155話 春女神の別れ
未だ廃墟となっている元帝都を通り抜け、やってきたのはもはや来慣れた神殿だった。
あの主張の激しい神気はヘリオエッタのものだ。
彼の気配に混じってほかの三柱の存在も感じる。
初めてまみえた時には傍にいるだけで損傷をうけていた肉体も、いまや夏の神の神気に慣れていた。
聖域で神々と過ごしたおかげだろうか。
彼の気配は感じる時には重いほど感じるのに、気づかない時はまったく気づかない。
不思議でならない。
神殿前でルーチェから下りると、いつも通り柱に持たれてカナンが立っている。
彼は迎えに寄越されがちだ。
末っ子だからかもしれない。
「先生、今朝また竜たちを逃がしましたね。いま城仕えの皆は忙しいんですから、ちゃんと見ていてくださいよ」
「君が見ていればいい。どうせ君は暇なのだろう。こんな所に顔を出すくらいには」
「……暇ですけど、俺だって本当は色々手伝ったりしたいんですよ? それに来たのは、呼ばれたからです。ヒワ様に」
調子が戻るまではいけないと、フェインは城の雑事からブレスを遠ざけている。
兄だけではない、みんな過保護だ。
冬の間ずっと瀕死だったので、その印象がまだ強く残っているのだろう。
ほのかな苦笑を浮かべ、カナンは神殿へ入って行く。
相変わらず白く長い髪を引きずるその後ろ姿に、黒髪のカナンと旅をしていたあの頃を懐かしく思った。
「ずいぶん急いで来てくれたのですね」
ふかふかの狐を撫でながら、春の乙女プライラルムは微笑む。
彼女の笑みは今日も甘い。
「ヒワ様が城に現れたのは初めてでしたから、驚きました。みんな怖がっていなければ良いけど」
「これ、人の子。ヒワがそう簡単に人前に姿を見せるはずがないでしょう。お前にしか見えません」
「なんだ、そうだったんですか」
と言うことは、はたから見ればブレスは神獣を追っていたのではなく、気ままに二角獣で駆けていたように見えていたことになる。
王弟は脱走癖がある、と噂がまた広まりそうだ。
狐に乗ったプライラルムの足元に膝をつくと、小さな手が伸びてブレスのさわさわと赤毛を撫でた。
狐を撫でるのも人間を撫でるのも、きっと同じなのだろう。
「そろそろこの地を発とうかと思います」
神殿に響いた涼やかな声に、ブレスは顔を上げる。
日長石の淡いオレンジの目がきらきらとブレスを見下ろしている。
「それは……なんと言えばいいか」
「なんでしょうか」
「正直な気持ちを申し上げても?」
「嘘をつけばわかりますよ」
にゅっと細く吊り上がったプライラルムの怖い顔に苦笑して、ブレスは呟く。
「……寂しくなるな、と思って」
すっと目尻が下がり、彼女は再びブレスの赤毛に手を伸ばした。
無言で撫でられること数秒。
その間ずっと柱でもたれて腕を組むヘリオエッタと目が合っていた。
微妙な沈黙が流れる。
「珍しい人の子ですね。たいていの人間は、我らの怒りにふれることを恐れて関わりを避けるのですよ。恵みを祈るばかりで。祈られることも、悪い気はしませんけれど」
「たしかに……始めは畏れていました。ですが今となっては、神々に生かされた命です」
「いいえ。全てはお前の選択の結果にすぎません。大半は選択次第でいかようにも変わるのです。動かせぬ物事もありますけれどね」
くるりとヘリオエッタを振り返り、プライラルムは頷く。
彼女の視線を受けた弟妹たちが、言葉もないまま祈りの間から去って行く。
「プライラルム様?」
「少し、ふたりでお話をしましょうか」
そう告げた春の乙女の微笑みに、ブレスは首を傾けた。
プライラルムとふたりになるのは初めてのことだ。
神域ではずっとヘリオエッタが姉のそばを離れなかった。
「お前や、サハナや、カナリアが、わたしの指図について疑念を抱いていたことを知っています」
ぎくりと肩が震える。同時に、その話かと納得もした。
カナンは冬の眠りを求め、長い間ずっと姉の示した道を旅してきた。
その理由を、カナンは贖罪のためだと言った。
一方でサハナドールであるマリーは、カナンが姉が生み出したものを滅ぼしたために、永遠の罰を受けているのではないかと懸念していた。
赦しを得るための贖罪の旅か。
永遠に己の罪と向き合う罰の旅か。
似ているようで大きく違うそのふたつのどちらが正しいのか、ブレスにはいまいちよくわからない。
「お前にだけ本当のことを教えてあげましょう」
プライラルムはにゅっと目を細めてひらひらとブレスを手招いた。
