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156話 三者、終焉の徒

 

 時間ぎりぎりに私室にやってきたイルダは、手早くブレスの身支度を整えると中庭へ連れ出した。

 王族の纏う西の衣ではない、シャツにズボンにローブという魔術師の服装だ。


 それにいつもの黒面をつけ、赤毛を適当にひとつ結びにすると、すっかり刻印の魔術師エミスフィリオの出来上がりである。


 微妙にふらつく足元を風を纏って誤魔化しつつ、中庭を歩いてゆくと珍しくもない先客がいた。カナンだ。


「おはようございます、先生」

「もう昼過ぎですよ、エミスフィリオ」


 木に凭れて本を読んでいたカナンは、相変わらず白い姿のまま。

 この国にカナリアがいることは城中の誰もが知っている事柄なので、彼はもはやその正体を隠そうともしない。


 同じ木の反対側に凭れて座ると、カナンの影から小さな手が伸びてブレスの赤毛を引っ張った。

 レヴィアタンはいたずらっ子でいけない。


「レビ、髪を引っ張ったら痛い」

「だって下僕、後で遊んでくれるって言った」

「下僕はこれからお客さんと会うんだ。だからまた今度ね」

「なんで下僕はいつもレビのこと後回しにするの」

「それは下僕が人間で、人間の世界のルールのなかで生きているからだよ」

「なんで!」


 なんでって言われても。

 神様なんだから竜の子の教育くらいしてくれないだろうか、と背後のカナンを見やるも、カナンはいつも通りの知らん顔だ。


 とうとう影から抜け出してブレスの膝に跨ったレヴィアタンを、「レビずるい」と追ってきたテンテラが芝生に転がした。

 取っ組み合いが始まる。


「こら……ふたりとも、下僕をあんまり困らせるんじゃない」


 これはまた中庭から脱走かな、とため息をついたブレスのつむじに、落ちてきた言葉がひとつ。


「あー……青年。あなた、いつからそんな妙な主語で話すようになったのです?」

「ネモ様!」


 驚いた。気配が無かった。

 顔を上げれば以前と少しも変わらない、もつれた黒髪の痩せた男が、魔術師の正装でぽかんと口を開けて立っている。


 この人にはあんまり魔術師の正装は似合わないな、と失礼なことを頭の片隅で考えつつ立ち上がると、ネモはちらりと背後のイルダを振り返って呟く。


「イルダがですね、その面をつけている時のあなたは王弟ではないので礼儀は不要だと、不思議なことを言っておりましたが」

「ああ、はい。銀孔雀を着ていない時はフェイン王の懐刀、刻印の魔術師エミスフィリオなんです」

「はぁん? さては息苦しかったのですね」

「ええ、堅苦しいのがどうも苦手で……」


 話している合間にも、ネモの目は油断なく辺りを観察している。


 芝生で転がるように遊んでいる子供ふたりに目を止め、やや青ざめて目を逸らし、カナンの白い髪を見てハッと三白眼を見開いた。


「冬のお方」


 木に凭れて座り、本を読むカナンの足元に、ネモはひざまずいた。

 ちらりと金色の目を向けたカナンは、ああ君かと顔を上げて本を閉じる。


 そうか。彼はエトルリアからカナンが去って以来、ずっとカナンと会えていなかったのだ。

 崇敬する冬の神を前に、ネモは固く目を閉じ感極まった様子でこうべを垂れる。


「僕の弟子の面倒を見てくれたと聞いた。一度ならず、何度も。世話をかけましたね」

「とんでもございません。前線で戦うには力不足ゆえ、私にはそれしか出来ることが無かったのです」

「だが君は必要だった。皆がそう言うのを聞く。僕も同意見です。よく尽くしてくれた」

「勿体なきお言葉……」


 すっかりカナンにネモを取られてしまったが、ネモが嬉しそうなので良しとしよう。


 レヴィアタンと取っ組み合いをしていたテンテラが、ふとネモに目を止めて立ち止まった。


 とことこと、きちんと人間らしく見えるように歩いてネモの前に立ったテンテラは、じっと緑の目で彼を見つめてこう告げる。


「パトリキウスはミミズクになる」

「……はい?」


 唐突に何を言い出すのかと思ったのはネモも同じだったらしく、不思議そうな顔で人に化けた竜の子を見つめている。


「パトリキウスって誰?」


 ブレスの問いかけに、無言のままネモを指さすテンテラ。

 ネモはと言えば、今度はブレスを見つめて首を傾げている。


 その様子を見てピンと来た。

 聞き取れないのだ。その名前の響きを。


 ネモはアナクサゴラスの〈何者でもない者(ネモ)〉となった日に、真名を奪われて個を失った。


 ブレスがルシアナに名を返してもらうまでフェインの口から出る自分の名前を聞き取れなかったように、ネモも己の名を聞き取れないでいる。


「テンテラ。容易く人の名を口に出してはいけない」


 カナンのその一言でネモも状況を理解したらしい。

 ああ、と頷いて、少々居心地が悪そうにブレスを見た。


「出来れば私の名を悪用しないで頂けると助かります。忘れてください」


「まさか。悪用なんかしませんよ、とんでもない。大体ネモ様だって、私の名前を隠し名から家名まで丸ごと知ってるじゃないですか。おあいこでしょ」


「あのですね。貴方の名は城中の宮廷魔術師達にあつく護られているからいいのです。しかし一介のネモである私など、ちょっと真名を呪われただけで瞬殺です。吹けば飛ぶような魔術師なのです」


