158話 移ろうもの
ウミネコが鳴いている。
魔女たちが去った後、潮風に舞う海鳥をぼんやりと見上げながら、ブレスは目を細めた。
沈みゆく夕日がまばゆい。
「カナン先生……今更なんですけど。あの海竜が人型を取れるんだったら、俺の影から引っ張り出すときも人型になってもらえば良かったのではありませんか?」
海辺で日光浴をしつつ流木に腰を下ろして一日を過ごし、沈みゆく太陽を眺めながら、カナンへ問う。
今日は休日をもらったらしいイルダも、エトルリアから弟子たちが来るまでは暇なネモも、会話に耳を傾けている。
「生後一日のレヴィアタンが人型になれるはずないでしょう」
「だけど、生後数ヶ月で人型になれるというのも、変な話じゃないですか」
魔物や魔獣がが人型を取れるようになるまでには、使役として百年くらいを過ごさなければならないはずだ。
そこまで考えて、ふと思い当たったことがひとつ。
「脱皮ですか」
「ああ」
竜は三度脱皮する。
脱皮のたびに、竜はサタナキアから特別な力を授かる。
テンテラは一度目の脱皮で変化の力を授かり、二度目の脱皮で未来を知る力を授かった。
「海のけものは僕の影の中で一度目の脱皮をして、変化の力を得た、という事です」
「なるほど……」
「この冬は僕も大変だったのですよ。影の中で暴れるテンテラがレヴィアタンに説得されるまで、竜二頭を押さえつけていなければならなかったのだから」
「……わお」
それはひどい。
そんな状況でカナンは眠れたのだろうか。
精霊の森にやってきたカナンがやや眠たげだった理由は、きっとそれに違いない。
「君の影からあの子を引きずり出し、テンテラに巻き付いたレヴィアタンごと僕の影に閉じ込めたと思いきや……冬眠中に二頭がやたらと仲良くなってしまったおかげで、海に帰りたくないとぐずってまた僕の影のなかで暴れて……まったく」
「お疲れ様です」
それしか言えない。
じろりと金色の目で睨まれ、ブレスはいつもの半笑いを浮かべる。
春真っ盛りとはいえ、夕日の海辺の風はまだ冷たかった。
首筋を撫でた潮風に肩にひっかけていたローブの前を引き寄せつつ、背中の辺りに〈加温〉を刻印する。
そんな様子を、過保護なイルダは後ろから見ていたのだろう。
「冬の君、申し訳ありませんが……オリビア様をそろそろ引き取らせて頂いても宜しいでしょうか」
「もう帰るの」
イルダの淡々とした言葉に顔を上げると、今度は上から青い目でじろりと睨まれた。
まったく、方々から睨まれてばかりだ。
仕方がない。
夜の海に浮かぶ月を見たかったな、と思いつつ立ち上がって砂を払った。
「城は窮屈か?」
ブレスの首に触れ、再び〈変貌〉で顔を変えながら、イルダが呟くように言った。
困って目を逸らすブレスを見、「無理もないか」と彼は目を伏せる。
「そのうち貴方の体力が戻ったら、週に何日か出かける時間を取れるよう、陛下に掛け合ってみればいい」
「いいの?」
「貴族や王族が忍んで出かけることは、別段珍しいことではない。ただしひとりでは駄目だ。それに先程も言ったように、体力が戻ってからだぞ」
「じゃあ、早く健康体にならないと。イルダのお陰でやる気が出たよ。やっぱりご褒美がなきゃ頑張れないな」
報酬は大切だ。
明日からなるべくたくさん食べよう。
急にやる気を出したブレスを呆れ気味に眺めたイルダは、ちらりと流木に腰掛けたままのカナンを気遣わしげに振り返った。
「あれ、先生はまだここに居るんですか?」
「ああ。戻るなら戻りなさい」
いつも通りの素っ気ない返事だった。
客人を一人置いていくわけにはいかないというイルダの言い分によって、ネモもまた帰り支度を始める。
レシャの〈耳〉に向かってこれから帰ることを伝えたイルダは、もう一度カナンを振り向いた。
気がかりそうな目だ。
「なんだ、どうかしたのかイルダ」
「……いいや」
なんでもないと首を振り、カナンの背に向かって一礼する。
その様子がまるでお別れみたいだと気づいたのは、城に帰って夕食や湯浴みを済ませ、ベッドに入った後だった。
イルダは直感していたのかもしれない。
翌日以降、カナンは城に現れなくなった。
無言で弟子を置いていくなんて酷い師匠もいたものだ。
