153話 吟遊詩人の言うことには
竜の背に乗って見下ろすウォルグランドは、すっかり春に染まっていた。
心地よい風に伸びた赤毛がなびく。カナンの白い髪と共に。
背後のそれをチラリと見て、ブレスは決意した。
邪魔だ。切ろう。
旅に出る前は、ほかの魔術師たちの長髪が羨ましくて仕方がなかった。
しかしいざ伸びてみると、これが邪魔でしかない。
髪なんて非常時用にある程度の長さを残しておけば十分だ。
こんなに長いと髪紐を編み込むイルダも大変だ。
「イルダ、ナイフ持ってない?」
従者に訊ねると、従順なイルダはすぐに懐から愛用のナイフを取り出した。
以前であればブレスも色々と道具を隠し持って歩いていたが、なにしろ夜着一枚のままヘリオエッタに拉致されたために丸腰である。
取り出したそれに手を伸ばすと、イルダは何を思ったか手を引っ込めた。
無言で見つめ合うこと数秒。
「何に使うつもりだ」
「この邪魔くさい髪を切る」
「なんだと!」
「わあ、なんだよ。そんなめくじら立てることか?」
目を釣り上げてナイフを遠ざけるイルダ。
驚いてびくりと仰け反り、困惑して問うと、やりとりを聞いていたマリーがおかしそうに笑った。
「フィー、だってこれから祭儀なんだよ? ウォルグランドは魔術師の国なんだから、王族の権威と実力を示すためにも今は切らないでいたほうがいいんだよ」
「それってもしかして、王弟として出席して見せびらかさなきゃならないってことですか? 刻印の魔術師じゃダメなの?」
「当たり前だろう! 貴方が消えたあの日から今日まで、皆がどれだけ貴方の身を案じていたと思っているのだ!」
「あーもう、そんな文句はヘリオエッタ様に言ってくれ……俺だって好きで消えたんじゃないんだってば」
「兄上はアレだからねぇ。けどイルダが正しいんじゃないの、みんなを安心させてあげるためにも顔くらい見せてあげたら」
そう言われてしまうと何も言い返せない。
ああ、黒面が欲しいなあとため息混じりに呟いていると、イルダの呆れたため息が聞こえた。
「その姿を見て貴方も変わったのかと思ったが、心根は以前のままだな」
イルダはブレスに変わっていて欲しかったのだろうか。
それは少しばかり寂しいなあと考えていると、「ほっとした」と言葉が続いた。
笑みが滲む。そうか、それならよかった、と。
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上空を舞う竜の姿を見、王城に集った人々は大混乱に陥った。
冬の戦もすっかり知れ渡った出来事であるが、秋の帝都を襲った漆黒の竜の物語も、吟遊詩人たちの恰好のネタとなっている。
あの災害の再来かと慌てふためく客人たちのなかで、妙に冷静に、あるいは喜びに笑いながら竜を見上げるのは、事情を知っているウォルグランドの民だった。
──ああ、王弟殿下が戻られた。
誰かが口に出したその呟きを、同じく竜を見上げながら聞いていたエトルリアのネモは、主人であるスティクス侯の後ろでふっと笑みを浮かべる。
やはり彼は戻ってきた。神々は彼を奪い去らなかった。
きっとこの国の未来は明るいだろう。
空を見上げる主人にひそひそと竜の真実を耳打ちをすると、アナクサゴラスは満足げに口端を上げて頷いた。
「そうか。それでは引き続き恩を売れ。後世、この国はエトルリアの命綱となるだろう」
「御意にございます、閣下」
暫く王城の上空を旋回したその竜は、瞬きの間に姿を消した。
おそらく主人であるカナリアの影の中に戻ったのだろう。
毒味を済ませた食事を、未だ騒ぎ立てる人々を観賞しつつじっくりと味わう己の主人を見下ろし、ネモはにんまりと笑む。
これだからこの肝の太い主人に仕えることは、面白くてやめられない。
