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154話 穏やかな日

 

 寝台を覆う薄い天蓋に朝日が差した。

 柔らかい光を頬に受け、ブレスは目を覚ます。


 上等な寝具に埋もれて寝返りを打つと、枕元の黒猫の寝息がふすふすと頬にかかった。

 くすぐったい。


 もう一度寝返りを打って反対側を向く。

 精霊の森から戻ってからというもの、以前より朝に弱くなってしまった。


 聖域の空気はよかった。

 清浄な力が満ちているので疲れてもすぐに回復するし、五感が冴えて地に立っているだけで色々なことがわかった。


 外界はそうもいかない。

 動けば疲れが溜まるし、眠る時間も長くなる。

 普通に生活できる程度には身体も回復したとはいえ、体力はずいぶん落ちている。


 兄の戴冠式から一週間が経過した今、ブレスは体力の向上に努めながら日々を穏やかに過ごしている。

 イルダが起こしに来るまで微睡みつつ、温かなミシェリーに触れて過ごすこの朝の時間は至福だった。


 うとうとと取り留めのない夢を見ていると、扉の開く微かな音がした。


(……あれ、この気配はイルダじゃない)


 彼が天幕に手を伸ばす前に起き上がり、ブレスはあくびをひとつ。


「おはよう、レシャ。どうした? 珍しいね」

「おはようございます。イルダは所用がございまして、今朝は私が参りました」

「そっか」


 最近はイルダも忙しい。

 国王として即位したフェインに伴い、宮廷魔術師達の仕事も増えたのだ。


 いくらか残っている眠気を、レシャがいれてくれたハーブティーで覚ましていると、ぱたぱたと子供が追いかけっこをするような足音が聞こえてきた。


「待てレビ、そっちは駄目だってカナリアが言ってた」

「テナはよくてどうしてレビは駄目なの」


 とんでもなく大きな気配がふたつ、私室に向かって近づいて来る。

 レシャがびくりと身を竦ませるのを横目に、ブレスは寝台から出た。


 行儀悪く茶を飲み歩きながら扉を開けると、そこにいたのは十歳に届かないくらいの子供──の姿をとった、二頭の竜。


「朝っぱらから騒がしいよ、ふたりとも」


 ブレスを見上げるのは、黒髪に緑の爬虫類の目の男児と、紺碧の髪に海の目の幼女。

 それは、カナンの影から時折抜け出して戯れる、テンテラとレヴィアタンであった。


 後で遊んであげるからと竜たちを追い返して扉を閉めると、レシャは遠ざかってゆく気配に深々と息を吐いた。


 眠い目を擦りながら水桶に水を呼び、顔を洗うとようやくあくびもおさまった。

 動き始めた頭の隅に浮かんだものごとがひとつ。


「イルダの所用ってあれか」

「……はい。逃げ出した竜の子の捕獲で……」

「じゃあ追い返したのは失敗だったね」


 気の抜けた笑みを浮かべる。過ぎたことは仕方がない。

 レシャに赤毛を梳かしてもらいながら、ブレスはペンを取る。

 ずっと先延ばしにしていたカナンとの旅の報告書を、二日前から書いている。


 西の騒動は中央へも伝わっていると聞いた。

 シルヴェストリはきっと気を揉んでいることだろう。

 とはいえ、何をどこまで書いていいのか、いまいち判断ができない。

 当然のように神々や聖獣の名前が出て来る報告書だ。

 書いたところでそもそも信じてもらえないかも知れない。


 質は良いが比較的動きやすい衣服に着替え、ブレスはレシャを伴って私室を出た。

 すれ違う人々の朗らかな挨拶に応えながら向かうのは、厨房に近い大広間だ。


 多忙な兄や、教育漬けの妹や、宮廷魔術師の従者達と過ごす時間を取るために、せめて朝食の時間だけは皆で顔を合わせることに決めている。


「縁談が来ているよ」


 皆に朝の挨拶を済ませて朝食の席に着くと、フェインが徐ろにそう話題を切り出した。


「ずいぶん早いですね。無理もないか。結局兄さんはどこの国の姫と結婚するんです」

「いや、私ではなく君にだ。オリビア」

「……はい?」


 オムレツを突いていた銀食器がカランと手から滑り落ちる。

