150話 春と秋の天秤
──でも。
と、心の中でなにかがそう声を上げた。
確かに辛かった。苦しかった。失った。
しかし、けしてそれだけではなかった。
かえがたい出会いがあった。そうして親しみや喜びが生まれた。
友がいた。家族もいた。守りたい場所もあった。
命をかけて取り戻したものがある。
ブレスは誓った。
協会長シルヴェストリとカナンに、魔術師として〈古きもの〉となることを。
海の上でサハナドールにも誓った。
カナンの翼が戻る日を、カナンとともに待つことを。
兄にも誓った。
命あるかぎり、剣と盾となってウォルグランドを守ることを。
旅で出会った多くの人から、大切なことを数え切れないほど教わった。
母ルシアナとシルヴェストリに救われた命だ。
シルヴェストリはブレスの背中を押して旅に送り出してくれた。
聖王シャファクの記憶の石で彼の生き様を見た。
魔女たちの自由奔放さが価値観を広げた。
エルシオンには親友のウォルフと優しいデイナベルがエチカの帰りを待っている。
散々助けてもらったネモに、お礼のひとつも言えていない。
イルダもいる。兄と妹のいる未来はまだある。
そこにミシェリーはいない。
けれど白人魚のマルガリーテースは言っていた。
全てのものは取り込まれ、必ずいつかは世界の一部に還ると。
居なくなったとしても、美しかった過去の記憶はこの胸に在るのだと。
ブレスはゆるゆると首を振った。
だめだ。捨てられるわけがない。
もう死んでしまっているのならばともかく、まだ自分は生きているのだから。
辛くても悲しくても、帰る場所があるのならば帰る。
望む通りの素晴らしい人生か。
穏やかで、愛する者があり、尊敬され、豊かで、幸福な一生か。
それはきっと素晴らしいだろう。
でも春女神が与えたそれを生きるのは、ブレスではない。
ブレスがブレスとして生きることが出来るのは、今生だけだ。
「いいえ……いいえ、プライラルム様。私は帰ります」
ブレスは答えた。弱々しく、それでもはっきりと。
プライラルムは少しも変わらない涼やかな調子で、さらに問う。
「お前の愛する妖精が居ない世界に、それでも帰ると言うのですか?」
「帰ります。待たせているひとが、たくさんいるから」
泣き濡れた顔を上げて、プライラルムを見上げる。
強がって笑おうとして失敗する。
きっとひどい顔をしていることだろう。
「苦みや痛みを知ってしまった以上、お前はもう、以前のように無邪気に笑うことは出来ないでしょう」
「……ええ。でもきっと、無邪気でいることだけが喜びでは、無いと思うんです。少なくとも旅の途中で見てきた人達は、そうだった」
涙で滲んでよく見えないプライラルムの金髪に向けて、ブレスはもう一度、はっきりと答えた。
「私は帰ります。帰らせて下さい」
しばし沈黙した彼女は、じっとブレスを見つめた。
意思が変わらないことを確かめるように。
やがて、はぁ、とあきれたような小さなため息が、プライラルムの唇からこぼれる。
「サハナ、賭けはあなたの勝ちね」
──賭け?