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城の中庭に降りるなり、ブレスは駆け寄ってきた赤毛の少女に飛びつかれて押し倒された。
背を打ってげほげほと咳き込むと、幾人かが慌てた様子で駆け寄って来る。
「あっ、ご、ごめんなさいフィル兄様、わたし……!」
「大丈夫だよ、ちょっと息が詰まっただけ」
「ほんとうに? どこも怪我してない? 痛くない? 骨も折れてない?」
「骨はそう簡単には折れやしないって」
寝そべったまま妹の頬に触れると、涙で濡れていることに気がついた。
泣かないで、と眉を下げると、エルシェマリアはますます顔を歪めてしゃくり上げる。
「フィル兄様はいつも遅い。助けに来るのも、帰ってくるのも」
「本当にそうだね。ごめん、エル」
よしよしと妹を宥めていると、誰かの影が顔に落ちた。
兄だろうなあと見上げるとやはり兄だった。
ほっとしたような、けれど心配で堪らないという不安げな目に見下ろされて、ブレスは困って苦笑を浮かべた。
妹に退いてもらって身体を起こすと、どういうわけか久々に見たフェインは少々困惑の表情でブレスを見ている。
「本当にオリビアなのか?」
「ええ……? なんです、私の顔を忘れられたとか? それは流石に傷つきますよ……」
多忙すぎて滅多に会えない兄であったとはいえ、本人確認をされるとは。
嘆かわしくて項垂れると、ブレスの肩を支えて起こしてくれたイルダが「ご本人です」と保証した。
なんだろうかこのやりとりは。
「兄さん、まさか本当に判らないんですか? そんなひどい」
「いや、なんと言ったものだろうか。纏う空気が、その」
「人間っぽく見えなかったんでしょ」
と言ったのはマリーだった。
彼女はカナンと並び、面白がるように笑っている。
「フィーはずっと精霊の森にいたから、聖域の空気や水が肉体にしみ込んでるんだ。だから人間臭さが消えてる。もっと清らかなものに見える」
「なんです、それ。イルダはそんなこと一言も」
「いえ、思ってはいました。なにか変わられたとは。中身は同じでしたが」
「思ってたんなら言ってくれればいいじゃないか!」
たしかに、やたら髪が伸びるなあとは思っていた。
だがしかし人間であることを疑われるほど変わった覚えはない。
「なんでだ、羽やツノが生えたわけでもあるまいし」
「えー、だってフィー、エッタを見て人間だって思ったことある?」
ヘリオエッタのあの強烈な圧はまた別の話なのではなかろうか。
ここで生活していればそのうち元に戻るよ、というマリーの言葉に安堵して、ブレスはやっと立ち上がった。
「だそうですよ、兄さん。エルは信じてくれたのに、兄さんは信じて下さらないのですか」
いまいち距離の縮まらないフェインを恨みがましく見つめる。
やがてフェインの顔に堪えきれない笑みが浮かんだ。
「ああ、たしかにオリビアだ。イルダの言う通り、中身は」
「外側も私ですが!?」
むきになって言い募るとやりとりを聞いていた妹が笑った。
穏やかな優しい目を妹に向け、フェインはブレスに向けて呟く。
「君が元気でいてくれなければ、誰も心から笑えない。笑えなかった。私も、エルも、臣下も民もそうだ。オリビア」
赤毛についた春の花弁を、フェインの指先が掬う。
改まって言われるとなんだか照れるな、と思いながら、ブレスは兄に向き合う。
「よく帰ってきてくれたね。おかえり」
「……はい。ただいま戻りました、兄さん」
おかえりなさいとあちこちから聞こえてくる声に首を巡らせると、中庭を囲うように集った人々が、笑みや涙を浮かべてブレスを見ている。
ターミガンの横でぼろぼろと涙を流しながら嗚咽を殺しているレシャを、イルダが静かに宥めていた。
(ああ、やっぱり帰ってきてよかった)
春の未来ではなく、秋の未来をとってよかった。
