159話 王城での暮らし
「アリエスの刻印が大変だと仰っても、あなた、袋に手を突っ込めば全ての石に刻印出来るじゃありませんか」
留学してきたネモの弟子や新米魔術師の訓練の合間、ネモを相手に愚痴るとそんな答えが返ってきた。
「出来なくはないですよ。でも石の真ん中にズレなく刻み込むには綺麗に並べて目視でやらないと駄目なんです」
「あのですね、あれは本来ひとつひとつ魔力の針で描くものなのです。机に百や二百と並べて、いっぺんに刻むあなたのやり方は、おかしい」
「いやおかしいって言われても……」
そうでもしなければとてもやっていられない。
あんな細かくて複雑な線をひとつひとつ引いていたら、数個で日が暮れてしまう。
「……まあいいですよ。スティクス候が仕事を投げてくれたおかげで兄の役に立ててますし、国庫は潤っているみたいだし。飽きるけど」
「飽きる、ねぇ。大抵の仕事はそもそもつまらないものですが……ああ、こらカイン。やり過ぎですよ。攻撃止め」
模擬戦で負傷者が出てしまったようだ。
遠目にそれを確認したネモが、号令をかけて中断する。
いつもの如く黒面をつけ、エミスフィリオとしてネモと話していたブレスは、大地を伝って魔力を流し、〈治癒〉を負傷者に届けた。
全身〈治癒〉まみれになった負傷者はぎょっとして顔を上げ、ブレスの面の不気味な笑みを見て怯えた表情を浮かべる。
「なんであんな怖がってんだろ」
「あー……それはあなたの能力とその出で立ちが異様すぎるからでしょう。もういい加減、城の生活や人々の目に晒されることにも慣れたでしょうに」
「それはそうですけど、やっぱり王弟オリビアだと動ける範囲が狭くて不便なんですって。面は必要なんです」
ウォルグランドの人々は刻印の魔術師エミスフィリオの正体を知っているが、留学生たちはそうではない。
最近は面をつける時は、髪紐を編み込んで髪も茶髪に変えている。
「イルダ達みたいに〈変貌〉が使えればいいんですけど、なんかあれ上手くできないんですよね」
「魔術にも向き不向きがありますからねぇ」
「コツとか無いんですかね……ってまずい、イルダが来た」
執務室から脱走したのがバレたのだろう。
イルダの目立つ金髪と鋭い気配が同時に現れ、ブレスは首を竦めた。
ぐるりと演習場を一周した青い目がブレスを捉えて吊り上がる。
ずんずんと大股にやってくる宮廷魔術師の姿に、留学生たちは慌てて姿勢を正した。
「オリビア……貴方はまた、こんな所へ勝手に……」
「オリビア? さて誰のことでしょうかイルダ様。私はエミスフィリオですが」
すっとぼけてみると従者のこめかみに青筋が浮いた。これはいけない。
「わかったごめん、今の無し。で、なんだよ。いつもだったらこんな時間に来ないじゃないか。兄さんから呼び出しか?」
なにかあったかなと訊ねてみれば、案の定そうだったようだ。
ここで話すような事でもない、と連行されることになった。
「はいはい……それではネモ様、また何日か後にでも」
「ええ、殿下」
「うわあ、もういい加減やめてくださいよ、その呼び方」
イルダがいるとこれだから嫌なのだ。
立ち上がりお辞儀をしたネモに倣い、留学生たちも一斉に敬礼をする。
やれやれと首を振りつつ肩に飛び乗った黒猫を撫で、演習場を後にした。
「また抜け出したのだって?」
王の執務室に入るなり、面白がった様子で兄はそう言った。
心配顔のレシャとお疲れ気味のターミガンと不機嫌なイルダに囲まれ、あまりの居心地の悪さに皆に聞こえないように小さくため息をつく。
やはり面は必要だ。
「陛下、その件につきましてはお詫び申し上げますが、私にも様々な事情がございまして」
「オリビア、とりあえずちゃんと話がしたいので面を外してはくれないだろうか」
「ええ……?」
「そんな嫌そうな声を出さないでくれ」
吹き出しそうに拳で口元を抑えた兄を前に、ブレスは仕方なく肩を落として面を外した。
茶髪の髪紐をほどいて赤毛に戻る。
ばさりと床に落ちた伸びすぎの髪を、背後のイルダが取り上げて手早く纏めた。
切っても切っても伸びるので、最近はそれも面倒になって従者に任せ切りだ。
「兄さん、面をつけている私にオリビアと呼びかけるのはやめてください。意味ないじゃないですか。イルダも」
「人前ではそうしているだろう」
「ウォルグリア家の皆さんは人に含まれないんですか?」
「宮廷魔術師に隠しごとをしても無益だ。それとこれとは話は別。それで、本題だが」