そう思う一方で、仕方がないことだと理解している自分もいた。
カナンはプライラルムの声に導かれて、今年の旅に出掛けたのだろう。
そして、そんな彼が置いていったのは、弟子だけではなかった。
カナリアが去った翌日の朝、なんと黒髪に緑の目の男児が枕元に立ってブレスを見つめていたのだ。
「カナリアは下僕のそばで、人間のことを学べってテンテラに言った。テンテラ、カナリアの命令に従う」
「……ああそう」
いつものように起こしに来て驚いて足を止めたイルダの目の前で、テンテラはブレスの指を齧って血を舐めた。
使役に下るのではない。一時的に預かるだけだ。
「テンテラの方が上だ。下僕は下僕なんだからな」
はいはい、と適当に答えるブレスの影に滑り込んだ漆黒の竜の子は、そうしてブレスと血で繋がった。
テンテラを置いていったのだから、これが今生の別れということでもない。
その上カナンは、城の中心人物たちからカナリアに関する記憶を消しては行かなかった。
カナンはいつかきっと戻ってくる。
別れは寂しかったけれどそれがわかっていたので、ブレスは気まぐれな冬の神の、今年の旅の成功を天へ祈った。
変化と言えばもうひとつある。
帝国の生き残りの皇女カリーシアとフェインが正式に婚約したのだ。
カリーシア皇女は今年で十六歳、西ではちょうど成人を迎えた年頃である。
フェインが二十三歳なので、やや歳は離れているが、王の妻が歳若いことは珍しいことではない。
帝国を切り分け、帝国と国境の接していたウォルグランドとトルシアとバドリアで分配したことにより、一部の帝国人はフェインの民となった。
その民をウォルグランドの民が軽んじることのないようにと、フェインはカリーシアを正妃に選んだのだ。
王族を増やさなければならないフェインは、二番目以降の妻もそのうちどこかの国からもらうのだろうけれど、「きちんと婚姻するまではどこの国の姫とも会わないし、愛人も不要だ」と笑顔で縁談をぶった切っているらしい。
娘を差し出して縁を繋ぎたい他国の古狸たちは、埒が明かないと落胆したとかなんとか。
ついでに王弟オリビアへの縁談もばっさりと切り捨ててくれているので、ブレスは大変助かっている。
カリーシアはどうか。
メロエの魔の手から助け出された彼女は、あれ以来離宮で静かに暮らしている。
ウォルグランドの侍女たちに囲まれた生活にも、徐々に慣れ始めているようだ。
「けれど……なかなか心を開いてくれないのだよ。困ったことに」
ある日の朝食の席で、フェインはやや疲れた様子でそうこぼした。
たいていの事はそつなくこなす兄がカリーシアに手を焼いているのは、やはり父親の処刑のことがあるためだろうか。
「オリビア、一度カリーシアと会ってやってくれないか。彼女には信頼出来る話し相手が必要だ」
「え……でも、兄さんの婚約者ですよ。未婚のうちに私が彼女に逢いに行くというのは、色々とまずいのではありませんか?」
第一、ガヌロン帝の首をはねたのは他ならぬブレスである。
元々死ぬ運命にあり、正気を失っていたとはいえ、父親を殺した当の人間をカリーシアが信頼するだろうか。
それを遠回しに伝えると、フェインも「それもそうだね」と納得していつも通りの苦笑を浮かべた。
女性の話し相手がいればいいのだが、感情面が発達途上のエルシェマリアに、複雑な立場の皇女の話し相手が務まるとも思えない。
……という相談を、ブレスは私室の窓から城の屋根へ出てきて日光浴をしながらミシェリーに向けた。
「マリー様が居てくれたら良かったんだけどね」
『どうかしらね。サハナドールは男女のあれこれには単純だったから、複雑な乙女の心境なんて聞いていられないかもしれニャいわ』
「そっか……ん?」
と、ミシェリーの言い分をそこまで聞いてブレスは思った。
カリーシアも、この世界一可愛くて綺麗な黒猫にならば、心を許すのではなかろうか、と。
結論から言えばカリーシアは猫好きだった。
時折現れる不思議な喋る黒猫に夢中になった彼女は、ミシェリーの言うことによると「不安で寂しかった」のだそうだ。
『父親の処刑については悲しんではいるけど、憎んではいないみたいよ。処刑日に父親ときょうだいたちと過ごせたあの時間で、彼女も色々と受け入れたと言っていたわ。