 失礼、とフォークを拾おうと身を屈めたブレスの肩を、イルダが押さえる。


「ええと……なんですって? 縁談……」

「隣国のトルシアの第一王女に、バドリアの第三王女、それから他数カ国から計八人ほどの申し込みがあった」

「そんなに!?」


 思わず反応してしまったが、問題は数ではない。

 混乱して視線を泳がせている弟をおかしそうに眺めていたフェインは、綺麗な動作で搾りたてのオレンジの果汁の杯を口に運び、頷く。


「おめでとう、君は西の姫君たちから大人気だ。吟遊詩人のおかげだね」

「うわあやめてください、思い出したくない」

「きっとさぞかし諸国の王子達の恨みを買っていることだろう」

「兄さんは私をいじめて楽しいですか?」

「いじめてなどいない。ただの事実を述べているだけだ。ねえ、イルダ」


 水を向けられたイルダは淡々と頷く。

 呻きながら「裏切るんじゃない」と恨み言を言うと、イルダは顔を背けて笑いを噛み殺した。

 何がおかしいのだ、何が。


「えー、あのですね、兄さん。私は結婚はしません」

「ほう? 理由は?」


 明らかに面白がっている兄の目をじりじりと睨みながら、ブレスは必死に言い訳を考えた。


 もちろん本音を言えばミシェリーという大切な存在があるためだが、これはそういう話ではない。

 国同士の婚姻の話に、妖精の立ち入る余地など無いのである。


「まず第一に、私が国を出たら王家の血を引く男児が兄さんしかいなくなります」

「なぜ君が婿に行く話になっているのだ。他国から姫をもらうに決まっているだろう」

「あれ? それもそうか」


 レシャが肩を震わせて後ろを向いた。

 壁際で控えていた使用人たちも笑いを堪えている。


「……ええと、あー、じゃあ……」

「じゃあって、オリビア」

「理由なんて兄さんが考えてくださいよ! 解っているくせに!」

「ではこうしよう。ウォルグランドのオリビアは神々のものなので、嫁いだ姫君は女神の怒りにふれて呪われる」

「なんですその、また尾ヒレが付きそうな言い分は……もう」


 疲れてため息を吐き、半分ほど皿の料理を残してフォークを置く。

 杯の中身をちびちびと飲みながら、ブレスはちらりと妹に目を向ける。


 行儀作法やらダンスやら語学やらで休む暇もないエルシェマリアの機嫌は、ここのところすこぶる悪い。


「エルは大丈夫なのか。疲れたらちゃんとお休みをもらわないと、倒れてしまうよ」

「フィル兄様にだけは言われたくないわ」


 ばっさりと切り捨てられて衝撃を受けるブレスの視界の隅で、フェインが笑いを堪えきれずに咽せている。


 ウォルグランドの王城の朝は、今日も平和だ。




 そんな朝食の時間の後は、たいてい一日中、城の中庭で過ごしている。

 季節の花々が生い茂る泉の湧く中庭は、魔術師にとってたいそう居心地がいい。


 城壁はあるが風が吹き抜ける設計の城は、さすが魔術師と精霊の民の国の城、と言える。


 日光浴をしつつ西の言葉を覚えたり、時折訪ねて来る神々や友人や客人の話し相手をするうちに、いつのまにか日が暮れる日々である。


 木陰に座って休んでいると、慣れ親しんだ気配が現れた。

 見上げるとイルダが立っている。


「ああ……今朝はよくも裏切ってくれたな」

「無茶を言うな。私に、陛下を相手に口答えをしろと?」


 わかっている。互いに苦笑を浮かべて話を流す。

 イルダは軽食を持ってきてくれたらしい。

 小さな籠にいちごや枇杷(びわ)が詰まっている。


「こんなにいらない」

「陛下が貴方の食が細いと心配しておられたぞ」

「そりゃいきなり全快ってわけにはいかないよ。ここは聖域じゃないし。何ヶ月寝てたと思ってるんだ……って、俺も知らないけどさ」


 籠からいちごを摘んで齧る。甘酸っぱい春の味に笑みが浮かぶ。

 卵や肉や魚なんかよりは、果物の方が食べやすくて好きだ。


「平和だな。気が抜けてしまう」


 ふと過ぎった不安に気付いたのか、イルダは木にもたれて立ち、腕を組んだ。

 話を聞いてくれるらしい。


「貌の魔女を覚えているか、イルダ。影の魔女を抑えるために集まってきた魔女の中にいた、きれいな人」