どういうことだろうかと隣の秋女神に顔を向けると、彼女はいつもと同じようにぎゅうとブレスに飛びついた。
「ほらね姉様、言ったでしょ。フィーはちゃんと自分で決められるって」
今まで黙りこくっていたのはなんだったのかという勢いでそう言い、サハナドールはふふんと笑う。
「うちの子たちはやれば出来る子なんですぅ。姉様は生まれたての純新無垢なものしか愛でないからわからないんだ」
「サハナドール! 姉上に向かってなんだその口の利き方は!」
「あっひゃい……ごめんなさい兄上」
ヘリオエッタの一喝にしゅんと小さくなった彼女は、ブレスにだけ見えるようにぱちんと片目をつむった。
何がなんだかさっぱりわからない。
周りがみんな神様なので、勝手に話し出すわけにもいかない。
せめていちばん付き合いの長いカナンならば教えてくれるだろうかと横目を向けると、我関せずといった態度で葉っぱでウサギを折っていた。
本当に頼りにならない先生だ。
「ごめんね、フィー。フィーがぼろぼろになって眠らされた後、フィーに借りを返すべきだって話を姉様から聞いて、あたし、賭けをしないかって吹っ掛けたんだ。今しかないって思ってさ」
それはブレス自身にこれから生きる道を、未来を選ばせるというものだった。
何もかもをまっさらな状態に生まれ直す春の未来か。
それとも苦さをのみ人間として成熟する秋の未来か。
プライラルムとサハナドール、どちらの手を取るか。
プライラルムが勝った時は、ブレスに満たされた新しい人生を与え、借りを返す。
そしてサハナドールが勝った時は、あるものをプライラルムに要求し、それを譲渡して借りを返す。
「賭けはあたしの勝ち。姉様、あたしが姉様に要求するものはただひとつ」
彼女はすっくと立ち上がり、大きな狐に乗った小さな姉を見下ろして告げた。
「ミシェリーをもう一度生み出して。ずっと昔、あの子をあたしにくれた時みたいに」
通常、生き物は肉体が滅ぶと魂は輪廻に還り、長い時をかけて記憶を漂白され、無垢となった後にプライラルムの手によって別の生き物の器に振り分けられる。
血に連なる記憶を引継ぐ竜など、例外はいくつか存在するが、妖精も基本的には妖精の輪廻の中で巡っている。
妖精の場合、記憶は残らない。
しかしサハナドールが言うことには、ミシェリーは少々特殊な生まれで、そして特殊な状態で消えたらしい。
「妖精ってさ、いろんな力が自然と何かに宿って発生するんだけど、あの子は姉様が故意に黒猫に力を集めて作った妖精なんだよね。だから、黒猫の体に姉様が同じように力を込めて、魂さえ同じものを用意出来れば、ちゃんとミシェリーになるんだよ。理論上は」
思えばミシェリーはただの妖精にしては、あらゆることを知り過ぎていた。
真名を奪われることの弊害やら、カナンたち四柱の血の秘密やら、単なる猫妖精の知り得る物事ではない。
彼女は春の乙女から秋の娘への贈り物だったのだ。
「ずっと飼い猫だった」とミシェリーも言っていた。
「……でも、魂は漂白されて記憶は残らないのでしょう? 同じ黒猫で同じ魂でも、それは……」
ミシェリーではない。
泣き疲れた上に混乱する話を聞かされて、ブレスは木にもたれかかったまま顔を拭う。
プライラルムはヘリオエッタを連れてどこかに行ってしまい、カナンは「眠気覚ましに水浴びに行く」と言って去った。
冬眠あけは眠いのだろうか。
ブレスはいま、残されたサハナドールとふたりで彼らを待ちつつ話している。
「フィー、覚えてない? ミシェリーにお守り作ったの。首にかけるやつ」
「ああ……もちろん、覚えています」
懐かしい思い出だ。
指で描く印ではなく、魔力を流して刻印が出来るようになったばかりの頃、ブレスが初めて作った守りの魔術具がミシェリーの首飾りだった。
思い出したらまた涙が滲んできて、ぐすぐすと鼻を鳴らす。
「その時さ、印に言霊を込めたでしょ。ミシェリーをいつまでも守ってくれますようにって」
「……はあ、そうですが、それが……?」
結局守ってはくれなかった。
ミシェリーは消えてしまった。
「あの子があの魔女ラミアの呪いを受けた時にその首飾りを身につけていたのなら、魂が輪に還ったとしても、ミシェリーとして守られてるかもってことよ。竜みたいに、記憶の漂白がされないまま」