「それは……嫌だな……」


 昨日の不安が蘇り、面のなかで口ごもるブレスを他所に、カナンがテンテラに向けて問いかけた。


「ミミズクになる? それはつまり、シャファクのように?」

「は? シャファク様はミミズクになったんですか?」


 突飛な話に思わず口を挟むと、カナンは首を振る。


「いや、彼は雪狼になった。君は知っているはずだろう。根の国で会ったと言っていたが……会わなかったか、白い毛並みの赤い目の狼に」


「え……どうだったかな。根の国でのことは、あんまりよく覚えていなくて」


「シャファクが死後に自我を保ったまま僕の森の住人になれたのは、半分くらいは君が天に向けて祈ったおかげだ。シャファクはその借りを返すために、根の国の縁へ君を迎えに行ったと言っていたが」


 会ったはずだと言われると会ったような気もする。


 どうだったかなと記憶を遡るブレスと、答えていたカナンをかわるがわる往復していたネモの目は、疑問符で埋め尽くされていた。


 ミミズクになるとか、雪狼になったとか、事情を知らない人間にとっては意味不明もいいところだろう。

 テンテラは真っ直ぐに、今度はブレスを見つめて告げた。


「シャファクは狼になって月を飲み込む。パトリキウスはミミズクになって人間に終焉を知らせる。シリウスは最後の魔術師として壊れた世界を洗い流す。テンテラはカナリアの亡骸を翼に乗せて次の世界へ運んでゆく」


「……な……」


 なんだそれは。

 淡々と告げられるそれは、予言なのだろうか。


 そういえばかつてマリーは言っていた。

 あの秋の帝都に閉じ込められたテンテラが、嘆き悲しんで暴走しているのは、知りたくなかった未来を知って絶望してしまったからだと。


 テンテラの視たものが訪れるべき未来ならば、カナンはテンテラより先に死んでしまうのだ。

 だからテンテラは、あんなに泣いていたのか。


 最後の魔術師、と呟いたネモの目がブレスを捉える。

 他人事のように聞いていたが、シリウスはブレスの隠し名である。


 シリウス・オリビア・ウォルグリス。

 それがブレスの真名だ。


「レビは皆の(かて)になるの」


 突然世界の終焉を予言されて唖然とする人間たちを置いてきぼりにして、紺碧の髪の幼女に化けたレヴィアタンが言う。


 当然のように、食べられるために存在することを受け入れている竜の子を前に、やはり人間たちは何も言えない。


 はあ、とカナンがため息をつく。

 その様子から察するに、単なる竜の子の戯言とも言いきれないようだ。


「なんと言いますか……長い付き合いになりそうですね」


 理解できないながらも話を纏めようとしたネモが、一言。


「ええと……そうらしいよ、イルダ。世界の終わりまで生き残るみたいだから、今後は俺への心配は不要だ」


 冗談めかして言いつつも、現実逃避ぎみのブレスが一言。


「それはいったい、何万年……いや何億年後の話だ?」


 一番現実的に予言を受け止めたイルダが、気の遠くなりそうな事を言う。

 気の抜けた笑みを浮かべ、ブレスは諦めて首を振った。


「いつの事にしろ、今考えたってどうしようもない」


 テンテラの予言は、その場にいた三人と一柱と二体の竜を繋ぐ秘密となった。

 絶対に誰にも話せない。話したところで信じて貰えない。正気を疑われるだけだ。

 だいいち、ブレスだって信じられない。


 ──なんかもう、お前はこっち側に片足突っ込んじゃってるからねぇ。


 帝都でマリーに言われた言葉が不意に蘇り、苦笑いが浮かぶ。

 いったい、誰が何をどこまで知って動いているのか。


 世界は本当に謎だらけである。


 ネモを呼んでもらった本来の目的がどうでも良くなってしまったので、ブレスはこれまでの感謝の気持ちとお別れの言葉を伝えて、言霊を吹き込んだ特別製の護りの魔術具を贈った。