すっと顔つきの変わったフェインを見、ブレスも口を閉じた。
兄の執務机には地図が広げられている。
それを見て直感した。いざこざだ。
「隣国のトルシアで小競り合いが起きている。トルシアの領土が広がったことによって、土地を欲したタイニスカとの国境争いが勃発したようだ」
タイニスカ。タイニスカってどこだ。
地図を見下ろすと、海岸沿いにウォルグランドがあり、その隣にトルシアがあり、その東側にタイニスカという国があった。
トルシアは元帝国とタイニスカに挟まれる位置に存在している。
「ようやっと平和になったうちの国の目と鼻の先で、不要な争いを始めようだなんて……ああそう」
こめかみの辺りで冷たい苛立ちがちりちりと燃える。
ちらりとフェインが視線を上げ、背後のイルダが咳払いをし、肩に乗った黒猫に耳を噛まれた。
何するんだ。
「……ええと、タイニスカの主戦力は歩兵と騎兵ですか? 魔女とか高名な魔術師がついている、ということは」
「タイニスカにも宮廷魔術師はいるが、呪術に長けているという話は聞かぬな。星詠みはするようだが、他国の魔術師との交渉役として形式上据え置かれているような小者に過ぎぬ」
「小者って言い方はどうかと思うよ、ターミガン。その人だって好きで宮廷魔術師やってるとは限らないじゃないか。お前には解らないかもしれないけど、分不相応な地位って大変なんだぞ」
色々と言いたい事を飲み込んで押し黙ったターミガンに、甥っ子ふたりが同情の目を向けた。
とにかく、とブレスは頷く。
「まあいいや。わかりました、じゃあ小競り合いの今のうちに武装解除してきます。いつもと同じでいいですか」
「そうだね。タイニスカと私の代のウォルグランドが関わりを持つのは初めてのことだから、君は牽制だけしてくれればいい。敵意は抱かせない程度に」
「はい。では、行って参ります」
イルダが纏めてくれた赤毛に茶色の髪紐を適当に結んで、再び黒面を着けて執務室を出る。
適当な窓から出て城壁に立ち、ブレスは影に呼びかけた。
「テンテラ、お散歩に行くよ」
「飛んでいい?」
「いいよ」
影から這い出してきた男児が緑の目を嬉しげに瞬いて城壁から飛び降り、一瞬で竜の姿へ。
同じく飛び降りたブレスはそのままテンテラに乗って、空へ舞い上がった。
変化が起これば周囲も連動して変わっていく。
ウォルグランドは一応は国として安定し始めているが、変化の煽りを受けた周辺諸国は揺れ始めている。
それに漬け込み欲をかいた者が問題を起こせば、責められるのはフェインだ。
そうならないように勃発した諍いを納めに行くのが、フェインの懐刀である刻印の魔術師、エミスフィリオの最も重要な仕事である。
世界で最も速く飛ぶ生き物である竜に乗れば、隣国の国境などあっという間だ。
トルシアやバドリアとは元帝国の国土を分け合った際に不可侵条約を結んでいる。
魔術師エミスフィリオも紹介済みなので、隣国は上空を竜が飛んでいっても、今更騒ぎ立てはしない。
「あ、あそこかな……」
国境の城壁を挟んでトルシア軍とタイニスカ軍らしき一団が睨み合っていた。
今にも弓が放たれようとしている。
小競り合いと言うには些か物々しいが、やることは同じだ。
「テンテラ、ちょっと低く飛んでくれ」
『ちょっと?』
「微風が届くくらいの高さ」
テンテラが高度を下げると同時に、ブレスは風に呼びかけた。
伸びすぎて邪魔くさい髪を適当にばっさりと切って、風の精霊に支払う。
集まってきた微風に〈霧散〉と〈腐食〉を乗せて送り返すと、風に撫でられた鎧や武器がみるみるうちに錆びついてがらくたになった。
頭上を過ぎる竜の影にトルシア兵は安堵を浮かべ、敵軍はわけがわからず隊列はぐちゃぐちゃ。
「本当に出た」という叫び声が風に乗って届く。
やや気まずい思いでブレスは苦笑いを浮かべる。
「さては侵略を口実に、竜に乗った魔術師の存在の真偽を確かめにきたな……」
こういうことがあるので、エミスフィリオの出動はこれ見よがしに行われる。
目立つように、見せつけるように。他国への抑止力となるように。
撤退してゆくタイニスカの兵の背に弓が向けられているのを見、ブレスは再び風を操って胸壁のトルシア兵をも武装解除した。
喧嘩両成敗がウォルグランドのフェイン王の方針だ。
そうでなければ竜に護られることをかさにきて、どこかの国が慢心するとも限らない。