「え……じゃあ、全部覚えているってことですか……?」
「それはやってみないとわかんないけど。結構時間たっちゃってるし」
そうかと肩を落とし、ブレスはふと首を傾げる。
「時間がたっている? あのサハナドール様、いま何月……っていうか、私はどのくらいこの森にいるんでしょうか」
「ん? さぁどうだろうね。カナンが起きてきたんだから春の一の月か二の月くらいじゃない? 拐ってきたのはエッタだから、あたしは知んない」
「……さらって……」
ひくひくと顔が引きつった。
考えてみればあのヘリオエッタが、わざわざ人間に事情を話して行動するはずがない。
ウォルグランドでは失踪してから何ヶ月で死んだと見なされるのだろうか。
「帰る場所が無くなってたらどうすれば……」
「そしたらあたしと一緒に暮らそ」
お気楽な彼女の言葉にがっくりと顔を覆っていると、大木の合間を縫ってプライラルムとヘリオエッタが戻ってきた。
「見つけましたよ」
涼し気なプライラルムの声。
ヘリオエッタは相変わらず無言のまま、木に寄りかかって腕を組む。
「見つけた? ミシェリーの魂を見つけたの?」
「はい。ヒワが根の国で迷っているところを見つけました」
「あ、なんだ。そもそも天に向かわなかったのか。やっぱり未練があったんだねぇ」
しみじみと呟くサハナドールに、狐をいい子いい子と撫でるプライラルム。
あの三尾の狐の名前はヒワと言うらしい。
「さあ、器はどうしましょうか。やはり黒猫が良いですか?」
その言葉はブレスに向けられていた。
「そうですね……ミッチェの黒髪、好きだったから」
「よくわかりますよ。わたしも、このヒワの毛並みが大好きですもの」
橙の目で甘く微笑み、プライラルムはくるくると玉を撫でるように両手のひらを動かした。
空気をそっと撫でる度に薄い膜がはる。
やがてそれは蚕のまゆのような、白い球体になった。
プライラルムはその華奢な手を上げると、彼女自身の腹部にすっと差し込んだ。
なんの予備動作もなく、当たり前の顔でやっている。
神々のみなさんが無反応なのでブレスも黙っておく。
やがて彼女は腹から手を抜いた。
その手には淡い光が握られている。
姿がなくともミシェリーだとわかった。
「あ……!」
咄嗟に立ち上がろうとして失敗し、立ちくらみを起こして座り込んだ。
「これこれ。落ち着いてくださいな、ミシェリー。あなたの宿主は無事ですよ。あなたは生まれ直すために、この揺かごに入るのです」
星のように瞬く妖精の魂を、プライラルムはそっと球の繭に閉じ込めた。
内側から淡く光るそれを、彼女は狐の上でそっと抱きしめた。
「ああ……そうだったの。ええ、わかりましたよ……」
胸に抱いた繭に頬を寄せて、プライラルムは目を閉じて微笑んでいる。
ミシェリーと話しているのだろうか。
ミシェリーはなんと言っているのだろう。
やがてプライラルムは繭から頬を離した。
彼女はその華奢な手のひらで八度、優しく繭を撫でる。
怖々と見守るブレスの前で、ごそごそと中身が動いた。
小さな肉球が繭玉を突き破り、やがて真っ黒な子猫が顔を出す。
視線がかちあうなり、子猫はブレスにくわっと牙を剥いて威嚇した。
ものすごく怒っている。
けれどどうしようもなく笑ってしまう。
ミャーミャーとわめく黒猫を繭玉から受け取って、ブレスはそっと顔を寄せる。
「……なんて小さいんだ、ミッチェ」
ミシェリーは猫の言葉で何かを訴えている。
意味はわからないけれど、文句を言っていることだけはわかった。
産まれたての青みがかった子猫の目を間近で見つめる。
見えないはずだろうに、見られていると感じる。きっと気のせいでは無い。
小さなその目の奥に、会いたくてたまらなかった妖精の自我を感じた。
むっすりと黙り込んだ子猫。彼女に向けて約束をする。
「今度はちゃんと、君を守るよ」
笑いかけるブレスをじろりと見つめた子猫は、フスッと不本意そうに鼻息を吐いてブレスの額に頭突きをした。
猫の愛情表現である慣れ親しんだ頭突きに、ああ、ミシェリーだなぁ、と思った。
生まれたてのみっともない姿を見られるなんてとブチ切れ気味のミシェリーさん。
春女神の問いかけは童話の「池に落としたのは金の斧か、銀の斧か」みたいなものでした。どちらも違うと正直に答えた木こりだけが全て貰える。