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157話 また逢う日まで

 

 数日後の朝、いつものように中庭にやってきたブレスを見てカナンが歩いてきた。

 普段は声をかけない限り動かない師が自ら動いたのだから、なにか用があるのだ。


 中庭に送ってくれたイルダをつかまえたまま、どうかしたんですかと問うと、カナンは「海に行こう」と言った。


「レヴィアタンを海に返しに行く」


 外出を〈耳〉を通してレシャへ報告するイルダを待ちつつ、カナンと共に城壁の上に立つ。


 ふと視線を感じて振り返ると、窓越しにネモと目が合った。

 アナクサゴラスに置き去りにされた彼は大切な客人として、側近たちと共に城で寝泊まりをしている。


 なにやら羨ましそうな顔をしている彼に笑って手招きをすると、ネモはすぐに窓を開けて飛んできて、ブレスの隣に立った。


「おはようございます、冬のお方、殿下」

「殿下って」

「そうですね。君もいい加減、僕を遠回しに呼ぶのをやめてもいい頃だ。カナンと呼んでください」

「なんですと……!? カ、カナン様……!」


 ネモが雷に撃たれたように硬直し、歓喜にぶるぶると震えるのを横目に、ブレスは中庭のイルダを見下ろした。


 城壁に立っていると色んなものがよく見える。

 壁に守られた城と、外側に立ち並ぶ家々を見比べていると、どうしても壁の外へ出ていきたくなってしまう。


 うずうずして堪らない。国の端から端まで歩き回りたい。

 従者に怒られるので、行けないけれど。


 ふう、とこぼれたため息は春風にさらわれて掻き消えた。


 連絡を終えたイルダが上昇して隣に立つ。

 手渡された黒ローブを被って赤毛を隠すと、イルダが黒手袋を外してブレスの首に触れる。


「ああ、顔を変えてくれたのか」

「貴方は有名だからな」

「はは……便利だよなあ、その魔術。俺も練習しようかな」

「やめろ」


 苦々しい顔ですぐさま止めにかかったイルダは、きっとブレスが何を考えているかなんてお見通しなのだろう。

 カナンが風を呼んで舞い上がり、皆がそれに続いた。


 早起きの農夫たちが、頭上を飛ぶ魔術師たちを珍しくもない様子で見上げている。

 この国の民にとって、空を飛び行く魔術師なんて鳥のようなものだ。


 王城から西側に飛んで森林を越えると海岸がある。

 ブーツを脱ぎ、白い砂を裸足で踏むとキュッキュッと音が鳴る。鳴き砂だ。


 流木や貝殻の散らばる広い砂浜を前に、自然と笑みが浮かんだ。

 黒ローブを脱ぎ捨ててそのまま海に入っていくブレスを、イルダは止めなかった。


 カナンも髪や衣の裾が濡れるのにも構わずに、白い波の打ち寄せる海に踏み入る。

 ネモとイルダは波打ち際でそれを見つめている。


 ざぶんと頭まで海水に潜ると、見知った珊瑚色の髪が視界を過った。

 ひとりやふたりではない。


 驚いて海面に顔を出すと、ローレライたちが親しげに笑いながらブレスに海水を掬って浴びせかけた。


「なんだよ、こんなところまで来るなんてどうしたんだ」

「海のけものを迎えにきたのだ」


 懐かしい声が言う。

 振り向けば、白人魚のマルガリーテースが海の目でブレスを見つめていた。


「そうか。大切な生き物がなかなか戻ってこないから、来てくれたんだ。でも大丈夫かな。伝説上のレヴィアタンってすごい凶暴な生き物みたいだけど」


「これまではそうだった。だが、此度の海のけものは人の心を学んだ。お前の影の中で過ごした一日が、あの生き物を変えたのだ」


 そっか、とブレスは笑う。マルガリーテースの目は優しい。

 レヴィアタンが変わったことは、潮の眷属にとってけして悪いことではないのだろう。


「オリビア、あまり沖へ行くな」


 耳飾りに刻まれたイルダの〈耳〉から声が流れてくる。

 気づけばだいぶ浜辺から離れていた。


「このまま私たちと海底で暮らさないか」


 思いもよらない誘いだった。

 どういうつもりだろうかと首を傾げるブレスに、白い髪と尾の人魚(メロウ)は言う。


「海のけものはお前を気に入っている。私も、娘たちもそうだ。お前のような人の子に、人間の世界は窮屈ではないか」


「……うん、まあ……そう思わないと言えば嘘になるかも知れない」


 足元をイルカが泳ぎ抜けてゆく。たしかに海は自由だろうな、とも思う。

 一瞬だけ迷った。ブレスは苦笑を浮かべて首を振る。


「でも行けないや。少なくとも今は行けない。百年後に同じ気持ちだったらまた誘って」

「そうか。ではそうしよう」

「今もあの島……ええと、マルメーレ諸島だっけ? あのあたりに棲んでいるのか」

「私たちはどこにでも行く」

「じゃあ時々この浜辺にもおいでよ。スピカもきっと喜ぶ」


 魚影の泳ぎ回る海の目が、優しい笑みに細められた。

 同時に近くで大波が起こる。


 巻き込まれてざぶんと海に沈むと、本来の姿を取り戻したレヴィアタンが小山のようにそこにいた。


 あの口が開いたらあっという間に飲み込まれてしまうだろうなあ、と呑気に考えてると、レヴィアタンは大きな海の目でブレスを捉えた。


『下僕、レビは海に帰る』

「うわあ、わかったからもうちょっと静かに喋ってくれ」


 鼓膜が破れそうだ。

 大音量に耳を塞いだのはローレライたちも同じだった。

 その様子に目を瞬いたレヴィアタンは、会話を念話に切り替えて続ける。


(レビは深い深い海の底でしばらく眠る。次に起きるのは二百三十年後だ)

「……またその数字か」


 春の乙女プライラルムが次に降臨するのも、二百三十年後だと言っていた。


(時が来たら、下僕はレビに会いに来る。レビも下僕を探す。レビと下僕が再会した時、穢れたものが現れて海を脅かす。下僕はそれを殺さなければならない)


「……えっと、レビ。いいのか、そんな未来のことを一介の人間なんかに教えちゃっても。春の女神は秘密だって言ってたぞ?」


(海の王が言ってた。陸のことと海のことは別だからいいって)


「そっか、二百三十年後は陸も海も大変なことになってるってことか。うわあ……」


 なんとも気の重くなる話だ。

 海中でため息をつくブレスを鼻先に乗せて海上へ運びながら、レヴィアタンはクルルルとクジラのように高い音で歌う。


(レビを忘れるな。下僕はちゃんと会いに来なくてはいけない)

「……わかったよ。約束する」

(なら、いい)