けど、夫に愛されなくて魔女になった叔母がいたせいで、政略結婚に不安があるみたい。無理もニャいわね。オマケにフェインは忙しくて、滅多に離宮に足を運ばないらしいじゃない』
ミシェリーから聞いた話を朝食の席で伝えると、フェインはたいそう納得してすぐさま行動した。
猫好きの彼女に子猫を贈り、正午のお茶の時間になると毎日離宮を訪ねた。
親しくない相手との食事は気疲れするだろうと、お茶の時間にしたそうだ。
だいたいいつも他愛のない話をして、時間になると紳士的に別れを惜しみつつ下がる。
そんな生活がふた月ほど続くと、カリーシアも徐々にフェインに心を開くようになった。
最近はお茶の時間ではなく、夕食の時間を共に過ごしているらしい。
彼女が朝食の席に姿を見せるのも、そう遠いことでは無いだろう。
妹のエルシェマリアは、神事を司る象徴としてウォルグランドの神殿に君臨することになった。
彼女は魂に刻まれたブレスの刻印に魔力を流すことによって、内側から光り輝く身体である。
一見おかしな体質だが、ちまたではそれを見た人々が彼女を聖女だと噂していたらしい。
これをフェインが利用しないはずがなく、エルシェマリアはあっという間にウォルグランドの聖女に仕立てあげられてしまった。
信仰と王家が結び付けば、政治はたいそう楽になる。
よって妹の婚約もしばらくは延期となり、鬱陶しいダンスや礼儀作法の教育からつかの間開放されたエルシェマリアは、ご機嫌で日々を過ごしている。
そして王弟オリビアことブレスは、と言えば。
「なんで中央の分まで仕事しなきゃいけないかなぁ……」
現在、執務室で山積みとなった黒い石に、延々と古代王アリエスの印を刻印していた。
これは資格を得た魔術師の身分証でもある、証のペンダントに加工される「アリエスの石」だ。
この印は極めて線が複雑で、小数の限られた刻印師しか刻印できないものである──らしい。
アリエスの石のペンダントは譲渡できないため、数年に一度の国家試験の合格者のために新しい石を用意しなくてはならない。
ところが中央の石を賄っていた先代の刻印師が、なんと半年前に仕事を放り出して失踪してしまった。
彼の住居には、大量の無印の石と、「もうこんなちまちました仕事やっていられるか!」という書きなぐりの置き手紙が残されていたという。
中央でアリエスの印を刻印できる魔術師が居なくなったことにより、中央は深刻な石不足に陥った。
アリエスの石はただの石では無い。
魔術師の掟に従う事を誓わせ、それに反する行いをした場合に罰を下す、首輪である。
この誓いで縛らないことには、魔術師も魔女も同じになってしまう。
中央は困った。石なくしては新たな魔術師を輩出できない。
そんな困った中央に、朗報を運んだ男がいた。
エトルリア王国のスティクス候アナクサゴラスである。
彼は言った。
西大陸、冬の戦であの暴虐を極めし帝国を打ち倒し見事返り咲いたウォルグランドという小国には、数千の人間相手に一度で〈失神〉の印を流す、刻印の魔術師がいる。
困り果てていた中央は、半信半疑ながらもアナクサゴラスの話に飛びついた。
エトルリアとウォルグランドが協力関係にあることは周知の事実である。
中央諸国に交渉仲介を依頼されたアナクサゴラスは、ウォルグランドへ留学する魔術師たちの乗る船に無印の黒い石をしこたま積んでウォルグランドへ送り付けた。
そして、留学のため渡航してきた弟子から話を聞いたネモによって、中央の石不足と積荷の話は無事フェイン王へ届けられたというわけである。
兄から話を聞いたブレスは「そんな重要なうえ難しい仕事なんか出来るわけないでしょ!?」と目を剥いて仰天した。
しかし「試しにやってご覧」と兄に唆されて渋々ひとつ石を取ってみると、困った事に出来てしまったのである。
アリエスの印の刻印が、寸分の狂いもなく。
それも、きちんと濃い金色に。
というわけで、中央に新たな刻印師が現れるまでアリエスの石の刻印はブレスの仕事になってしまった。
毎日毎日、山積みの石に印を刻む日々である。
おかげでウォルグランドは大変儲かっているらしい。
そしてきっちり仲介料をとっているアナクサゴラスの領地も、大変潤っているのだそうだ。
まったく、ネモ共々食えない男である。