「たくさん刻印したので、ネモ様が守りたい人達に配ってください」

「ああ……ありがとうございます、青年」


 どこまで届くかわかりませんが、とネモが渡してくれたのは、ネモの魔力で描かれた〈耳〉の石だった。

 連絡する手段があると思えば、別れの寂しさもいくらか和らぐ。


 そんな話をしているうちに、レシャがネモを迎えに来た。

 きっとフェインとアナクサゴラスの交渉が終わったのだ。


 いよいよ帰ってしまうのだなあとその背中を見つめていると、レシャから話を聞いていたらしいネモが「ええ!?」と素っ頓狂な声を上げてこちらを振り向く。


 なにやら気まずそうな顔をしている。


 隣で笑いを殺すような音が聞こえ、見やればイルダが口元に拳を当てていた。

 イルダとレシャは魔力を流せば〈耳〉で音を共有出来るので、きっと会話を聞いているのだ。


「なに? 何て言ってるんだ」

「いや。すぐにわかる」


 じゃあ教えてくれたっていいじゃないか。

 そんなことを考えていると、なにやら落ち込んだ様子で背を丸めたネモが戻ってきた。

 忘れ物かな、と首を傾げつつ迎えると、青の走る灰色の三白眼を泳がせて彼はこう言った。


「我が主人アナクサゴラス様は、此度の協力の褒賞としてエトルリアの魔術師たちの留学を所望したらしく、現地の監督者として私を指名したようでして……」


「えっ! じゃあネモ様、まだ暫くはウォルグランドにいて下さるのですか!」


「……ええ、はい。要するに私、主人に置いて行かれたのです。せめて一言くらい言い付けて行って下されば良いものを……」


 ぶつぶつと恨み言を言いつつ項垂れているネモには申し訳ないが、これはブレスにとって朗報だ。


 お別れは少ない方がいい。

 長い付き合いになるのならば、なおさらだ。



 ⌘



 フェインは執務室から中庭を見下ろして微笑を浮かべた。

 弟が喜んでいる。

 あの不気味な黒面をつけていようと、それくらいはわかる。


 スティクス侯アナクサゴラスに、ネモを置いて行くように誘導をしたのはフェインだ。

 アナクサゴラスはそれを承知の上で己のネモを置いていったので、問題はない。


 すぐ後ろで交渉の全てを聞いていたターミガンは、やや呆れながら歳若い王へ忠言した。


「陛下。オリビア殿下に対し、少々甘すぎるのではありませぬか」


「なにも弟のためだけにネモ殿を残したわけではない。私だって彼は欲しいのだ。有能な上に信用もできる、稀有な男だからね」


 大抵の人間は、どちらか一方が欠けている。


「しかし、ああして親しげに近づかれては……殿下にも体面というものを身につけて頂かねばなりますまい」


「ああ……いいのだよ。彼は縛ってはいけない。国が安定するまでは居てくれると言うけれど、本当はそれだって義務感で言ってくれているだけに過ぎない」


 オリビアは、生み出した炎の鳥の精霊を名前で縛らなかった。

 〈耳〉を通して秋女神とのやりとりを聞いていたフェインはそれを知っている。


 火は個人で所有するものではない。

 鳥は自由にしておいたほうがいい。


 オリビアのその言葉は、そのまま彼自身に当てはまる性質である。

 あの冬の神とてそうだ。

 縛れば縛ったぶんだけ、彼らは遠ざかってしまう。


 普段は、好きなように、自由にさせておくのがいい。


 いざという時に、自らその力をかしてくれる気になってもらえるよう、この城を居心地の良い場所にしておかなければ。


「私は少しだって甘くなどない。全ては打算なのだから。きっとこんな本音を知られたら、嫌われてしまうだろうな」


「どうでしょう。殿下は案外人間を見ておりますぞ。ああ見えて、なかなか鋭い時がある」


 もちろん、そんなことはフェインだって解っている。

 彼は兄さんと無邪気に慕ってくれるけれど、時折フェインを推し量るような目で見ていることを知っている。


「ターミガン、それは当然だ。彼はこの私の弟なのだよ? 人を見る目は確かだ。あの仮面越しに私を覗き込む彼の目の静かさを知っているか。まるで鏡を見ているようだ。あの澄んだ目に私への失望や落胆が浮かんだ時、国主としての私は終わるだろう。彼に見放されないように、私はせいぜい良い王となるだけだよ」


「お戯れを」


 ターミガンは取り合わない。

 フェインは苦笑を浮かべた。本気で言っているのに、と。


 フェインは弟と違う。

 なろうと思えば悪人にだってなれる。

 本当にそちら側に傾かないように、フェインにはオリビアが必要だ。


 あのひた向きな優しさが、冬の日差しのようにフェインの白い星を暖めてくれるから、フェインは王でありながら人でいられるのだ。

 ということでネモの名前はパトリキウスです。

 フェインの胸に宿る白い星は高潔で明るいけれど、温もりは生まない。弟の金色の星とは、太陽と月の関係です。

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