この表情のこのひとに近づくのは怖いなあと思いつつも、ブレスは顔を寄せる。
「正解は、どちらでもない」
「……え?」
呆気に取られてぽかんと女神を見上げると、プライラルムはくすくすと慎ましく笑い声を立てる。
「それほど意外でしたか? あの弟妹の中で、わたしは相当な性悪になっていたようですね」
「それでは……プライラルム様は、カナン先生が死や冬をつくったことを怒ってはいらっしゃらない……?」
「当時はそうでした。ですが、いったい何億年、何十億年前の話でしょうか」
それは途方もない昔話だ。
しかし、そのどちらでもないのならば、彼女がカナンに旅をさせて回っている理由はなんなのだろうか。
「嗚呼……それはね、知りたがりの人の子よ。この世界を導く父、サタナキアのみぞ知る真実があるのですよ。わたしたち四柱は、神と呼ばれていますけれど、所詮は父上の手駒に過ぎぬのです。
きっとそう……あの子が、カナリアが地上にあって各地を回り、いろいろな種を蒔いて歩くことは、父上の望みし未来をこの世界に齎すために、必要なことなのでしょう」
カナンに旅をさせていたのは、春女神ではなく父神サタナキアだったということだ。
プライラルムは、ナーク神の意思をカナリアに届ける伝令役に過ぎなかったのだ。
「わたしも、エッタも、もはや地上での役割はほとんど終えてしまっている。今はただ、父上のご意志に従うだけの存在です。時折、遊びに降りてくることはありますけれど。此度のように」
楽しかったですよ、と微笑むプライラルムを見上げ、ブレスは未だ混乱している頭のままで問う。
「でしたらプライラルム様はどうして、それをカナン先生に教えてさしあげないのです?」
「あらあら、だって。意地悪な姉、と思わせておくのも面白いでしょう? それにね、そういうことにしておけば、姉という立場を利用したい時にとても便利なのです。こんなふうに」
狐のように目を細め、怖い顔で微笑むプライラルムを前に、ブレスは感嘆するばかりだった。
こんなに内心を話してくれたのに、いったいどこまで本気でどこまでが演技なのか、未だにさっぱりわからない。
「それではまたお会いしましょう。次に降りるのは……そう、二百三十年後でしょうか」
「二百三十年……その頃に、また今回のような騒動が起こるということですか?」
狐に乗って歩き出したプライラルムは、くるりと振り向いてにこりと笑う。
「それは内緒です、人の子よ」
そうしてプライラルムは、ヘリオエッタの龍と共に天へ帰っていった。
残されたブレスは、カナンとマリーと共にただただ彼らを見上げていた。
「……それで。いったいライラと何を話していたのです」
姿が見えなくなるなりそんなことを言い出したカナンは、やはり姉の行動の動機が気になるのだろう。
ブレスは困った挙句に目を逸らし、誤魔化し笑いを浮かべてこう答えた。
「言えません。内緒です」
「あーあ、フィーがとうとう姉様の言いなりになっちゃった。もうお終いだー」
「エミスフィリオ……」
「違いますよ、そんなんじゃないんですってば」
わざとらしく嘆くマリーに、些か恨めしい様子のカナン。
ふたりに挟まれて神殿を歩きながら、ブレスは頭上の天窓を見上げる。
プライラルムはカナンやマリーが思っていたような女神ではなかった。
ずっと老獪で、一癖も二癖もある、たいそう油断ならない女神だ。
きっと今後もブレスたち人間は、カナンやマリーですら、彼女たちの手で弄ばれることになるのだろう。
貌の魔女の言葉が頭を過ぎる。
──気に留めて頂くために、上手に踊るのよ。
「え? なに、なんか言った?」
「なんでもありません、ただの独り言です」
きょとんと振り向いたマリーを追って、ブレスは神殿を出た。
城に戻ると騒動が起こっていた。
何かあったのだろうかと不安に思いつつ、城壁を飛び越えて中庭に戻ると「オリビア様!」と使用人たちが仰天した様子で叫んだ。
「え、なに……? いったいどうしたんだ。何かあったのか」
「貴方が急に姿を消したからだろうが!」
背後の怒声に驚いて振り返ると、鬼のように目を吊り上げたイルダが立っている。
なぜだ。ちゃんと置き手紙を残していった筈だ。
けして跡形もなく消えたわけではない。
「消えたってイルダ、ちゃんと書き置きしていっただろう」
「ああこれか。そうだな、読んでみろ」
「出かけてきます、探さないでください」
「家出か!?」