心の底からそう思いながら、ブレスは兄と肩を抱き合って再会を喜んだ。
「あっと、そうだ。兄さん、今日は戴冠式なんですよね。イルダから聞きました」
夜着の上からイルダが貸してくれたローブを羽織り、フェインと並んで回廊を行く。
「おめでとうございます。とうとう正式に一国の主となられるのですね」
「うん。つい先程までまったく感慨を抱けなかったが、今更になってようやく実感を得たところだ。君も列席してくれるだろうか」
「はい。兄さんの晴れの日ですし、そうすべきだとマリー様にも言われてしまいましたし、それに」
すれ違う人々がぎょっとして道を開ける。
とりあえず着替えないとな、と考えながら、ブレスは続ける。
「いい機会ですから、皆の前で血の誓約を結び直しませんか。特別な日に相応しい誓いだと思うんです。イルダもそう言っていたし」
フェインが足を止めてブレスを見た。
つられて立ち止まって首を傾げると、やや躊躇った様子で彼は眉を寄せる。
「あの誓いがあったから、君に無理ばかりさせてしまったのに」
「それは……確かに最初はそう気負っていたかも知れませんが……」
自分自身に呆れながら、ブレスは首を振る。
結局あの場にいれば、同じ行動を撮ったに違いない。
誓いがあろうと無かろうとブレスは、王弟オリビアは兄の作った国を守るために戦う。
「それに、もうあんなへまはしません。自分が呪いを引き受ければいいだなんて考え方は、もう捨てたんです」
最終的にそうなってしまうことはあるかもしれないが、今後は全力でそれを回避していく所存だ。
話を聞いたフェインが、そして追従していたターミガンと双子が、安堵の微笑みを浮かべる。
ありがとうと頷く兄に笑い返して、ブレスは身支度をするため、イルダと共に新しい私室へ引っ込んだ。
そう、私室があったのだ。
約束の指から誓約の蔓が消え、死んだと見なされて当然だったのに、フェインはきちんと弟の部屋を城に用意させていた。
その事実に、祭儀を前にして泣きそうになってしまったブレスである。
そうしてブレスは王家の銀孔雀を纏い、王弟オリビアとして兄王の戴冠式へ出席した。
空虚に包まれていた城にもようやく春が訪れ、一変して喜びに溢れたウォルグランドの民の様子に、客人たちはわけもわからず首を捻ったとか。
神殿で執り行われた戴冠の儀では、中央三大国であるシーラ王国、エトルリア王国、カルパント王国の国主が正式にフェイン・ウォルグリスをウォルグランドの王と認め、宣言し、国中の〈耳〉でそれを聞いていた民衆は大歓声を上げた。
神殿の上空には炎の精霊の鳥が現れ、孔雀のような長い尾をひきながら新たな王の誕生を祝福するかのように飛び回った。
そして、極めつけは秋の娘サハナドールの来訪だ。
渦巻く深紅の髪と輝く柘榴石の目の、金色の鹿の角を生やした女神の御前で、フェイン王とその弟オリビアは神聖な誓いを立て、生涯を国に尽くすことを確約した。
その場には冬の翼カナリアの白い姿もあったが、吟遊詩人たちは不吉な神の存在を敢えて語るような事もなく、その代わりに不死鳥の如く生還した王弟オリビアを褒めたたえた。
曰く、銀孔雀の裾と波打つ赤毛を引いて歩くその姿は、古き精霊の化身と見紛うようであったとか。
清麗な横顔はこの世のものとは思えないほど神々しく、春女神に愛された大輪の白花のようであったとか。
果てには父神サタナキアがこの世に五柱めの神をつくり出し、ウォルグランドの守護神としてフェイン王に授けたとか。
後日、吟遊詩人たちがそんな誇大妄想を唄っていることを知ったブレスは「神々しいってなんだよ!!」と絶叫し、恥ずかしさのあまり寝台を転げ回ったが、全てを傍で見ていたイルダまでもが詩人の言い分に同意したため、精霊の森の清浄さが身体から抜けるまで暫く黒面を外さなかった。