「ああ」

「彼女がね、言っていたんだ。大切なものが増えることは、怖いことでもあるって」

「恐ろしいのか」

「うん。少し……いや。だいぶ、かなり。怖い」


 なぜだろう。失う痛みを知ってしまったからだろうか。

 国が安定したらまた旅に出ようと思っていた。


 シルヴェストリのいる協会にも帰りたい。

 世界を旅して色々なものを見たい。

 魔術師として〈古きもの〉となるためには、一国に留まってはいられない。


「だけど、もし……俺が国を開けている間に何か悪いことが起こって、皆がどうにかなってしまったらと思うと、怖くてとても出て行く気になんかなれない。かといってずっとここに、この城だけで生きていくのも、たぶん俺には出来ない」


 王となった兄にはとても言えないが、きっと死んだような生活になってしまうと思う。

 穏やかな日々は、疲れた身体には薬にもなるだろう。

 居場所があることは幸福なことだ。


 けれど、長い時間を生きなければならないブレスにとって、永遠の穏やかな日々はきっといつか牢獄となる。


「我儘で贅沢な悩みだよな」

「私には……答えられない話だ。エトルリアのネモ殿であれば、気の利いた言葉も言えるのだろうが」

「ネモ様はすごいからなぁ」

「ああ」

「イルダもそう思うんだ?」

「冬の間、私が絶望せずに持ち堪えられたのは、あの方の存在があったためだからな」

「じゃあ、改めてお礼言わなきゃ」

「呼ぼうか?」

「は……呼ぶって?」


 話の流れがわからなくなってイルダを見上げると、いつも通りの青い目と視線がかち合う。


「話がしたいのなら呼べば良い。ここはウォルグランドで、貴方は王弟だ。他国の侯爵の専属魔術師は、下位の地位だろう」

「か、下位……」

「とはいえ、主人であるスティクス侯を差し置いてネモ殿のみを呼ぶのも非礼となる。スティクス侯アナクサゴラス殿も招くことにはなろうが」

「……はあ」


 アナクサゴラスとどんな話をすればいいのだ。

 あの無口で賢く計算高い御仁の話し相手が、ブレスに務まるはずがない。


「でもそうか、戦も戴冠式も終わったからネモ様はそのうちエトルリアに帰ってしまうのか。だったらやっぱり、最後に一度くらい会いたいな」


「わかった。陛下に話を通しておこう。表向きにはスティクス候の助力への褒賞と今後についての会談ということにして、陛下がスティクス候と会う間に貴方ネモ殿と会えばいい」


 表情を明るくしたブレスを見下ろし、従者は目を細める。


「少しは気も晴れたか」

「ああ。さすがイルダだ。頼りになる」

「……それはよかった」


 苦笑気味に呟き、最後に「きちんと食べろ」と言い残してイルダは職務に戻って行った。


 ふう、と気の抜けたため息を吐きつつ、ブレスはいちごを齧る。

 ネモがエトルリアに帰ってしまう。

 寂しい話だ。


「あの人にはもっと、色んなことを教えて貰いたかったな……」


 魔術師としても人間としても、きっと良い先生となるだろうに。

 彼の門弟たちが少しばかり羨ましかった。


 その日の昼過ぎ、中庭を語学の本を読みながら散歩していると、城壁を越えて大きな狐が現れた。

 プライラルムの乗っている三尾の狐だ。


「ヒワ様? どうかなさいましたか」

『春の乙女がお呼びです』


 ちょっと困って窓を見上げる。

 誰の姿も無いけれど、女神のお呼びとあっては行くしかない。


 せめてと書き置きを残し、ブレスは飛び立って城壁を越え、黒面をつけるとルーチェに乗って狐を追った。


 すれちがう人々が靡く赤毛に目を止めて「オリビア様だ」と嬉しげに笑う。

 自国民には、仮面の魔術師の正体は既に周知の事実となっている。


 長年西に居なかったにも関わらず、民が王弟オリビアの存在を受け入れてくれたのは、オリビアにまつわる話を唄って広めてくれた吟遊詩人達のおかげでもある。


 彼らの拡大解釈には辟易するが、少しくらいは感謝もすべき存在なのかもしれない。

 

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