その自覚がもたらしたのは、不思議な感動だった。
全身に染みわたるそれは、衝撃も何もなく、ただ当たり前のようにそこにあった。
そもそもあれだ。
これはもう最初っから一目惚れだったのでは? と後から自覚してまた天を仰いだし、とある駒がぼそりと「殿下、好きな女の子をいじめるのが許されるのは、五歳までですよ」と苦言を呈してきて、その件についてだけはぐうの音も出ずに「やかましわ」と吐き捨て切ることしかできなかった。
そうして、アマデウスは恋心を自覚した。
そこからは早かった。
さくさくさくさくとヴァイオラの外堀を埋め、さぁていよいよ皇国へ! と話を持ち込む運びとなった。
そう、今度こそすべて想定内のはずだった。
それなのに。