しばらく上空を飛び回り、敵軍が完全に撤退したことを確認した。
任務完了を兄の〈耳〉へ伝える。
帰ろうかなと考えていると、トルシアの国境を守る城壁の上で男が大腕を振って合図していた。
「あれは……兄さん、国境の城壁で私を呼んでいるらしい人がいるのですが、どうしましょうか」
「刻印の魔術師との個人的な交流は禁じている。降りずに戻っておいで」
「了解です」
ブレスが喋るといろいろとボロが出る。
そもそも魔術師は主人の手先なので、主人不在の場で勝手に声をかけるのも規律違反だ。
ぐるりと男の頭上を一周し、ブレスは城へ戻って行った。
「……ああ疲れた……」
城壁に降り立ち、ブレスは腰を下ろした。
竜から子供の姿に戻ったテンテラが、爬虫類の目で横から覗きこんだ。
「下僕、弱い」
「はは……そうだね、人間は竜と比べたら弱いよ」
「テンテラ頑張った。下僕はテンテラを撫でるべきだ」
「はいはい。ありがとうテンテラ」
そういえば以前、カナンに撫でられるクルイークに嫉妬して、撫でろ撫でろと騒いでいたことがあったっけ。
言われるがままに男児の頭を撫でていると、中庭から声がかかった。
イルダだった。
「オリビア、体調は問題ないか」
「ああ、うん。だいぶ体力もついたんじゃないかな」
竜に乗って飛び回り、風を操り大勢に刻印を流して「疲れた」で済んだのだから、ずいぶん回復したと思う。
ふうとため息をついて背後に体重を傾け、中庭へ自由落下して地面に激突する直前に風を纏う。
そのまま芝生の上に寝そべって秋空を見上げていると、執務室の窓が空いてフェインが顔を出した。
「早かったね。大事ないか」
「はい。タイニスカも本気で攻めて来たわけじゃなかったみたいですよ」
「……なるほどね。解った。君は今日はもう休むといい」
「お気遣いありがとうございます」
お疲れ様と労う兄の微笑に面を外して応え、起き上がる。
城壁から降って来たテンテラが、そのままブレスの影に飛び込んだ。
芝に胡座をかいたまま、従者を見上げる。
「だそうだから、今日はもう仕事はしない。ちょっとその辺散歩してくるから、顔を変えてくれ」
「休むという言葉の意味について擦り合わせが必要なようだな」
「部屋で寝てたって体力はつかないんだよ」
「いま眠るか明日寝込むかの違いだろうが」
「……」
それは確かにそうかもしれない。
降参して両手を上げ、「湯浴みして休む」と大人しく立ち上がると、従者は頷いて着替えを取りに行った。
休むと決めた途端あくびが出たので、結局イルダの言葉は正しかったようだ。
「……ままならないな」
西に来てから、もう一年が経とうとしている。
なんだか寝てばかりの身分だ。
そんなふうに秋を過ごし、冬がやって来た。
困ったことに冬に差し掛かった季節から空咳がぶり返した。
呪いを受けた時期と一致するので、魂と癒着した呪いの影響だろうとネモは診断した。
ミシェリーも同意見だった。
新しく宮廷医となったシエスタという名の女医も、今のところは肺はきれいだと言っていた。
「湿っぽい咳にならないうちは大丈夫だって、皆言ってたじゃないか」
「呪いを受けた時だって、始めは空咳だった。忘れたのか」
ちょっと疲れて微熱が出るだけで不安に青ざめるイルダを、大袈裟だと思ったのはブレスだけだったようだ。
咳き込むたびに心配そうな視線があちこちから向くので、冬の間は執務室や私室にこもって過ごすことが増えた。
刻印師の仕事は部屋にこもっていても出来る。
守りの魔術具を作り、アリエスの石を刻印する。
届くかわからないがシルヴェストリへの報告書も、書いて出した。
幸い冬は戦もなく、刻印の魔術師の出番も少ない。
金も人手もかかる戦を実りのない冬にしかけて、わざわざ国庫の備蓄を減らすような無駄なことは、まともな国はしない。
そうして気怠い冬が終わると、爽快な春が訪れた。
春になって蘇ったかのように元気になったブレスを見、王城の人々は心底安堵したようだ。
公の席では王弟オリビアとして振る舞い、普段と有事の際は刻印の魔術師エミスフィリオとして過ごすうちに、そうして次の一年もあっという間に過ぎていった。
そしてブレスが西にやって来て三年目、王妃となったカリーシアは一人目の王子を無事出産した。
こうして命は繋がれていくのか。
ふにゃふにゃと元気に泣く王子を見下ろし、喜びを感じながらも、ブレスは心のどこかで思うのだった。
もう大丈夫だろうか、と。