ああ、なるほど。そうとも取れる。
探す必要はない、心配無用、というつもりで書いた一文だったが、なにしろ覚えたてで不慣れな西の言葉で書いたために色々と省略してしまった。
それがまずかったのだ。
納得すると同時に気まずくなって視線を泳がせていると、深々としたため息がひとつ。
「あー、その、ごめんイルダ。まったくそんなつもりでは」
「オリビア、あなたはただでさえ一度失踪しているのだ」
「そうだね、そりゃ過敏にもなるよ。無理もない」
「遠目に龍が天へ昇ってゆくのを見て、あの悪夢の日の再来かと肝が冷えたぞ」
「悪かったって……」
そんなやりとりを呆気に取られて後ろで聞いていたマリーが、ぽつりと一言。
「なんかイルダ、フィーのお母さんみたい」
ブレスは眉を寄せた。それには賛同しかねる。
「いやだなあ。俺の母上はこんなに口喧しくないですよ」
「口喧し──誰のせいだと思っているのだ!」
「わかった、わかった。どうどう」
がみがみとうるさい従者を適当にいなす。マリーが笑い転げる。
カナンは木陰に座り込むと、ブレスが残した籠のいちごを勝手に摘みながら影に手を差し伸べて、クルイークを撫でている。
執務室の窓から中庭を覗き込んだフェインと目が合うと、兄は仕方なさそうに笑って許してくれた。
「イルダは兄さんの落ち着きを少し見習った方がいい」
「それは私の台詞だ……」
疲れて木に突っ伏したイルダと、けろりとしているブレスを眺め、人々はおかしそうに笑いながら職務に戻っていった。
翌朝。
いつものようにブレスを起こしにきたイルダは、まだ機嫌が悪かった。
イルダが怒るのは、心配しているからだ。
それがわかっているので、ブレスは反省しつつ許されるのを待つしかない。
寝台の天幕に手をかけたイルダを、毛布に埋まりながらチラリと見上げる。
いつも通りに体温と脈拍を測る無言の従者に身を任せつつ、どう声をかけたものかと視線を彷徨わせていると、微かなため息が聞こえた。
「微熱がある。体力もないのに、馬で駆けたりするからだ」
「……うん。すまなかった」
「寝ていろと言いたいところだが、今日はネモ殿が来る」
「えっ、もう? だってその話をしたのは昨日なのに」
呆気に取られて青い目を見上げると、呆れた視線が降ってきた。
罪悪感を覚えて毛布に隠れる。
「帰る前に挨拶をと、アナクサゴラス殿からも謁見の申し込みがあったのだ」
「ああ……そういうことか」
言われてみればあのアナクサゴラスがただで帰るはずがない。
ここぞとばかりに、冬の戦の協力の対価を要求するはずだ。
「兄さんは大丈夫だろうか」
「叔父上がついている。そもそもフェイン陛下は、交渉の場で怖気付くような方ではない」
「そっか。そうだな」
きっとあの強面のアナクサゴラスが相手でも、フェインは一歩だって引かないだろう。
受けた借りを返しつつ、互いの利になるように話をまとめるはずだ。
「……とりあえず着替えようかな」
「ネモ殿と話すのならば、魔術師の服装にしておこうか」
「そうだね、あの人にお辞儀させるのは嫌だ」
なんだかんだあってネモとは去年の夏からの付き合いだ。
彼の助けがなければ、ブレスもフェインもやって来れなかっただろう。
たくさんお礼を言わなければいけない。
長生きしてもらいたいので守りの魔術具もたくさん渡そう。
そうと決まれば、と起きあがろうとしたブレスの肩をイルダが押さえた。
どういうわけかイルダに押さえられると全く動けなくなる。
指二本で押さえられているだけなのに、謎だ。
「時間まで横になっていろ。朝食で気分が悪くなってはネモ殿と話せなくなるぞ」
「……あー、たしかにね……?」
食べたくないものを胃に入れて、気持ちが悪くなるのが目に見えている。
またいちごでも持ってくると言って下がったイルダの背を見送り、ブレスはため息をひとつ。
「なあミッチェ、イルダってほんと変わったよな。なんか甘やかされ過ぎて、人間として駄目になる気がする」
『もう手遅れなんじゃニャいの』
「……やっぱりそう思う?」
突き放すような黒猫の言葉に、ひと言も言い返せなかった。
もう少ししっかりしなければいけない。
有能な宮廷魔術師のイルダの主人として、相応しい人間になるのだ。
……という心意気を、摘みたてのいちごの籠を持ってきた彼に伝えると、「余計なことをするんじゃない」とものすごく迷惑そうな顔で嫌がられてしまった。解せぬ。