 満足げな海竜の念話は、それを最後に途絶えた。

 竜の子はマルガリーテースやローレライ達と共に、大きな体をうねらせ大波を起こしながら海の底へと去っていった。


「……なんだかまた余計な事を知ってしまったなぁ」

「それが君の運命(さだめ)なのだろう」


 裸足で海面を歩いてやって来たカナンが答える。

 ブレスは濡髪を掻き上げて水平線を見つめる。


 まったく、厄介な星の巡りの元に生まれてしまったものだ。


 そんな事を考えていると、〈耳〉の通信が復活した。


「オリビア、無事なのか。返事くらいしろ!」

「あれ、海の中って〈耳〉が届かないのか。ああそっか、これは風の精霊の力を借りた魔術だから?」


 焦燥の滲んだ声に大丈夫だよと答えながら、遠く離れてしまった浜辺へ向かって泳ぐ。

 相変わらず体力はないが、溺れないうえ、陸よりも体は軽い。


 のんびりと泳いで戻り、地に足をつけると、遠目に海竜を見ていたネモとイルダがなんとも微妙な表情でブレスを見下ろしていた。


「あなた、なんだかどんどん人間離れしていきますねぇ」

「サタナキアが五柱目の神を作ってウォルグランドに授けたという唄も、そのうち実話になるのかもしれないな」


 そんなたわごとを言い始めたイルダは、どこまでも真顔だった。

 彼らは神々を知らないからそんなことが言えるのだ。


「馬鹿なこと言うんじゃないよ……」


 乾いた砂浜に脚を投げ出し、風を呼んで衣を乾かしながら、ブレスは疲れて空を仰ぐ。


 ──二百三十年後か。

 まだ十八年しか生きていないブレスにとって、途方もなく遠い未来だ。


 そうして数日ぶりの外の世界を満喫していると、遠くに十数の人影が現れた。

 イルダとネモが警戒の姿勢を取るのを横目に、ブレスは片手を上げて大きく振った。


 先頭を歩いているのは豪奢な赤毛の魔女と金髪の若い娘。

 あれは魔女会の御一行である。


「わたし、エルシオンに帰ろうと思って」


 やってきたエチカはブレスの隣に座ってそう言った。

 ああ、とうとうその日が来たのか、とブレスは目を伏せて頷く。


「そっか。ウォルフが待ってるもんな。デイナさんも」

「ええ。母様との問題も解決したから、もうここに留まる理由がないの」

「うん……」


 寂しく思いながら砂を見つめる。

 エチカの居場所はここではない。

 問題が片付いたのだから、居場所に帰ることは当然のこと。


「あのね、わたし……こんなこと言うのって、変だと解っているんだけど」

「なに、エチカ」

「あの日、フィルを後ろから刺して、良かったわ」


 なんだそれ。

 思わず笑ってしまったブレスの首に、エチカの両腕が回る。

 さよならの抱擁か。

 彼女の背に片腕を回すと、「また会えるわよね」と涙声が耳元で呟く。


「もちろんだよ」

「近くに来ることがあったら、エルシオンに寄ってよ」

「うん……わかった」

「届くかわからないけど、手紙を出すわ」

「ありがとう。待ってる」


 ぐすんと鼻を鳴らす彼女の手を取り、自分の手首からエチカの手首へ、守りの腕輪を移動させた。


「エチカが無事に帰れますように」


 祈りの言葉を呟くと、エチカは涙を振り払いながら元気に笑う。


「あら、大丈夫よ。だって母様が一緒だもの。ウォルフのことを話したらね、そりゃあ会わなくちゃねって、一緒にエルシオンに来てくれることになったの」


「それは心強い旅の同行者だね」


 顔を上げてマリーを見上げれば、マリーはふふんと得意げに胸を張っている。

 ウォルフは無事で済むだろうか。

 どうか親友が浮気なんてしていませんように。


 煙管(キセル)をふかしながらマリーの隣に立った書の魔女が、呆れた様子で肩をすくめる。


「人間のお別れは大袈裟だねぇ。会おうと思えばまたいつだって会えるじゃないか」


「書の魔女、人間にとって数ヶ月の船旅の距離は遠いんですよ。誰もが竜の友を持っているわけでもないですし」


「そうかい」


「おまけにフィーは王子様だからねぇ。あ、フェインが王になったから、王子じゃなくって王弟だっけ?」


「はは……いまだにしっくりこない立場ですけどね」


 彼女たちに答えながらブレスは思う。

 女神サハナドールと夜の国の初代女帝に挟まれても平然としているエチカは、明らかに旅の前とは変わった。


 ちょっとやそっとでは動じなくなったエチカが、ウォルフで満足出来るだろうか。


 頑張れウォルフ。

 ブレスは親友の成長を応援する。


 嵐の魔女リリカルがやってきて、ブレスをぎゅっと抱き寄せた。

 寂しがりの子供のような抱擁だった。

 思わずリリカルの頭を撫でる。


「……もう! フィーってばあたしのこと何歳だって思ってるんだ! 子供扱いされるとムカつくんだけど!」

「すみません、つい」


 怒ってブレスを突き放す彼女の目は、マリダスピルの改名祝いのお別れの時と同じように潤んでいる。


「お別れなんかしたくないんだ……でもあたし、魔女だからここにはいられない。こんな真っ当な世界じゃ、魔女は幸せになれないの。嫉妬の闇に食われてしまうから」


 嫉妬の闇、それがどんなに怖いものかを、今のブレスは知っている。

 だから彼女たちは人里から離れて暮らしているのだ。


 彼女たちの中に巣食う闇の獣を刺激しないように。

 手に入らないと解っているものに囲まれて暮らすのは、苦しいことだから。

 でも。


「……あなたが魔女でも、俺はあなたの笑顔にたくさん救ってもらいました。幸せになって欲しいな。あなたが心地よく暮らせる、あなたの居場所で」


 影や闇は、誰もが抱えているものだ。

 感じてしまうことは、けして罪などではない。

 悪感情を制御している彼女たちは立派だ。

 心からそう思う。


「あはは……また振られちゃったよぅ」


 リリカルはくしゃっと眉を下げて笑い、頬の涙を乱暴に拭った。

 魔女たちの輪に駆け戻ってゆくリリカルの三つ編みが、彼女の背中でぴょんぴょんと跳ねていた。


「魔女会の魔女を一度ならず二度までも泣かせるとは……本当にろくでもない、嫌な魔術師だねぇ」

「フィーじゃなかったら八つ裂きだよねー」


 書の魔女が嵐の魔女の背を撫でつつ煙を吐き、マリーが棒読みでそう言いつつきらりと深紅の目を光らせる。

 魔女たちに囲まれたリリカルが、フィー、とブレスに呼びかけた。


「フィーは何百年も何千年も長生きするんだよね! だったら気が向いたらでいいからさ、そのうちのちょっとだけでいいから、あたしのこと見てくれないかな。ほんの五十年くらいでいいから……あたし、ずっと待ってるからね!」


 リリカルは遠ざかりながら、そんな空元気を振り撒いて去っていった。

 彼女の家族であるたくさんの魔女たちと共に。


 やりとりをビクビクしながら聞いていたネモが、背後で「魔女たらし」と心外なことを呟く。


「しかし、エミスフィリオ。世界で選りすぐりの強力な魔女たちに名を知られてなお、利用されることも縛られることもなく生きていられるとは。いよいよ常識から外れてしまいましたね」


 カナンが今更なことを呟く。


「俺を常識外に連れ出したのはカナン先生ですけどね」


 半笑いで振り返り、生意気に反論した弟子の額をカナンが弾いた。

 魔女たちが去るまで気配を絶っていたイルダが戻ってきて、羨ましげにそれを眺めていたネモを怪訝に見つめている。


 またいつか会えるだろう。

 エチカにも、魔女たちにも。


「……会えるといいなぁ」

「会える。その気になれば、いつだって会いに行ける」


 イルダの言葉に微笑して、彼女たちと別れた。


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